special / 特集記事
2008.12.19

続・ジャズの明日へ 〜ジャズにおけるモダニズムとポストモダニズムの境界とは?〜 vol.19

ジャズの「見取り図」は書けるのか? 必要なのか?

村井:というようなことをやっているとキリがないんですけど、ジャズの現状って、こう話してみると、中心点がないみたいな感じがするわけですよ。昔は、アメリカのジャズの話をしていれば、あとはオマケというか、主流に対して反主流みたいなことで見取り図が書けた、というか、書いてみたら、あっそうか、ってわかったと思うんだけど、今はそれがなかなかできない。これだけしゃべっていても、なんだかよくわからない。じゃあ、その見取り図は書けるのか、あるいは、書くことに意味があるのか、というようなことは、ジャーナリズムということも考えて、ちょっと面白い議論かな、と思うんですけど、どうでしょうね?

益子:書けるのか書けないのか、というところと、必要なのか必要じゃないのか、というところは、それぞれ別々の問題になると思うんです。それで、僕はどう思うかというと必要だと思う派です。今はジャズについてあまりに何がなんだかわからない状況だと思うので。例えば、僕はアメリカの現代ジャズは好きですけど、それが今でも世界最高峰でジャズの主流である、などという気はありません。でも、歴史的に言えばジャズはアメリカ生まれの音楽なので、そこを全く無視して、ヨーロッパのジャズ最高! とか言われてもあまり意味ないなぁ、と思うんですよ。それに、ジャズの歴史みたいなものって、せいぜい70年代まで、あるいはウィントン・マルサリスが出てきたあたりまでしか公には語られていなくて、それ以降についてはまったく存在しないじゃないですか? そういう意味でも歴史なり見取り図というものは必要だ、というか、単純に欲しい(笑)、と思います。

後藤:僕もね、書けるか書けないかというと確かに難しいと思いますが、必要だと思いますね。批判する材料としてでも。どんな見取り図書いたとしても絶対どっか違うに決まってるんだけど、だから書かなくていいっていうものじゃない。批判する素材としても書いたほうがいいと思いますね。

村井:では、それをどういうふうなやり方をして書くのが有効であるのか。なかなか難しいと思うのは、昔に比べて飛躍的に聴くべきものの数が増えていますよね。それが何に対してどういう意味があるか、かなりきちんと考えないと。これもあります、あれもあります、っていうだけだと、それは見取り図じゃないじゃん、みたいなことになるし。
で、僕が思う有効な方法のひとつは、歴史を参照していくことしかないと思うんです。今ある音楽って、ポコッと生まれたわけじゃなくて、必ず何かに対する参照だったり、カウンターだったりするわけで、それを見ていくと現象だけパッと表層を見るよりは、少しは意図が伝わってくる気がする。
今本当に難しいのは、昔から本当はそうだったけど、ジャズのことだけ知っている人には、ジャズの見取り図はもう書けないんだ、という気がする。もう一人の人間の能力を超えてますから困っちゃうんだけど、例えば益子さんがさっきおっしゃっていたけど、別のジャンルの音楽についてある程度の知識なり認識なりがないとだめだろうし、地域的なこともあって、アメリカの音楽だけ聴いていてもだめだろうし、ただそれはなんでも聴きなさいっていうのとも違う。ある種の選んでいく力、センスが必要で、あと、いい友人がいっぱいいるといいね、っていう話じゃないけど、いろいろなジャンルに詳しい人と協力して進んでいくということも必須になってきますね。
そういう意味では、昔に比べてハードルがかなり高くなっている。見取り図を書くという行為は誰かがやらなきゃいけないだろうし、一人じゃできなかったら何人かでやろうよ、というのでもいいと思うんです。

益子:歴史の問題もありますが、同時代的に言っても各地で全く関係ないまま、バラバラにやっているわけではない。一時期一部でノルウェイ未来派だとか、ポール・ニールセン・ラヴがどうしたとか話題になりましたけど、彼らだってノルウェイに閉じ籠もってはいない。例えば、シカゴ派と凄く緊密にやっていたりして、特にインゲブリクト・ホーケル・フラーテンなんかシカゴに移住しちゃいましたからね。こういう例をひとつ挙げただけでもわかるように世界中でつながりあっている、そういう側面もとても重要だと思います。

