column / コラム
back number
2010.01.21

林 建紀のハーレム五十七士 vol.39

スウィング|中間派     バック・クレイトン:Buck Clayton(tp)当時46歳

 バック・クレイトンは黄金期のカウント・ベイシー楽団で名をあげ、1950年代の半ばに再興した中間派の雄となる。苦みばしった男前、均整のとれた体、りゅうとした身なりの好漢だった。上海に行ったのは差別を避けるためだったと聞くが、そこでも海兵隊の輩に酷い目にあわされている。アンクル・トムらしからぬ風体が反感を煽ったのではないか。プレイも然り、人は見かけによる。トーンは堅く渋く、フレーズはかっちり引き締まり、高級紳士服をまとうようだった。ルイ・アームストロングの簡明な語法をジョー・スミス(黒人には希なビックス・バイダーベック系)流に洗練したと言えよう。ただ、こうした地味で律儀な行き方は人気者はもちろん、巨人への道も阻んだようだ。好悪を別にして、ロイ・エルドリッジの傑作を即答するのは容易いが、バックは難しい。ロイは正真正銘の巨人だ。バックは巨人ではないが名手で済ますには大物すぎて、その位置付けは難しい。似たタイプにアート・ファーマーがいる。アートはバックの延長線上で一城を築き上げたのだと思う。バックは早く生まれすぎたのか、ロイにもアートにもなりえなかったのか。

 1911年11月12日、ウィルバー・ドーシー・クレイトン:Wilbur Dorsey Claytonとしてカンザス州パーソンズに生まれる。6歳でピアノを始め17歳でトランペットに替えた。高校卒業後にロサンゼルスに移り、当地のバンドを転々とする。1934年にビッグバンドを編成したが、ほどなく上海に渡り、フランス租界のボールルームで専属バンドを率いた。1936年に帰米するとロサンゼルスでバンドを結成するが、同年の秋、ウィリー・ブライアント楽団に請われニューヨークに向かう。その途上のカンザス・シティでベイシー楽団に勧誘され、やがて看板ソロイストになる。在団中にはテディ・ウィルソン(p)やビリー・ホリデイ(vo)らのセッションにも加わった。1943年11月に兵役に就くが、その合間に数々のセッションに参加している。1946年に除隊するとJATPの一員になり、47年にはコンボを結成、48年にはジミー・ラッシング(vo)と活動、49年9月にはコンボを率いてヨーロッパに渡り、50年6月まで単身で同地に留まった。1951年から52年まではジョー・ブッシュキン(p)と組み、53年にはメズ・メズロウ(cl)とヨーロッパを回っている。

 1953年12月、コロンビアで一連の「ジャム・セッション」がスタート、同シリーズとヴァンガードの諸作を通じてバックは中間派を代表する存在になる。1956年にはコンボを率いてニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演し、57年には再編されたベニー・グッドマン楽団に加わったあとヨーロッパを回り、58年にはブラッセルの万国博で演奏、59年にはニューポート・ジャズ・フェスティヴァルで渡欧した機会に再び同地に留まり、フランス、スイス、イギリスなどを転々とした。1964年の春にはオーストラリアを経て、エディ・コンドン・グループと来日している。1960年代も欧米各地のフェスティヴァルを中心に旺盛な活動を続けていたが、69年?に唇の手術を受け、72年には演奏を断念した。1973年に作/編曲者で復帰、自己名義を含む数作にスコアを提供している。1975年から80年代の初めまでハンター・カレッジで教鞭をとり、1983年にはベイシー楽団の出身者を率いてヨーロッパを回った。1986年にビッグバンドを旗揚げし、作/編曲にクラブ出演に海外ツアーに精魂をふりしぼっていたが、91年12月8日、就寝中にニューヨークで逝去。

 初録音は1937年1月、ベイシー楽団のデッカ・セッションだ。既にキャリアは十分、出来あがっている。生涯を通じて大きな変化は見られない。時の経過とともに、緩やかにモダン化が進行したというほどのものだ。まして、その時々の動向や潮流に関心を寄せることもなかった。己の領分を弁え己の流儀を貫く、それもまた己の個性に忠実な生き方と言えよう。そんなわけで、研究者はともかく、一般のファンが変遷なるものを見出すべく1600曲に及ぶ録音を精査する必要はなかろう。とはいえ、数が数だけに、ガイドブックで紹介された演奏を聴けば間に合うとも言い切れない。取りこぼしがないのか気にかかる。ここからは各年代の好演や快演を中心にとりあげ、効率的なガイドを目指したいと思う。

