林 建紀のハーレム五十七士 vol.37
スウィング|コンボ J.C.ハード:J.C.Heard(ds, vo)当時40歳
1950年代のJATPにあってオール・スター・ジャム・セッションと臨時編成コンボのリズムを担ったのがバディ・リッチ、次いでJ.C.ハードだ。チック・ウェッブ、シド・カトレット、ジョー・ジョーンズといったスウィング派の巨人の奏法を融合し、さらにはバップ・ドラミングをも取り入れたハードは、新旧の世代が競演を繰り広げるJATPのセッティングには好都合のドラマーだったと言える。日本との縁も深い。1953年11月にJATPに加わって来日すると一行ともども熱烈な歓迎をうけ、暮らしぶりも気に入ったハードは1年ほど滞在した。公演の直後には秋吉敏子(p)の初リーダー・セッションに、翌年には笈田敏夫(vo)のセッションに参加し、秋吉、ナンシー梅木(vo)らと活動した。
1917年10月8日、ジェームズ・チャールズ・ハード:James Charles Heardとしてオハイオ州デイトンで生まれ、ミシガン州デトロイトで育つ。10歳でドラムスに手を初めたが十代の頃はヴォードヴィルのダンサーだった。当時のアイドルはキューバ・オースチン、ウェッブ、カトレットだったという。テディ・ウィルソン楽団(1939-40年)で名をあげ、コールマン・ホーキンス楽団(40年)、ベニー・カーター楽団(41年)、キャブ・キャロウェイ楽団(42-45年)を渡り歩く。1946年から48年にかけてはコンボを率い、46年にはJATPでも演奏している。そのかたわらビバップを含む多くのセッションに参加した。やがてJATPに加わり、1953年からツアーで訪れた日本に滞在、オーストラリアなどを経て57年に帰国する。1958年に再びJATPに参加、ブラッセルとカンヌを巡演した。その後はニューヨークを拠点に活動、ホーキンスのコンボなどで演奏し、コンボを率いてロサンジェルスやラスヴェガスでも活動する。1966年にデトロイトに移り住み、81年からモダン・ビッグバンドを率いた。1988年9月27日、ミシガン州ロイヤル・オークで逝去。
初録音は1939年5月、ウィルソン楽団のブランズウィック・セッション(2曲、1曲は未発表)だ。仲間内で高く評価されつつも短命に終わった楽団の初録音でもある。音質は芳しくない。ビートのキープはハイハットの4ツ打ちによるものと聴いた。あとはリム・ショットが聴けるくらいだ。初期の奏法を知るには6月以降のセッションのほうがいい。ビートのキープはハイハットに委ね、スネアによるオン・ビート・アクセントにリム・ショットを含む2ツ打ち、時にフロア・タムによるパラディドルを交えるといった具合だ。ウェブ流の躍動感、シド流のリム・ショット、ジョーンズ流のハイハット・レガートと、さほど個性的ではないが堅実で、手数の少なさからくる単調さを覇気が打ち消している。《ブーリー‐ジャ‐ジャ》は初期の快演だ。このあとしばらく奏法に変化は見られない。続くホーキンス楽団でもワンパターンだが、スタジオ録音(1940年8月、オーケー)よりサヴォイからの実況放送(同月)のほうが活き活きしてはいる。同楽団も短命に終わった。ビジネス・モデルを確立していた業界は、経営の才を顧みず次々に独立させていたのだ。
カーター楽団のブルーバード・セッション(1941年1月)ではワンパターンの極みだが、活気があって救われる。1940年から42年にかけて参加したビリー・ホリデイ(vo)、ヘイゼル・スコット(p)、テディなどのコンボ・セッションに見るべきものはない。ブラシを主体にタイムキープに徹している。テディのセッション(1941年9月、コロンビア)からトップ・シンバルによるビートのキープが見られるようになるが、本格化にはほど遠い。1943年に入団したキャロウェイ楽団は最盛期を過ぎていたが、依然として第一級の偉容を誇っていた。水が合ったのだろう、かつてなく躍動的で力強い。ライヴ特有の熱気が漲る実況放送(1944年8月・45年7月)が一番で、《ロシアン・ララバイ》は屈指の快演だ。一方、同僚らと組んだコンボでは上記と同様で、単調な演奏も少なくない。1944年7月のアイク・ケベック(ts)の《インディアナ》(ブルーノート)、ピート・ブラウン(as)の《アイ・メイ・ビー・ウロング》(キーノート)がまずまずだった。前者からトップ・シンバルによるビートのキープ、スネアのオフ・ビート・アクセントというモダン化が進む。
退団後はほぼコンボ演奏で通している。これまでコンボではスリルや精彩を欠くことが少なくなかった。悪しき影響と見るべきか、お気に入りの一人だというリッチがそうだ。傾聴に値するものが出てくるのだろうか。1946年から率いたセクステットのセッション(3月、コンチネンタル)では月並みで、JATP(5月・6月、ヴァーヴ)では手数は多いが平板だ。1940年代の後半で好演と呼べるのはケベックの《ザ・マスカレード・イズ・オーヴァー》(46年9月、ブルーノート)、ハワード・マギー(tp)のセッション(47年12月、ダイアル)、自己の《オロッパ》(48年5月、アポロ)くらいだろう。奏法の上ではディジー・ガレスピー(tp)のセッション(1946年2月、ビクター)でバップらしくなる。