後藤:僕も自分じゃ全然見取り図なんか書けないんですけど、とにかく分担してやるしかなくてね。あれもある、これもある、じゃ話にならならないんで。ニューヨークのシーンでもヨーロッパのシーンでも、一度そのジャズ史的意味みたいなものを言わざるを得ない。だいたいこういうこと言うと嫌がられて、そういう風に音楽を意味づけて聴くというのはいかがなものかっていわれるのはわかっているんだけど、今はそれをせざるを得ないわけでしょ。要するに、ジャズという音楽を聴く共同体というのだろうか、共通感覚っていうものがすごく曖昧になっているんだから。イタリアのハード・バップとニューヨークのジャズをともに語る言葉がうまく見つからない。ジャズを紹介する場合、どういう価値観から見れば、あるいはどういう視点で評価できるということを言わないと、ただこれはいいというだけでは今や意味ないわけですよ。ま、そんな感じでそろそろエンディングに強引に持っていくわけですけど。

村井:こんなややこしい、といいましょうか、結論も出ないような話に付き合っていただいてありがとうございます。こういう話や、ジャズの見取り図みたいな話をいろんな角度でいろんな人としたりという場が今ないので、益子さんが中心になってジャズのサイトを始めたいという話があって、そのあたりを益子さん、説明お願いします。

益子:いや、僕が中心になって、というのは結果論であって(苦笑)、まぁ、たまたまそういう巡り合わせになってしまったんですけど、いーぐるに集まる人たちの間で今みたいな話をしていて、言い出しっぺは須藤(克治)さんですけど(笑)、雑誌などに期待していても無理だし、いきなり本を出すといっても、売れないというか(笑)、お金もかかるとか(笑)、いろいろハードルが高いので、インターネット上で何かできないか、という話をしばらく前からしていたわけです。それで、この3人を含め、いつ頃スタートできるのか、まだわからないのですが、そういう試みをやっていけたらいいな、と思っています。で、僕らが内輪で勝手なことを言っているだけでは意味がないし、つまらないなとも思っていて(笑)、商業的な縛りもないので(笑)、さっき話に出たようにまだまだなんだかんだ言ってもジャズ界にはセクト主義みたいなものがなんとなくありますよね? そういうものも崩していけたらいいなぁ、という希望(笑)を内に秘めつつ、と思っておりますが。ハイ。

<終了>

※本稿は2008年5月17日(土)に行われた、いーぐる特集 連続シンポジウム「ジャズ・ジャーナリズムの現状を考える」第3回の内容に加筆・修正を行ったものです。
2008.12.19

続・ジャズの明日へ 〜ジャズにおけるモダニズムとポストモダニズムの境界とは?〜 vol.18

レトロ化する(?)ポップ・ミュージックとジャズ

益子:それに関して言うと、さっき話したポップスでどういうメロディならいいと思うのか思わないのかという話も、どっちがいいとか一概に言えないわけですよ。明らかに変わってはいるんだけど。今の若い人たちがそっちのほうがいいんだというのは、身体感覚が違うのだから事実としてしようがないという部分があって、それを理解できるかできないかは受け手の価値観やリアリティの問題なのかな、と。それで、ジャズが変わったのか変わらないのか、という話に戻すと、今ジャズと呼ばれている音楽って、ほぼイコール、モダン・ジャズのことなんですよね、日本で語られる場合。それで言うと、たぶん70何年か頃でモダン・ジャズは飽和して云々、という話は僕も全くその通りだと思うんですけど、100年あまりのジャズの歴史を改めて振り返って置き直して見ると、実はモダン・ジャズというのはジャズの中でも相当異質なものだったのではないかと(笑)、かなり暴論なんですけど(笑)、そういう感じも抱いているんですね。

村井:ということは、それ以前のディキシー、トラッド・ジャズ、スウィングみたいなものと、モダン・ジャズを比べると、モダン・ジャズのほうが鬼っ子であるってことですか?

