後藤雅洋×益子博之 往復書簡「ジャズにおける身体感覚の変容と認識の切断面 再考」 vol.36
「現代ジャズのわかりにくさ」を「感覚の変容」として捉える必要はないのではないか
西欧クラシック音楽や民族音楽は、それを支える共同体の構成員の世代交代はあっても、とりあえず彼らの「共同主観性」は一定の同一性を備えているであろうことがある程度予想できますが、ジャズの場合は、その歴史の端緒の頃こそ「黒人(アフリカン・アメリカン)共同体」という一定の「枠」が共同体の構成員にあったとしても、早くも1920年代辺りからは一部の白人層にもファン、ミュージシャンが広がり、とうてい「集合」を構成する人間の枠組みを人種や居住地域等で規定することが難しくなってしまいました。
加えて厄介なのは、音楽自体も、ご存知のようにやれニューオルリンズだスイングだバップだモードだと、それこそ数年ごとにスタイルを変えてしまい、つぶさに観察すればそれらに一定の連続性を認めることが出来るとは言え、とうてい固定したスタイルなど抽出しようがありません。とりわけ、スタイルの大きな変革期にあってはジャズの定義自体が大きく揺らぎ、「これはジャズではない」という批判がジャズファン内部からも提起されました。
驚くことに、そうした時期においては、チャーリー・パーカーも、マイルス・ディヴィスも、オーネット・コールマンも「ジャズではない」と批判されたのです。つまり、そうしたジャズスタイルの端境期においては、当然ジャズファンの共同主観性(間身体性)に亀裂が生じ、結果としてジャズファンの外延(構成員の範囲)も揺らぎます。とは言え、ジャズはそうした価値の揺籃期を1940年代半ば(ビバップ革命)、1950年代末(フリージャズ論争)、1960年代末(エレクトリック・マイルス批判)と何度も乗り越え、結局パーカーも、オーネットも、マイルスの音楽も、すべて「ジャズ」として飲み込む度量の広さというか柔軟性を備えているのです。
私が示したかったのは、こうした柔軟で幅広いが、しかし他の音楽ジャンルとは異なった「ジャズ的価値観」こそがジャズ批評の判断基準となるべきであり、当然クラシック音楽の即興観や、ポピュラー音楽の価値基準(多くのファンから支持されること自体が価値)からのジャズ批判は、公平さを欠いた異文化批判の無意味さと同じように無意味であるという、極めて常識的な話だったのです。
しかしそうした、(私のやり方があまり手際よく行かなかったのは認めますが)ある意味常識的な話が、ちょっとしたほころびを見せ始めたのがthinkの中断期に当たるのです。つまり、「ジャズ耳」自体が揺らいでいるのではないか。また、揺らぎの意味、理由、原因が「感覚自体の変容」ではないのか? という疑問が私の内部で生じたところで、ようやく相澤さん益子さんはじめ、com-postで問題となっている「ポストモダンジャズ論議=認識の切断面=感覚自体の変容の可能性」に繋がるのです。
ところで、ここまでの話をお読みの方は、何も「ポストモダン問題」などと大仰に構えることは無く「ジャズ耳」の揺らぎは、ビバップ期にもフリージャズに対しても、またエレクトリック・マイルス批判においてもあったのではないか、と当然の疑問をお持ちのことと思います。それに対して私は、過去の揺籃期においては、たとえばビバップ容認派も批判派も「同じ音」を聴いた上での対立(知覚は同じだがそれに対する価値観が異なる)であったのが、ポストモダン期(その開始年代については諸説ありますが)においては「音の受容自体」が変容(知覚自体が異なっている)しているのではないか、という疑問を持ったのです。
実に長い長い前置きでしたが、こうした疑問を持っていたからこそ、相澤さんのすべてを「世代論」に還元するような論調(たとえばエレクトリック・マイルスに対する世代によるスタンスの違い)に対し、「ちょっと話が違うのでは」という気分があったのです。
それが変化したのです。私は感覚と言語の関係を、(相互に独立したものと捉えた上で)重層的なものと考えており、だからこそ「身分け構造が基礎で、その上に言分け構造が乗っている」と理解していました。またそういうことがあったので身の程知らずにも、果たしてフーコーの言う「認識の切断面」は「身体感覚の変容」をも伴っているのだろうか、などと大昔に読んだ「言葉と物」(新潮社)などを引っ張り出し、活字が細かすぎるなどと嘯いていたのです(情けないことにまだ再読し切れておりません)。
しかし、前回書いたとおり、野矢茂樹氏の文章を読んで、そのあたりの考えに微妙な変化が生じたのです。もちろん浅学菲才の身であり、とうてい「正解」に到達したなどという実感もないし、果たして野矢氏の論旨を正確に理解しているという自信も無いのですが、少なくとも今私たちが問題にしている「現代ジャズのわかりにくさ」を、私が考えていた意味での「感覚の変容」として捉える必要はないのではないか、という感触を持ちつつあるのです。
さて、まだ肝心な話の中心には到達せず、ようやく議論の入り口にたどり着いたところですが、あまり相澤さんや益子さん、そして他の読者の方々をお待たせするのもいかがなものかと思い、とりあえず一旦ここで筆を置きます。ただし、まだ話には続きがあるので、お二方の返事は、これに続く私の回答をお読みになってからでけっこうです。「続編」はなるべく早くお書きいたしますのでご容赦を。


