critique / 音楽批評
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2010.07.26

北里義之「現代即興論 ~20世紀末に即興演奏のパラダイムシフトは存在したのか〜」 vol.01

序言

 本論が扱うのは、第一に体験的なことであり、体験的なものを言語化する記述と分析の試みである。あるいはいまだ完全に過ぎさったとはいえない出来事を言語化する作業である。論じる対象は現代の即興演奏一般なのだが、ここでは特に「即興演奏のパラダイムシフト」(ペーター・ニクラス・ウィルソン)と呼ばれることもある1990年代にはじまった世界的な即興の変容を、現在の時点でどのように評価できるか、どのように評価したらいいのかという問題を、いくつかの論点を設定して議論してみることにしたい。端的に言うなら、この特異な時期を通過することによって、それが演奏者のものであれ聴き手のものであれ、即興演奏はもとより、音楽を聴く私たちの耳は、ほんとうに変容したのだろうか? もし即興演奏のパラダイムが変わり、私たちの耳も変容したとするなら、それはどのようなものからどのようなものへと移り変わったのだろうか? あるいは、事態はまったく逆で、音楽を聴くことの本質は、いまもなお変わることなく私たちの生の根底にあり、世紀末から新世紀へとふたつの世紀をまたいで起こった出来事は、結局のところ、一種のブームのようなものであり、いつの時代でもそうであるように、何人かのすぐれた音楽家を生みだしただけで終わった、単なる空騒ぎだったのではないだろうか?
 たしかに、この時期に実験的な演奏が数多くおこなわれたことは事実である。だからといって、そのことが私たちの耳の──あるいは感覚の──変容を証明するわけではない。新たな聴取スタイルの発見がおこなわれ、即興や音楽に対する認識はあらたまったかもしれないが、それが耳の変容、感覚の変容、ひいては主体(聴く主体,演奏する主体)の変容にまで結びついたといえるのだろうか? もし事態がそのような根源的な変化に行き着いていなかったとしたら、即興演奏のパラダイムシフトがあったと主張することはできないだろう。インプロヴァイザーが先行するインプロヴァイザーを批判しはじめた──俺のしていることを「即興演奏」と呼ぶな──、あるいは歴史的な切断を主張するようになったこの時期に起こったのは、即興演奏もまた、数限りない細部へと枝分かれしていき、現代美術の領域で早々に主張されていたパラダイム・ロストの時代に突入したというのが、おそらく正確な状況判断ということになるだろう。リオタールのポストモダンの条件としてつとにしられるように、いわゆる大文字の音楽を批判する大文字の即興も解体してしまい、私たちは個別の演奏についてなにかを言うことはできても、それをすでに共通感覚をもった即興概念でくくることはむずかしくなっている。そうした点からいうなら、最近になっていわれはじめた「インプロ」「自由即興」という言葉は、かつての即興演奏を言い換えたものではなく、即興演奏の大衆化であるとか、多岐にわたる即興演奏の現代的な多様性を含みこんだ、まったく新たな概念と考えるべきように思われる。どこにでもあるポストモダン論であるにもかかわらず、これもまたじゅうぶんにありえることである。
 問題は、たとえこのような状況があったとしても、私たちの耳は変容しうるということだろう。もしかすると即興演奏のパラダイムシフトをめぐる二つの解釈は、別々に存在するものではなく、パラダイム・ロストの時代へと突入した即興演奏のポストモダン状況下で音楽をしなくてはならない演奏家たちや聴き手たちが、リアリティーの再獲得を求めて、触覚のような、より根源的な感覚を発動させた結果が、耳の変容、感覚の変容として感じとられたと考えることもできる。かつてこうした歴史的変化を、ポストモダンに対するモダンの反撃、あるいは再評価というようにとらえたことがある。しかしこれから具体的に検討していくように、私たちが経験している出来事は、どうやらモダン/ポストモダンの二項対立にきれいに収まるようなものではないように思われる。ある部分ではモダニズムの伝統を行使し、ある部分ではポストモダンを快楽するといったような、きわめて複雑なものになっているのだ。
 この問題をさらにやっかいにしているのは、パーソナルな感覚という、極めて対象化しにくいものを構造化することなしに、その変容が意識化できないという点にあるように思われる。世紀の変わり目という極めて重要な時期に耳の変容を経験していない人が、そのことに無自覚に「即興演奏のパラダイムシフト」を論じていたり、自分の耳がすっかり変わってしまったことを知らずにいる人が、既成の音楽をまったく別のものとして演奏しているというような入れ子状態が、いたるところで散見されるのである。このようにキアスム状態となった感覚が複雑に交錯しているような場所に、ジャンルの境界線だとか、歴史的な切断面だとか、さらには安易な主体化などを挟みこむことは、かなり暴力的な挙措になるということがわかるだろう。生きて脈動している耳の生態環境を破壊してしまうことなく、それでもなにかを切開にもたらし、そこで私たちが体験した出来事をまるごと言語化するにはどうしたらいいのだろうか。以下の論述は、このように入れ子状になってからみあう感覚の諸相──お馴染みのドゥルーズ=ガタリ用語でいうなら、リゾーム化した感覚世界──にわけいって、既成の概念によって事態を整序することなく、そこに一種のメタ即興論を構築する試みとなるだろう。四分五裂する即興演奏の現実に深く根ざしながら、音楽批評と呼べるような大地的な言語のトポスを仮設することが獲得目標となる。

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