critique / 音楽批評
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2010.03.04

後藤雅洋×益子博之 往復書簡「ジャズにおける身体感覚の変容と認識の切断面 再考」 vol.34

「ジャズ批評の妥当性の条件」あるいは「音楽批評の公準」を示したい

後藤:確かに「肩すかし」したみたいで「物足らない」と感じられた方は相澤さんだけでなく、読者の中にもおられたと思いますので、そのあたりの事情をご説明しようと思います。言うまでもありませんが、相澤さんとの「思わぬ一致」は、無理に妥協、同調したということではなく、フト目に付いた記事で「眼からウロコ」だったというのが真相です。

とは言え、相澤さんのおっしゃるように、当初は相澤さんのご意見に「反論」を書いたのも事実ですから、順序から言っても、その反論を書いたときに自分が考えていたことからご説明するのが順当でしょう。

話は少々長くなりますが、そもそも私がthinkを書き始めた動機は、いささか大仰ですが「ジャズ批評の妥当性の条件」あるいは「音楽批評の公準」を示したいというところにありました。もちろん浅学菲才の私にそのような大それたことが出来るとは思っていませんが、かといって、どなたか他にそのような仕事をお見かけすることがない以上、誰かが「最初の一歩」を踏み出すしかないという「捨石」的気分で始めたというのが本当のところです。ですから、私の書いたものを読んで、「言いたいことはわかるけれど、ここが違う、あそこが見当外れ」と、より力のある方が先に進んでいただければと、ある意味で気軽に書き始めたというところもあるのです。

ポイントは二つで、まず、私たちが音楽を聴くときに起こる最初の出来事は「感覚器官」において起こるという事実。この、あまりにも当然のことが音楽評論において見逃され、また、「感覚」なるものの性質が皆様方に余りよく理解されていないようなので、まずそこのところの共通理解を作っておくということ。この部分に関しては、いわゆる「現象学」なかんずく、モーリス・メルロ=ポンティの『知覚の現象学』(みすず書房)に大きく負っています(詳しくは私の個人ブログの『think』をご覧ください)。

ちなみに「理解されていない」というのは、「感覚」は個人の主観であるという根深い思い込みのことです。つい最近com-post掲示板で交わされた「めひかり」さんとの意見交換でも、「理屈抜きにいいなあ、かっこいいなあという感情を起こさせる“自分の耳”に従った判断」は、もっとも根源的かつ個人の主観的価値観に属する事象であるという、極めて“常識的な”ご意見が開陳されておりましたが、私が問題にしているのは、その「個人の感覚」自体が、すでに固有の文化によって「色付け」られている(すなわち「個人的」ではありえない)という、ご存知の方にとっては当たり前の事実がご理解いただけていないという歯がゆさです。

もちろんそうした(“感覚”について理解していない)立場であっても、音楽を楽しむには何の不都合もありません(現に私自身、公に論じる必要の無いクラシック、ロック、ポップスなどを楽しむときは、取り立てて自分自身の感覚のありようを相対視したり客観視したりはしておりません)。しかしながら、それを自覚しない(つまり感覚は主観の問題だと信じておられる)ままの音楽評論は「夜郎自大」以外の何者でもないのではないでしょうか。もっともそういうお立場の方は、「ジャズについていろいろ言ってみても、所詮は好みの問題」と高を括っておられがちで、評論とか批評行為自体を内心無意味と考えておられるようです。

次いで、その「感覚」を基盤として成立しているさまざまな文化現象を分析し、具体的なジャズのケースについて考えてみるということ。そして、「ジャズ評論」が何に準拠していれば、それなりの妥当性を備えることができるか、というのが、私の当初の目論見だったのです。この部分に関しては、「世界中のジャズファンの集合(平たく言えば集まりのこと)」の「共同主観性(間身体性)」が「ジャズ的価値」の基準となるであろう、というのが私の主張でした。

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