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2009.12.30

林 建紀のハーレム五十七士 vol.38

スウィング|中間派     ヴィック・ディッケンソン:Vic Dickenson(tb)当時51~52歳

 中間派をスウィング派とモダン派の中間と思われている方が少なくないようだ。そんな使い方をしている文章もまま見かける。欧米ではメインストリーム・ジャズと呼ばれる。スウィング派とモダン派の中間に位置する過渡期的なスタイル(モダン・スウィング)を“主流”と呼ぶはずがないだろう。本来はディキシーでもモダンでもないということだ。つまりスウィングだが、黒人の演奏をスウィングと呼ぶことを嫌ったジャズ評論家時代の大橋巨泉氏が中間派と名付けた。スウィングとは明るく軽快な楽想からジャズとは別物とうけとめられた白人主導のジャズに付けられたものなのだ。狭義では1950年代の半ばに興隆したスウィング・セッションを指すが、広義ではモダン期のスウィング・セッション全般を指す。そもそもはバップ胎動期に興隆した、ビッグバンドの行き方に反旗を翻し、一方で急進的なバップにも与しなかったスウィング派によるコンボ・セッションを指す。1950年代の半ばに再興した中間派の覇者となったのがバック・クレイトン(tp)、それにヴィック・ディッケンソンだった。独得の寛ぎに満ち、機知に富む、超個性派の名手だ。

 1906年8月6日、ヴィクター・ディッケンソン:Victor Dickensonとしてオハイオ州ジニアに生まれる。16歳の頃にプロ・デビュー、中西部のバンドを転々としたあと、ニューヨークに上った。ブランチ・キャロウェイ楽団(1933-36年)、クロード・ホプキンス楽団(36-39年)で名を上げ、次いでベニー・カーター楽団(1939-40年・41年)、カウント・ベイシー楽団(40-41年)で働く。戦時中はフランキー・ニュートン(41-43年)、エディ・ヘイウッド(43-46年)などのコンボで演奏し、シドニー・ベシェ(ss)らとも共演した。1947年、西海岸を楽旅中に健康を害して休養、その後は同地で、やがてボストンを中心に活動する。1957年にニューヨークに戻り、60年から68年まで「セインツ&シナーズ」を率い、64年にはエディ・コンドン(g)のグループに加わって来日した。1968年にボビー・ハケット(co)とコンボを結成し、「ルーズベルト・グリル・ホテル」に長期出演している。1970年から73年は「ワールド・グレイテスト・ジャズ・バンド」に加わって欧米各地を回った。最晩年まで第一線で活動し、1984年11月16日、癌によりニューヨークで逝去。

 初録音は1927年11月、ウィリー・ジョーンズ楽団のジェネット・セッションだ。手を尽くしたが見つからなかった。1930年12月、ルイ・ラッセル楽団のブランズウィック・セッションの1曲に歌手として参加している。甘い歌唱が時代を感じさせるがプロ級だ。1931年11月に参加したザック・ホワイト楽団のジェネット・セッションはお蔵入りした。キャロウェイ楽団のセッション(1934年8月/パーフェクト、35年11月/ヴォカリオン)中の4曲、ホプキンス楽団のセッション(37年4月/デッカ)中の1曲、カーター楽団のセッション(39年7月/放送録音、11月/ヴォカリオン)中の6曲で聴けるソロがそうだという確信はない。ディッキー・ウェルズ系のマイルドなソロはそうではないかと思う。

