天鼓×巻上公一 往復書簡「ヴォイスの挑戦」 vol.05
言葉とヴォイスの近くて遠い関係
北沢タウンホールでピアノの前に座って演奏するふりをしたのは、観ている人には視覚情報だけでも何かが聴こえるだろうと思ったからです。人それぞれに違った何かが。
私は歌をうたうときには、もうすでに自分の知っているイメージをできるだけしっかり表現することに集中しているけど、即興のときは音を紡いでいくことに集中していて、イメージを持つことはオーディエンスに任せてしまう。例えばアートで抽象と具象というものがあるけど、抽象性の高いもののほうが受け手の想像力を、より自由にさせるような特性を持っている気がする。これはもちろん良い悪いの話ではなくて。言葉や構成のある曲をやること(具象)はイメージを自分が創りあげる面白さだし、即興演奏(抽象)はイメージを観る側に創ってもらう面白さがあると思う。これは即興者によっては全然違う考え方があるだろうから一概には言えないかもしれないけれど、私はそう感じています。
「楽器と声の違いは、やはり言語」という意見はどうかなあ。
私にも(昔のことだけど)巻上君のシドニーでの逸話に似た体験はあるけれど、人間の「これが何であるか知りたい」「わかりたい」という、あくなき欲望は侮りがたい。それに、声を言葉を使うための道具としてしか意識してこなかった人には、意味を持たない声を出すこと自体、理解の範疇を超えているのかもしれない。そこで、脳の”思い込み””整合性のバランスを取るための方便”みたいなかたちで声の中に意味や自分の知っている言葉を捉えようとするというのは、当然の帰結かもしれない。
ヴォイスをやっている最中にひとつ言葉を入れると、皆それに飛びつきます。ああ、自分の知っている世界があった!という安心。もしくは、この言葉が何かの鍵かもしれない!という期待。「考える」の基本は「言葉」だから、言葉をとりあげられると動揺するのよね。聖書の最初のセンテンスは確か「始めに言葉ありき」だったっけ。
言葉を使ってヴォイスパフォーマンスという人もいますね。言葉を逆手に取ればかなり効果的なことができる。言葉の繰り返しや音としての言葉を展開させるやり方もある。面白いと思うんだけど、私はひとつのパフォーマンスの中で、言葉を使うことと言葉を使わずにパフォーマンスするのをまぜこぜにやるのが苦手だった。このふたつは、脳の全然違う部分の活動じゃないかと思う。最近は焦点の合わせ方がクリアになったのか、わりと瞬間的に切り替えられるようになったけど。
だけど「非言語は成立するのか」って、成立してない? ホーメイだって言語としてとらえている人は少ないと思うし、特に特殊な声については声そのものの興味で聴いているんじゃないでしょうか。私自身、ヒトの声というより機械音みたいな声を出していることもけっこうある。観客がヴォイスパフォーマンスにも慣れてきているし、言葉を期待されるというエポックは通り過ぎたと思っていますが。
それにしても、トゥバでのシャーマン体験の話は笑えたー。いまバンド用の曲を準備してるから、これヒントにして1曲つくってもいいですか?タイトルは『穢れの数値』というんだけど。近代化したシャーマンということ自体すごい矛盾ですけど、シャーマンが、消滅するのでなく計量器(なに測ってるの、ほんとのとこ!?)引っさげてのしのしと現れてくるなんて感動的。たいへんたくましいね。いまだ何が起こっても不思議ではない時空を持った国なんでしょう。解き明かされていない”ホーメイの謎”にもいっそう興味がわきますね。
「ホーメイは風の模倣、ボルバンナディルは水の流れの模倣........」という部分で思い出したのですが、以前読んだ本に中国の唐か随の時代だったかに芸能としてモノマネがあって、でもそれは日本で言うところの人や動物の真似ではなくて、例えば「秋の庭」だの「嵐の夜」だの、風景描写のモノマネだったらしい。風の音や木のざわめきなんかを声帯模写で表現していたとか。それはそのうち廃れてしまったらしいけど(どうしても何の本に書いてあったか思い出せない。見つけたら報告します)。これって案外、トゥバのほうから流れてきた人たちが稼ぐために始めたんだったりしてね。長安などはとんでもない国際都市だったから。