 バックがベイシー楽団および選抜コンボで残した録音は全録音の4分の1に及ぶ。その4分の1ほどで聴けるソロは総じて水準以上と言ってよく、好演と快演は20曲を超える。ベイシー楽団のものでは、簡潔でメロディアスな《スウィンギン・アット・ザ・デイジー・チェイン》(1937年1月/デッカ)、シャープでスウィンギーな《セントルイス・ブルース》(2月/放送録音)、《ビューグル・ブルース》(6月/同)、渋さの極みの《グッド・モーニング・ブルース》(8月/以下デッカ)、《ドント・ユー・ミス・ユア・ベイビー》(10月)、《ブルース・イン・ザ・ダーク》(38年1月)、タイトで立て付けのいい《スウィンギン・ザ・ブルース》(2月)、《ジャンピン・アット・ザ・ウッドサイド》(8月)、ブルージーな《ゴーイン・トゥ・シカゴ》(41年4月/オーケー)、珍しくファイトを漲らせた《フィエスタ・イン・ブルー》(9月/同)が文句なしの快演だ。1938年にハリー・エディソンが入団すると出番の減少にともなって快演も減るが、渋いバックと華麗なエディソンの二本立てはテナーのレスター・ヤングとハーシャル・エヴァンスのそれに並ぶ好対照となった。

 選抜コンボのものでは、カンザス・シティ・ファイヴ:KC5の《アイ・ノウ・ザット・ユー・ノウ》(1938年3月/コモドア)、レスター名義でまとめられているKC6の《ゼム・ゼア・アイズ》《アイ・ウォント・ア・リトル・ガール》(9月/同)、『レスター‐アマデウス』(フォンタスティック)に収録されているKC6の《君去りし後》(12月/ライヴ)、『レスター・ヤング・メモリアル・アルバム』(エピック)ほかに収録されているKC7の《ディッキーズ・ドリーム》(39年9月/ヴォカリオン)が代表作だ。ミディアム・バラードの《リトル・ガール》では繊細な、そのほかのファスト系ではタイトで均整のとれた持ち味を発揮している。このほか、同時期のコンボ録音ではビリー・ホリデイ(vo)との共演が聴き逃せない。大和明氏は『ベスト・ジャズ ベスト・アルバム』(音楽之友社)でバックの一番にあげておられる。氏の肝識には頭が下がるが、テディ・ウィルソン楽団の《ホワイ・ワズ・アイ・ボーン》(1937年1月/ブランズウィック)、《キャント・ヘルプ・ラヴィン・ダット・マン》(11月/同)の味わい深い語り口には誰しも魅了されるだろう。

 1943年11月に兵役に就く。コロンビアとビクターを除く各社が録音を再開、中間派が勃興した時期にあたる。普通ならその恩恵に浴することはできなかっただろう。幸いにも任地はニュージャージー州のキャンプ・キルマーだった。ニューヨークの近郊とあって、除隊するまでに17セッションに参加している。ただ、軍務の疲れからか、1945年以降は平凡とも水準ともつかない演奏が支配的になっていく。文句なしの快演は『ザ・コンプリート・レスター・ヤング』(マーキュリー)に収録されているKC7の《デスティネイションK.C.》(1944年3月/キーノート)くらいだ。同セッションの《シックス・キャッツ・アンド・ア・プリンス》、コールマン・ホーキンス(ts)の《シャンティ・イン・オールド・シャンティ・タウン》(1944年10月/キーノート)ほか、テディの《ストンピン・アット・ザ・サヴォイ》(45年8月/ミュージクラフト)、チャーリー・ヴェンチュラ(ts)の《レッツ・ジャンプ・フォー・リタ》(同月/ブラック&ホワイト)ほか、ホット・リップス・ペイジ(tp)の《コルシカーナ》(9月/コンチネンタル)も上々だが、やや落ちると思う。

 1946年の春に除隊するとJATPに加わった。4月のコンサートではドンチャン騒ぎのお膳立てにのってハイノートをヒット、らしからぬ面を見せるが、総じて持ち味に即した好ましい出来を示している。構成力に富み、乗りに乗った《アイ・ガット・リズム》ではロイ風のアプローチを見せて興味深い。同年中の各種セッションに見るべきものはない。持ち味こそ損なわれていないが通り一遍の出来だ。1947年もパッとしないなか、JATP(録音日不明)の《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》《ベル・ボーイ・ブルース》は久々の快演になった。もっとも、ロイがちらほらするハイノートとレガート・スタイルを没個性的だと言われたらそれまでだが。第二次録音ストライキと重なる1948年はヘレン・ヒュームズとフランキー・レインの歌伴くらいしかない。ストライキがなかったとしても大したものは残せていないだろう。どうも演奏に迷いを生じていたように映る。1949年、ストライキが明けて参加セッションは増えるが、ダイナ・ワシントンやホリデイの歌伴、ルイやサイ・オリヴァー(ldrのサイドマン仕事が続く。

