後藤雅洋×益子博之 往復書簡「ジャズにおける身体感覚の変容と認識の切断面 再考」 vol.35
ジャズに対する誤解の大部分は「ジャズファンではない人たち」からなされている
また、恐らくはバップ以降の即興演奏についてでしょうが、ジョン・ケージも、ジャズの即興が即興本来のあり方から問題があるという趣旨の発言をしていますが、これもまたジャズの即興の意味を理解していないところから来る誤解のように思えます。当然彼もまた良い「ジャズ耳」の持ち主とは思えない。
話を元に戻すと、前者の「感覚」については、ある程度「現象学」について理解のある方にとっては常識的なことばかりで、特に問題は無かったように思います。難しいのは後者の「ジャズ的価値」で、まず、「世界中のジャズファンの集合」という概念が、当然循環論法とならざるを得ない。ジャズの概念がはっきりしなければ、ジャズファンの集合というカテゴリーだって決定できない。しかしこうした事物、事象の概念を人々が把握する過程(砕いて言えば、子供が“ことば”の意味、用法を理解する過程)で見出される「循環」(内包がわからなければ外延は決定できない、また、多くの内包はとりあえず知られている外延から帰納的にしか抽出できない)は、私たちの周りにはいくらでもあって(幼児が「犬」の概念を把握する過程をご想像ください)、現実は、その循環の中に入りつつ私たちは対象の概念(言葉の意味)を少しずつ掴んでいるのが実態でしょう。
ですから、この部分については私の能力の限界ゆえにあまりうまく説明が出来ていないことは認めますが、別にそれほど見当はずれな話だったとは思っておりません。つい最近も私の経営するジャズ喫茶「いーぐる」で行われた連続講演において、明らかに「ジャズファン特有の感性の傾向(私はこれを便宜的に「ジャズ耳」と呼んでいるのですが)」の存在を予想させる出来事がありました。要するに「ジャズファン共同体の共同主観性」である「ジャズ耳」の持ち主たちが、他の音楽ジャンルの価値観とは少し異なった固有の「ジャズ的価値」を支えているという、私の主張を裏付けるような事象が見聞されたのです。
それは、いわゆる「実験音楽」に区分される、ジャズとは言えない音楽に対するジャズファンの嗜好性に、明らかな同一傾向が見られたことです。ちなみに、このとき問題のケージの音楽が一番「ジャズ耳」の持ち主たちからは評判が悪かったことは、何かしらケージの音楽観を暗示しているようにも思えます(詳しくは私の個人ブログ2月27日の記述をお読みください)。この件は、同じ文化圏内の人間は「内部の差異」に眼が行きがちで、したがって「自分たち全体」が、実は他の文化圏から見れば「似たようなもの」として見られていることに気が付きにくいという、よく知られた事例に結びつくように思われます。