 結局、どうにか識別できるのは少しは“らしく”なるベイシー楽団の録音からだ。《アイ・ガット・リズム》(1940年2月/放送録音)の先発はディッキー、後発がヴィックだろう。闊達な前者に対して後者はややルーズなのだ。それにしても、両者の識別には難儀する。ヴィックがディッキーの影響から脱しきれていないからだ。ヴィックとされるか、そうと見られるのは《アイ・ネヴァー・ニュウ》の後発と《ルイジアナ》《レット・ミー・シー》(1940年3月/コロンビア)、《ブロウ・トップ》(5月/以下オーケー)、《ザ・ワールド・イズ・マッドⅠ》(8月)、《ロッキン・ザ・ブルース》(12月)だ。《アイ・ネヴァー》は初期を代表する好演だが、あとはまずまずといったところ。ベイシー楽団時代は、いまだ絶頂期の余燼をくすぶらせていたディッキーに一歩を譲っていたようだ。約1年で退団、一時的にカーター楽団に復帰した。《マイ・フェイヴァリット・ブルース》(1941年4月/ブルーバード)で、くぐもったトーンによるルーズな語り口という、よりヴィックらしい個性の確立に向かっていることがわかる。これも初期の姿をとらえた好演にあげておく。

 このあとは概ねコンボ一筋になる。ベシェのセッション(1941年10月/ビクター)でソロは許されていないが、のちに持ち味になるノンシャランな語り口を見せて興味深い。2曲に聴くヴォーカルは奏者の流儀だ。エドモンド・ホール(cl)のセッション(1943年11月/ブルーノート)になるとヴィックにほかならない個性が確立されている。ベシェのセッションでの進境に照らして1942年には出来上がっていたのではないか。《ハイ・ソサエティ》が一番の出来で、そのほかも上々だ。このあと、スタイルが変わることはない。くぐもり感が強かったり弱かったり、張りが強かったり弱かったり、トーンの変化はまま見られるが、その時々のミュートの使用頻度も効いているように思う。実際、ヴィックのオープンと多用したプランジャー・ミュートの差は小さく、識別に困ることがままある。ともあれ、ここからは代表的な演奏を中心に述べていく。水準以上の演奏は無数にあってあげきれない。平均点の高さは己の個性に忠実な姿勢を貫いた証だ。また、朗々型ならぬ朦朧型とでもいうべきアプローチはトロンボーンの機能も拡張したと言っていいだろう。

 前記ホールのセッションに続く、ベシェの《セントルイス・ブルース》(1943年12月/Vディスク)、ホールの《アップタウン・カフェ・ブルース》(同月/コモドア)も上々だ。前後して参加したヘイウッドのコンボでは出番は少なく露出度も低い。売りはリーダーのピアノと洒落たアンサンブルだった。なかでは《恋のため息》(1944年2月/コモドア)、《ジャスト・ユー、ジャスト・ミー》(3月/同)が貴重な好演だ。同時期のアルバート・アモンズ(p)の《ボトム・ブルース》(2月/コモドア)、ジェームズ・P・ジョンソン(p)の《ブルー・ミズ》《ジョイ・メンティン》(3月/ブルーノート)も好演だった。出来は普通だが、4人のトロンボーン奏者が競演したベニー・モートンの「トロンボーン・クワイア」(5月/キーノート)は識別に唸る面白い演奏だ。ヴィックとその流れを汲むビル・ハリスの差異が知れる。1945年ではコールマン・ホーキンス(ts)の《アイム・スルー・ウィズ・ラヴ》(3月/キャピトル)、ヘイウッドの《コケット》(11月/デッカ)、奔放な面を見せたレスター・ヤング(ts)の《D.B.ブルース》(12月/アラジン)が上出来だ。

 1946年、戦後不況が襲う。参加セッションは前年の26件から9件に落ち込む。ソロの機会も乏しいなか、ヘイウッドの《ユー・メイド・ミー・ラヴ・ユー》(8月/デッカ)が唯一かつ在団時屈指の快演になった。1947年、事態はさらに悪化する。一聴に値するのはジャスト・ジャズ・コンサートの《ジャスト・ユー、ジャスト・ミー》《ワン・オクロック・ジャンプ》(4月/GNP)しかない。創造的ではないが、張りのあるトーンによる活気に満ちたロング・ソロが聴ける。このあとはジュリア・リーの歌伴が続くが、3回目となる11月のセッション(キャピトル)でも珍しくヴァイタルなソロをとっている。この時期に顕著なアグレッシヴなアプローチはトラミー・ヤングにかぶれたのではないかと思うが、健康悪化のせいか、幸い実を結ばなかった。年が明け、第二次録音ストライキが始まる。同年中には活動を再開したようだ。1949年5月にはホールのコンボに加わってボストンの「サヴォイ・カフェ」に出演、次いでカーターのセッション(モダン)に参加している。ここからホール、ベシェ、ハケットなど、ディキシー派との活動がメーンになっていく。