益子:はい。例えば表面的な比較だけで言うと、個人のソロを中心に置いたアドリブ至上主義的なものではなくて、楽曲の表現に重心があったり、メンバー相互の関係性の力学やコレクティヴ・インプロヴィゼーション(集団即興演奏)的な部分に表現の核心があったりという側面から見ると、現代のジャズはむしろプレ・モダンに近い性格が強いと言えなくもない、と。

後藤:確かに、私も自分の本で書きましたが、パーカー以降のビ・バップそしてその流れに乗った“モダン・ジャズ”というのはかなり特殊だということは言えると思う。

村井:例えば、デューク・エリントンのやっていた音楽って、もの凄く懐が深いわけで、チャールズ・ミンガスやセシル・テイラーという人たちは全くモダニストなんだろうけど、デューク・エリントンの豊饒さみたいなものに、もの凄く影響を受けていますよね。
いわゆるフリー・ジャズのほうに行ったとしても、エリントンが参照されてるってことがある種の文化的保証みたいになってることがあるような気がしていて、だから今の若いミュージシャンたちが、エリントンに代表される豊饒な30年代のジャズに対してどういうふうに意識しているのか、ということに僕は興味があるわけです。

益子:まさに僕もそういうことに興味があります。

村井:それでね、またちょっと話ズレますけど、今、ジャズの書き手の人たちが、益子さんがおっしゃるように、ここ10何年、他の世界でも起きているようなことに対してあまりにも鈍感すぎる、あるいは、あまりにも気がつかなすぎる、と。
ジャズだけが変わっているわけじゃなくて、ジャズが一番最後に変わったのかもしれませんけど、それについて全然どうなっているのか、全く感覚的に理解していない、という話があったけど、例えば、もっと別のポップ・ミュージックやテクノなんかは逆にその時代が終わって、そろそろまた普通の楽器でメロディアスなものになってきているということを高橋健太郎さんが書いていましたね。この間、オウテカってテクノのグループが来日したときに非常にメロディアスになっていて、それは最近のあのテの音楽の傾向として見られると。アメリカのポップ・ミュージックも生楽器のアンサンブルでメロディアスなことをやる人たちが出てきた。ノラ・ジョーンズやルーファス・ウェインライトとか。時代がまたメロディと生楽器アンサンブルに戻るんじゃないか、ということを言っているくらい、ジャズは一周遅れましたね、って話なんですけど。

益子:実はあまり聴かれていない音楽だからご存知ないと思うんですけど(笑)、ジャズの分野で音響的な要素を採り入れるとか、過度に複雑な変拍子とか、凄くギクシャクしたリズムみたいなことをやっている人たちって、30代半ばから40代以上と結構高い年齢層なんですよ。その一方で、今の20代の人たちがどんな音楽をやっているかというと、僕なんかが聴くととても保守的に感じるものだったりするんですよね。ですから、ジャズだけが遅れている、というわけでもない、と。

後藤:だからね、結局それはね、今の人は昔のものを知らないから、その人たちにとってはそれも新しいわけですよ。だから今イタリアのハード・バップが人気あるなんていう現象は、今の人たちは昔のホンモノのハード・バップ、例えばマクリーンだとか、モブレーなんかあんまり聴いたことないんじゃないの? それこそ昔も今の演奏も等価で受け取るからいいって思うんじゃないの?
2008.12.19

続・ジャズの明日へ 〜ジャズにおけるモダニズムとポストモダニズムの境界とは?〜 vol.17

「進歩」とは違う価値を担う「変化」「身体感覚の変容」

村井:さっきのサーフェイス・ノイズやラジオのノイズみたいなのって、アナログ的な音ですよね。あれをわざわざ使うというのは、プリミティヴな音響みたいなものをあえてテクノロジーを使って音楽にかぶせたり、音楽の中心にすることによって、何か新しい感覚をあらわしたいということが凄くあるのかな、と思いますね。

後藤:まあ、その通りだと思うんですけど、仮にそうだとすると、身体感覚の拡張ということだからモダンってことになっちゃうんじゃないの?