 1949年の秋、セクステットを率いて訪れたパリで本来の良さを取り戻す。実に快調で、好演と快演が目白押しとなる。リーダー・セッションの《ブルース・イン・ファースト》《ブルース・イン・セカンド》(10月/ロイヤル・ジャズ)、《ナイト・ライフ》(11月/同)、アール・ハインズ(p)の《ジャパニーズ・サンドマン》(11月/ヴォーグ)、ウィリー“ザ・ライオン”スミス(p)の《ナガサキ》(12月/ロイヤル・ジャズ)が何れ劣らぬ快演で、ハインズとスミスの残りも好演だ。転地療法というべきか、迷いが吹っ切れたのだろう、ロイ風のアプローチは見られない。引き締まったファスト系に味わい深いミディアム系、持ち味を遺憾なく発揮している。1950年6月まで同地に留まったが録音は残していない。帰米後は再び停滞に陥ったようだ。ペギー・リーやリー・ワイリーほかの歌伴、ベニー・グッドマン(cl)やポール・クイニシェット(ts)ほかのサイドマン仕事ではもちろん、ジョー・ブッシュキン(p)と組んだ双頭カルテット、バスター・ベイリー(cl)と組んだディキシー・バンドなどのリーダー・セッションに大したものはない。せいぜい水準だ。

 1953年の春、メズ・メズロウ(cl)とヨーロッパを回り、またしてもパリで気を吐いた。メズのライヴ(3月/ヴォーグ)では、準ディキシー系とあってアンサンブルのリードが中心でソロの出番は少ないし、それらも特筆すべき出来ではない。スタジオ・セッション(4月・5月/ヴォーグ)でもメズ名義では同様だ。ところがである。自らがリーダーに納まると、俄かに本領を発揮した。《スウィートハーツ・オン・パレード》《パトリシアズ・ブルース》《スペシャルBC》《シーズ・ファニー・ザット・ウェイ》と、寛ぎと味わいに満ちた快演が連続する。本領はサイドマンでは、少なくともディキシー系では発揮できる性質のものではなかったということだろう。このあと滞欧中に参加した各種セッションにこれといったものは見当たらない。帰米後の1953年12月、バックに陣頭指揮をとらせたコロンビアの「ジャム・セッション」シリーズがスタートする。カンザス・シティ・スタイルのジャム・セッションにあって、リーダーシップを備え、作/編曲に秀でたバックの起用は的を射たものというべきだろう。

 1956年3月まで続いたシリーズは「長過ぎるとか、よくリラックスしているとか、賛否相半ばした」(粟村政昭『ジャズ・レコード・ブック』音楽之友社)。いずれも11人以上の大所帯でソロをリレー、LP片面に1曲から3曲の長尺ジャム・セッションとあっては、寛ぎと冗長は表裏一体だったと言える。5枚のアルバムに分散収録された19曲でバックの出来が良いものだけをあげると、《ジャンピン・アット・ザ・ウッドサイド》(1954年3月)、《ロック‐ア‐バイ‐ベイシー》《ブロードウェイ》(55年3月)が好演、《アウト・オブ・ノーホエア》《ブルー・ルウ》(55年3月)が快演だ。ちなみに《ウッドサイド》と同日の《ブルー・ムーン》ではウディ・ハーマン(cl)一世一代のプレイが聴ける。同時期ではメル・パウエル(p)との共演が聴き逃せない。『メル・パウエル・セプテット』(1953年12月/ヴァンガード)は屈指の快演揃い、『ジャム・セッション・アット・カーネギー・ホール』(54年4月/コロンビア)がこれに次ぐ。評価の高い『バック・ミーツ・ルビー』(1954年7月/ヴァンガード)では新鋭ルビー・ブラフ(tp)に一歩を譲っていると思う。

 同時期では自ら編曲にあたった歌手との共演作にいいものがある。ラッシング、アダ・ムーアを迎えた『キャット・ミーツ・チック』(1955年8月/コロンビア)は中々の好盤、半数で聴かれるソロも上々だ。続くフランキー・レインの『ジャズ・スペクタキュラー』(1955年10月/コロンビア)は名唱、快適な編曲と伴奏、奏者の優れたソロと、三拍子揃ったヴォーカル名盤になった。バックの露出度も高く、概ね好演と言っていいだろう。1956年以降は自他を問わず普通の出来が支配的になる。代表作とされる『バッキン・ザ・ブルース』(1957年3月/ヴァンガード)にしても聴後の印象に乏しい。目ぼしいものをあげると、ホーキンスの『ザ・ハイ・アンド・マイティ・ホーク』(1958年2月/フェルステッド)が上々で、味わい深い快演と活気に満ちた好演が続くクイニシェットの『ベイシー・リユニオン』(9月/プレスティッジ)が傑出している。リーダー録音では『コペンハーゲン・コンサート』(1959年9月/スティープルチェイス)がスウィングの香り高い好ライヴになった。バックは構成力に富み、歌うように弾むようにスウィングしている。