 いまだ病み上がりだったのか、1949年5月から52年4月までに残した彼らとの共演に大したものはない。1952年6月、ヴィックはブルーノートでリーダー・セッションに臨み、復調以上の結果を出す。張りがあって音域も高いのにマイルドで、時にグロウルも交え、表現力を発揮する。2曲のバラード、《テンダリー》とトミー・ドーシーの十八番に挑んだ《センチになって》は味わい深い名演だ。同年はこれといった録音に恵まれなかったが、1953年も好調は持続していた。ピー・ウィー・ラッセル(p)の『ウィアー・イン・ザ・マネー』(1953年/ストリーヴィル)などはスペースの小さいのが惜しまれる。ベシェの『アット・ストリーヴィル』(5月/同)も、《C・ジャム・ブルース》《ハニーサックル・ローズ》などのスウィング系を中心に半数は好演だ。傑作『ヴィック・ディッケンソン・ショウケース』を生み出す態勢は整っていた。この機をとらえたヴァンガードのジョン・ハモンドはエラい。12月、セッションに臨んだヴィックは張りのあるマイルドなトーンで歌心に溢れた立て付けの良いソロを繰り広げ、好演と快演が半ばする中傑作をものする。

 ライヴ活動で多忙だったのか、1954年も録音の機会はわずか3件にとどまっていたが、11月に録音した『ショウケース第2集』が前作をしのぐ傑作になった。くぐもり感のあるトーンをメーンに、文字通りワイルドに疾走する《ランニン・ワイルド》からウォーム&ジェントルな《オールド・ファッションド・ラヴ》まで、すべてが快演に値する。サイドマンの助演も光り、ヴィックの傑作にとどまらず中間派の傑作になった。続く参加作では『ザ・ルビー・ブラフ・スペシャル』(55年10月/ヴァンガード)の半数、ジミー・ラッシング(vo)の『イフ・ジス・エイント・ザ・ブルース』(57年3月/同)が上々で、『ジ・エディ・コンドン・オールスターズ・ディキシーランド・ジャム』(8月/コロンビア)はディキシー系のベストだ。後者の露出度は低いが活力と構成力に富むソロで引きつける。ラッセルの『ポートレート・オブ・ピー・ウィー』(1958年2月/カウンターポイント)、ホールの『小さな花』(12月/ユナイト)中の4曲、ビッグ・ジョー・ターナー(vo)の『ビッグ・ジョー・ライズ・アゲイン』(59年9月/アトランティック)も好演だった。

 1960年代に入るとスウィング派との活動が増えてくる。望ましい。ヴィックをヴァーサタイルな名手と評価する声があるが、ソツなくこなせるとハマっているとは別物だろう。過去、スウィング系のほうが好演や快演の発生率は高い。ところがである。期待に反して芳しくない。依然として個性的で衰えも窺えないが、可もなく不可もない凡演が支配的になり、わずかとはいえアイデアを欠いた駄演すら見られるのだ。来日時の記録『エディ・コンドン・イン・ジャパン』(1964年3-4月/キアロスキュロ)では上手いことは上手いのだが印象に乏しい。ヨーロッパ・ツアーの記録『ジャズ・フロム・ア・スウィンギング・エラ』(1967年3月、フォンタナ)でもソツがないだけの月並みな演奏が多数を占める。及第点は《アイ・メイ・ビー・ウロング》《ヴィックス・スポット》の快演を筆頭に本来の出来を示すオールスターズの『昔は良かったね』(1961年5月/スウィングヴィル)しか見当たらなかった。1960年に組織した「セインツ&シナーズ」の経営に煩わされていたのだろうか。1968年に始まるハケットとの共演でも当初は停滞を脱する兆しは見られない。