1950年代も堅実とも単調ともつかない演奏を量産していく。そんななかでは堅実ながらスウィンギーなサポートを見せたレスター・ヤング(ts)のセッション(1952年11月、ノーグラン)がいい。JATP(1953年9月、ヴァーヴ)では持てる技を総動員、リズム・マシーンさながらだ。実にアグレッシヴだが、長時間演奏が一本調子を促してしまった。JATPの来日公演(1953年11月、パブロ)でも技の在庫一掃セールで臨んでいるが、出来はこちらが勝る。JATP屈指の名演揃いで音質も良好だ。ハード云々にかかわらず持っていて損はない。この直後の『アメイジング・トシコ・アキヨシ』(ノーグラン)では久々に好サポートを見せた。ほぼステディなブラシ・ワークだが、活気と躍動感に満ちている。1957年の帰国後は相変わらず堅実とも単調とも思える演奏が続く。そんななかでは初リーダー・アルバム『ジス・イズ・ミー、J.C.ハード』(1958年3月、アーゴ)が見逃せない。ドラムスに加えてボンゴや甘いヴォーカルを披露するなどエンターテイナーとしての面を打ち出し、軽快でナチュラルなスウィング感が漂う快適盤に仕上げている。
1960年から61年にかけてはプレスティッジ系のセッションが集中した。モダン系ではジョン・ライト(p)のトリオ作『ナイス・ン・テイスティ』(1960年11月)が上々だ。堅実だが一本調子ではない。1952年の秋から見られるようになるハイハットの2ツ踏みの本格導入が効いている。ここでのハードは普通にモダン・ドラマーと呼んでいいだろう。スウィング系ではショーティ・ベイカー(tp)とドク・チータム(tp)の『ショーティ&ドク』(1961年1月、スウィングヴィル)が上々で、《ベイカーズ・ダズン》《ララバイ・イン・リズム》は中期の快演だ。このあと1960年代の録音は参加説があるものを含めても3セッションしかない。ロサンジェルスやラスヴェガスでの活動、1966年にデトロイトに移り住んだことが効いたのだろう。参加説があるカウント・ベイシー楽団の『ベイシー・ピックス・ザ・ウィナーズ』(65年1月、ヴァーヴ)のドラマーは別人ではないかと思う。
1970年代はブルース/スウィング系レーベル、ブラック&ブルー(仏)のセッションが集中した。実に18セッションに参加していて、1978年の3月などは4日続けての登板になっている。いずれも堅実にして単調、ワンパターンの謗りは免れない。イリノイ・ジャケー(ts)のセッション(1978年3月)、ジョナ・ジョーンズのセッション(7月)では幾分活発だが、それが普通だと言われればそれまでだ。残念ながら見るべきものはない。
このあとはデトロイトに落ち着き、地元ジャズ界のドンのような存在になった。ハード名義を含めて7セッションあるが、どれも自主制作のようだ。3作目で最後のリーダー・アルバム『サム・オブ・ジス、サム・オブ・ザット』(1986年12月、ヒロコ)が聴けた。1981年から率いたビッグバンドの唯一の記録だ。恐らくスコアによるものと思われるが、これほど多彩なドラミングを繰り広げるハードはまたとない。フィルインは頻出するし、アンサンブルのフレーズに合わせたメロディックな叩き込みも見せる。とはいえ、ドシャメシャではない。ビッグバンド・ドラミングとしてはスタティックな部類に入り、総じて快適なビートを送り続けることに専念している。圧巻はソロを含めて活躍する《ニカズ・ドリーム》で、生涯の名演ではないか。8曲中5曲では、声は衰えたものの甘い語り口のヴォーカルも聴かせる。サド‐メル系と思しきサウンドは大して個性的ではないし、キーボードやフェンダー・ベースの採用はコーニーに響くが、バンドのまとまりが実によく、上質のエンターテインメント性を備えたモダン・ビッグバンドの好盤に仕上がっている。
推薦盤は入手の難しさを顧みず『サム・オブ・ジス、サム・オブ・ザット』(ヒロコ)に決めた。これに次いでは『ジス・イズ・ミー、J.C.ハード』(アーゴ)がいいだろう。これらで、ハードの志がエンターテインメント性と音楽性の両立にあったことがわかる。奇矯な芸で客を引き寄せる一方でバンドを第一級に育て上げたキャブに憧れていたのではないか。単調だとかワンパターンだとか、ドラマーとしての技量を云々するのは見当外れかもしれない。このほかに特筆した演奏やアルバムについてはハード目当てに追う必要はなく、それらを聴く機会があればハードにも耳を傾けていただくことで間に合うと思う。
「その時」は帰国の翌年、再びグランツの傘下で活動していた。3月には初リーダー・アルバムを録音、7月にはJATPでブラッセルとカンヌを回っている。「その時」、大物ドラマーは階段に集中した。ハードは気後れしたのか遅れて来たのか、写真の右、ロイの後ろで微笑んでいる。肩口から覗く右手が不気味だ。背後のジェリー・マリガン(bs)のものにしては妙に捩れている。なんのことはない、隣でふざけるディジーのものだった。
J.C.Heard/Some of This, Some of That
Hiroko Records
Recorded on December 26, 1986.
A Great Day in Harlem