益子:それについて言うと、身体感覚の拡張=モダンだという風に僕は考えていない、ということなんですよ。そこには、モダンとは何か、という認識の違いがある。つまり、あるものがモダンだという場合には、新しいとか前より進歩しているという価値が担われてるわけですよね? そうしたことの累積によって歴史が進んでいくという…。それに対して、感覚が変容する、拡大するということがイコール進歩かというと、それは別問題ではないか、と思うんです。
例えば、あるひとつの方向に感覚は拡張したかもしれないけど、逆から見れば別の部分の感覚は縮小してしまった可能性があるわけです。人間の感覚は有限だから、と言って単純なトレード・オフの関係とも言いきれないですけど、どっちがいいとか悪いとか、進んでいるとかいないとか、そういう話とは違うのではないかと思うんです。それを進歩とかモダンとかと言っていいのかどうかについてはかなり疑問だ、と。

後藤:うーん、なるほどね。要するに感覚が拡張したり変異しても必ずしもそれは進歩ということではない。

益子:それは必ずしも進歩とは言えないのではないか? 進歩というからには、前より優れているという価値が与えられている。だから、感覚が拡張した、変容したという事実と、それが前より優れているのかいないのかという価値判断とは別問題だと思うんです。

村井:進歩というのは「価値」ってことで、さっき益子さんがおっしゃったような、個の十全な実現のための価値みたいな、最終目的はそこだ、という。それは、僕がさっきフレッド・フリスのカサカサが気持ちいい、と言ったみたいなこととはちょっと違う、ということですね。それは気持ちよくなっただけか。なるほどね。

益子:気持ちよくなるとか、感覚が拡がる、変容していくということは、少なくとも進歩だなんだということとは別だ、と。それでは、拡張とか変容とかいうことが人間にとってどんな意味を持っているのか、というところまではまだよくわからないのですが、例えばリアリティや生々しさのあり方の違いなのではないか、とか…。

後藤:しかし、少なくとも変化ですよね。これは僕が最初に言ったことなんだけど、変化っていうのは常にある現象なんだけど、連続的な変化と不連続的な変化ってあるじゃないですか。わかり易く言うとジャズの最初、ニューオリンズからミシシッピ河を遡ってシカゴ・ジャズとか、あの辺はいかにも連続しているって感じするけれども、スイングからビ・バップになるとちょっと不連続な感じがする。だけど私たちはその両方ともわかるんだから、果たしてそこに認識の切断面があったのかという話ね。そういう問題と、それこそ21世紀のジャズがわかりにくいということと、その辺どうなってるんだろうということがよくわからないのよ(笑)。一番関心があるんだけどね。

村井:そういう意味では、もういわゆる進歩というか、より優れたものになりました、という感覚はあまりないのかもしれませんね。今の新しいジャズが20世紀の何かに比べてより良くなりました、ではないと。ジャズは変わってきて、それを面白いと思える感覚を持った人間にとってはとっても面白いよ、ってことくらいになっちゃうくらいのことなの?

後藤:だからそれはね、非常に難しい問題だから安易に答えだしちゃうと間違っちゃうから言わないほうがいいようにも思うんだけど。確かに私の体験で言ってもね、ジャズっていうのは1975〜6年で飽和しちゃってそれから先、同じことの繰り返しなんじゃないのかな、という感じはあるわけ。しかしまた一方、私と違う身体感覚を持っている人にとってはそうではないのかもしれない。もっと面白いものが今ある可能性を否定できないわけですよ。その辺の問題に関心あるんだけど、よくわからないんですね。
2008.12.19

続・ジャズの明日へ 〜ジャズにおけるモダニズムとポストモダニズムの境界とは?〜 vol.16

ベン・ウェブスターのサブトーンと「音響派」の違い

後藤:非常に微妙な話で前にも同じ質問したことあるんですけど、音の感触というとね、たとえばベン・ウェブスターのサブトーンのカサカサした感触、あの、聴覚にしてもむしろ背中なでられたときのような触覚的な感覚と、いわゆる音響派的な触覚的な音とどう違うのって訊きましたよね。それはどうですか?