 1970年の春、事態は好転した。『ライヴ・アット・ザ・ルーズヴェルト・グリル第4集』(3-5月/以下キアロスキュロ)の目玉はハケットだが、ヴィックも水準以上の好ましい出来を見せる。同所でのライヴ盤は6作あるが、キアロスキュロの第1作(1970年5月、『第1集』の表記はない)が最上だ。ディキシー系とスウィング系が混在するが、洗練のハケットに余裕のヴィック、激することのない両者の持ち味が遺憾なく発揮されている。両者が快走する《スウィング・ザット・ミュージック》と、ヴィックをフィーチャーした《オール・マイ・ラヴ》ほか2曲は晩年を代表する快演だ。面白いことに両者の好不調は同期している。『第2集』(1970年5月)と『第3集』(70年4月か5月)はともに元気が足りない。それほど相性がよかったのだろう。同時期に参加し始めた「ワールド・グレイテスト・ジャズ・バンド」では大所帯とあって出番は少ないし露出度も低い。ヴィックに限らず個人プレイが目当てなら諸作を追う必要はないだろう。それを抜きにすればコマーシャルな『ホワッツ・ニュウ』(1970年12月/アトランティック)が楽しいアルバムだ。

 60代の半ばを過ぎてもクラブにコンサートに旺盛な活動を続けていた。ヨーロッパにも再三渡っている。しかし、老いは確実に訪れていた。精彩を欠いて衰えを確信させたかと思うと、今度は活気を甦らせるといった具合で、調子の持続が難しくなっていたようだ。ミュートと細切れフレージングの多用は息の衰えをカバーする方策に思える。後者などはタレ流し感を強めただけだ。そんななかで、ベッシー・スミス(vo)とその歌唱を彩った名手チャーリー・グリーン(tb)に捧げた『プレイズ・ベッシー・スミス:トロンボーン・チャーリー』(1976年3月/ソネット)は味わい深い秀作になった。ミディアム系のブルースを中心に、ウォーム&ジェントルな持ち味を発揮する。これに1週間先立つブラフの『ゼム・ゼア・アイズ』(同)でも好調だ。このあとは、さすがに参加録音は散発になる。なかでは、出番は少なくアル・グレイに一歩を譲るが、『ベイシー・ジャム:モントルー’77』(1977年7月/パブロ)が好演だった。1980年代にこれといったものは見当たらないが、70代の半ばを過ぎても決してボロボロではない“普通の演奏”ができたのは凄いことだ。

 推薦盤は、『ジ・エッセンシャル・ヴィック・ディッケンソン』(ヴァンガード)にした。『ショウケース第1集』の全曲と『第2集』の7曲中5曲を収めている。これに次いでは『プレイズ・ベッシー・スミス』(ソネット)と、『ライヴ・アット・ザ・ルーズヴェルト・グリル』(キアロスキュロ)がいい。旧い演奏を聴くなら『ア・トゥルー・トロンボーン・マスター』(EPM)が便利だ。1940年から46年までの好演と快演がほぼ収められている。未収録のブルーノートへのリーダー・セッションは何かの機会に是非とも聴いてほしい。
 「その時」に先立つ1957年、ヴィックは久しぶりにニューヨークに戻っている。多くのスウィング派と同様に、ライヴにレコーディングに多忙な日々を送っていた。「その時」はヨーロッパ巡演を終えて帰国した直後だ。ちなみに、ベシェと共演したブラッセル録音の遅いほうの日付は8月3日とされる。「その時」の範囲が少し狭まった。「その時」は写真右側の後列、レスターの隣にいる。温厚な人物のようだ。推薦盤のジャケットでは洒落た格好でノンシャランにキメている。ヴィックの音楽性をもとらえた好ショットだと思う。

A Great Day in Harlem

The Essential Vic Dickenson
Vanguard
recorded on December 29, 1953 & November 29, 1954.

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