 1960年代も水準か水準プラス・アルファの出来が少なくない。ピー・ウィー・ラッセル(cl)の『スウィンギン・ウィズ・ピー・ウィー』(1960年3月/スウィングヴィル)は相性の良さが知れる快盤だが、もちろん主役はラッセルだ。『コペンハーゲン・コンサート』には及ばないものの『オランピア・コンサート』(1961年4月/ヴォーグ)、『バーゼル1961』(5月/TCB)はまずまずと言える。滞欧中に残した『パスポート・トゥ・パラダイス』(1961年5月/ヴォーグ)は自然なスウィング感と寛ぎに満ちたこの時期一番の好盤だ。サー・チャールズ・トンプソン(p)のサポートも光る。『エディ・コンドン・イン・ジャパン』(1964年3-4月/キアロスキュロ)では中々好調で、スペースの小さいのが惜しい。1965年からヨーロッパでの録音が急増する。なかではベン・ウェブスター(ts)と組んだ『ベン・アンド・バック』(1967年6月/ストリーヴィル)が最上の成果だ。歌いまくり乗りまくっている。これが最後の快演になりそうだ。トランペットをおく時がきていた。唇と健康の悪化を裏付けるように、1968年の録音は8曲、69年は2曲しか残っていない。

 1972年にプレイを断念、73年に作/編曲者として復帰した。『バディ・テイト・アンド・ヒズ・バディーズ』(1973年6月/キアロスキュロ)、3作が制作された『バック・クレイトン・ジャム・セッション』(74年3月・6月、75年6月、76年9月/同)などがある。そもそもバックの編曲はソロイストを活かすべくKC流のリフ・アンサンブルや全合奏で通す簡明なもので、聴き所に乏しい嫌いがあった。これらも同様だ。さらに、後者はソロイストが精彩を欠いて冗長極まりない。1986年に編成したビッグバンドの『ア・スウィンギン・ドリーム』(88年10月/スタッシュ)、『ライヴ・フロム・グリニッチヴィレッジ』(90年2月/ナゲルへイヤー)ではKC流一辺倒ではないが、それほど個性的でもない。ミルト・ヒントン(b)の『オールド・マン・タイム』(1990年3月/キアロスキュロ)が最後の仕事のようだ。やはり編曲らしさはない。編曲家としての代表作はベイシー楽団の《ゴーイン・トゥ・シカゴ》(前出)、グッドマン楽団の《ラトル・アンド・ロール》(1945年12月/コロンビア)、レインの『ジャズ・スペクタキュラー』(前出)に尽きると思う。

 推薦盤には唸った。快作は十指に余るが傑作がないのだ。個性に照らせば是非もない。得点の高い順に、クイニシェットの『ベイシー・リユニオン』(プレスティッジ)、『メル・パウエル・セプテット』(ヴァンガード)をお薦めする。「ジャム・セッション」ものでは快演を集めた『ジャム・セッションズ・フロム・ザ・ヴォールト』(コロンビア)がいい。旧録の大半はベイシーやレスターの名盤で揃うが、1枚ものなら『ヒズ・ベスト・レコーディングス1937-1946』(ベスト・オブ・ジャズ)がホリデイほかとの共演も含む好選集だ。
 「その時」の1958年、バックもまたレコーディングにツアーに多忙な日々を送っていた。生涯を通じて最多の37セッションに参加している。「その時」もブラッセルの万国博から帰米した直後で、翌月には推薦盤『ベイシー・リユニオン』で活躍した。男盛りの46歳、階段の上方で柔和な笑みを浮かべてすっくと立つバックには体力と気力の充実が窺える。バックを追うと、温厚、冷静沈着といった美徳が必ずしも表現の武器になりえないことを改めて思い知らされる。その位置付けは“名手の中の名手”としておくしかなさそうだ。

A Great Day in Harlem

Paul Quinichette/Basie Reunion
Prestige
Recorded on September 5, 1958.

トラックバック

このエントリにトラックバックはありません。
トラックバックURL:
このトラックバックURLを使ってこの記事にトラックバックを送ることができます。 もしあなたのブログがトラックバック送信に対応していない場合にはこちらのフォームからトラックバックを送信することができます。
※トラックバックする記事には,この記事へのリンクを含めてください。
※記事と直接関係のない内容のトラックバックはお断りする場合があります。
連載タイトル一覧
General
disc review
live review