益子:ええ、そこのところの説明がとても難しいんですよね。なかなか上手い説明の仕方が見つからなくて…。

村井:いわゆる音響派って言っていいのかわかりませんが、その人達の手法としては、あるものを重視させるために、あるものをなくす、ってことが大きいと思うんですね。つまり、メロディをきれいに吹いてしまったら、みんなそっちを聴いちゃうからそれはやめよう、と。音の高低としては単純な、あるいは同じ音をずっと出してみる。ただそうすると、メロディとかフレージング以外の要素を聴かざるを得ないから、その音響を聴くんだ、と。それは大きいような気がするんです。
たとえば、日本でいうオフサイト派というか、かつて代々木にあったOFFSITEというライブハウスや明大前のキッドアイラックなんかでの演奏は、ギターが30分に3音しか出さないとか、あるいはもの凄い弱音でトロンボーンとかトランペットを「スーッ」って息を漏らすだけ、みたいなことをやっていました。彼らがやっていることって、メロディを吹いちゃうとメロディを聴かれちゃうからイヤだということだと思うの、簡単に言っちゃうと。
で、その「スーッ」っていう息の漏れ方とか、あるいは本当に微細な、何にもしてないけどスライドだけすこーしずつ動かしていると、人間ってそれだけ聴いているとなんか聞こえてくるんだよね。というものを音楽として彼らはやっているわけで、ということは、既成のメロディやコードみたいな要素をなしにしてしまって、本当に「音響」だけを聴いてほしい、ということは、それまでのジャズ、だけじゃないけど音楽との、大きな違いだと思います。やっぱり人間って、どうしても音の高低を聴いてしまうっていうふうに教育を受けてますから。
後藤さんはそういう意味ではかなり珍しいと思うのね。つまり音の高低と音色で、音色がまず聞こえてきて、高低が後ろにくるっていうのはわりと面白いですよ。

後藤:いや、最初からそうじゃないですよ(笑)。最初はやっぱりメロディですよ。だから、ジャズわからなかったんじゃないの?(笑)
人間誰でも自分が知覚したいものを真っ先に知覚するのは当然なんだけれども、それだけじゃ飽きてくるわけですよ。例えば、聴覚の話だとわかりにくいけれど、現代美術なんかで考えるとわかり易いじゃないですか。正確に形を書いてないからダメだっていったら話にならないでしょ。
だけれども、最初ピカソなんか見た人は人間の形がちゃんと書いてないじゃないかとか、顔がこんなにゆがんでいるわけがないとか言って非難したわけでしょ。しかし、視点を変えてみればこれもいいじゃないかってなったわけで、人間の感覚というのは変化するわけですよね。当たり前の話なんですけど。

村井:話をジャズに戻すと、益子さんが去年かけてくれたような音楽っていうのはジャズにおけるフレージング至上主義とか、あるいはインプロヴィゼーション(自由即興)至上主義から離れてきていて、それは音色だとか触覚だとか、あるいは、「個」じゃないもの、何人かがやった間に出てくる何かに、コンシャスであるというお話ですよね。それは、今までのジャズ・ファンも音色をちゃんと聴いていたんだよ、っていうのとまた別の議論になるわけですよね。その辺の話をやっていただきたいのですが。

益子:さっきの話の違いは何だろうな、と考えていて思いついたのですが、結局リアリティというかアクチュリティというか、後藤さんの言葉でいうと「生々しさ」をどこに感じるのか、という違いなんじゃないか、と。例えば、ベン・ウェブスターのブレス漏れの音というのは、人間の肉体性に直接つながっている部分が音楽に「生々しさ」を感じさせると思うんです。それに対して、ある種のノイズなり、触覚的な音が生み出す「生々しさ」というのは、それとは別の領域を刺激していると思うんですよ。
そうした聴覚の変容が、いわゆる音響派やエレクトロニカといったジャンルだけではなくて、現代のジャズにも反映してきている。だから、昔ながらのジャズ・ファン、アドリブ至上主義的な人たちに言わせると、最近のジャズのアドリブがつまらないというのは、モダン・ジャズを聴く聴覚、価値観からすれば間違っていないどころか、むしろ正しいことだったりするんですよ(笑)。聴覚を刺激するところが違う、音が持っている意味が違うんだから、その違いに気づいていなければ、つまらなく感じて当たり前だ、と。でも逆から見れば、現代のジャズを評価する際に、これまでモダン・ジャズを評価してきた価値基準を無理矢理適用しようとしても意味がない、その価値基準ではその音楽が持つ価値を見出すことができないわけだから…。

後藤:その通りだと思いますよ。ベン・ウェブスターのサブトーンというのは、ベン・ウェブスターの肉体に直接繋がっていくけれど、最近の「音響」っていうのはそうはならないですよね。たとえば水道の水がぐじゅぐじゅ漏れている音みたいだとか…。それは確かに違いますね。
ただ、そこでリアリティとは何なのかというと、脳の機能を考えてみてもわかるんだけど、突き詰めれば人間にとってのリアルそのものがヴァーチャルなものだから、たとえばベンの肉体が感じられればそれがリアルだというのは非常に単純な発想だと思うのね。
人間が何に生々しさを感じるかといえばそれは非常に多様だし、可塑性が高いわけで、ある種の人は完全な無機物(アニメの画面のような)に対しても人間性感じちゃったりするわけだからね。リアリティっていうのは客観的に人間の肉体がそこに感じられるからリアルだっていうような単純な言い方はできないと思う。それから類推すれば、ジャズのリアルが演奏者の肉体にいくようなタイプのリアルから違うものに変質しているということは言えるでしょうね。

益子:そういうことが言いたかったんですね(笑)。だから、さっきのモダニズム論に戻ると、個の実現とか、個の肉体性をいかに発揮するか、というところとは違うところへリアリティの領域が移ってきている、と。それには、既に我々の環境と化しているテクノロジー、インターネットや携帯電話などの存在がとても大きな影響を与えていると思うんです。逆に、そういったある種のメディアなりテクノロジーなりを通さないとコミュニケーションにリアリティを感じなくなってきている人たちの増加とかなり重なっているんじゃないだろうか、とか…。

村井:楽器じゃないものの音を「音楽」の場で聴いて、何て気持ちいいんだろうと思った最初の記憶を思い出しました。80年代の終わりだと思うんですが、フレッド・フリスというギタリストがギターを寝かせておいて、弦の上にお菓子とか入れるアルミ箔の小さな深皿、あれなんていうの? あれを乗っけるの。その上に豆をパラパラって撒くわけ。そうすると弦が振動を増幅して「カサコソ、カサコソ」って鳴るの。それだけずっーとやってて、もの凄く気持ちよかったんですよ。
それは凄く衝撃的な体験で、それ以来そういう擦過音っていうのかな、そういうものが凄く音楽的に聞こえるようになったの。それこそ身体感覚の変容じゃないけど、それが自分にとって音楽として気持ちいいということに気が付いて凄く驚いたんです。わりと最近のテクノロジーを使ってもそういう自然音に近い音、新しい人たちって好きですよね。ピーっ、ピーていうような電子的な音、あまり使わないものね。

益子:それには両方の人がいて、サイン波とかグリッチ・ノイズみたいな電子音しか使わない人もいれば、フィールド・レコーディングで自然音だけサンプリングする人もいれば、両方を組み合わせてやっているような人もいますよね。
2008.12.15

続・ジャズの明日へ 〜ジャズにおけるモダニズムとポストモダニズムの境界とは?〜 vol.15

ジャズは本来「音響派」である!?

村井:で、さっき音響派の話をしましたけど、後藤さんのおっしゃることは確かにそうなんですよ。ジャズだってね、みんな音の高低と和音だけ聴いているわけじゃなくて、いつも言うように「マクリーンのこのザラッとした感じがいい」とかっていうのは音響派ですよ、実に。

後藤:そうなんですよ、音響派の人たちが言ってることって、根っからのジャズ・ファンに言わせれば何をいまさらって感じなんですよね。ズッポリはまっちゃったジャズ・ファンっていうのはね、結局突き詰めると、パーカーがプッと吹いた音が気持ちいいとか、マクリーンのかすれた音が気持ちいいとか、最終的にそこにいくんですよね。

村井:ただまあ、音の高低、和音っていうのは、ジャズを語る場合でも、ある種一番前景化してたんですよね。あとはリズムですけど。その部分を語ったほうが語りやすいってことがあったと思う。で、ずいぶん前ですが、中村とうようさんが日本のジャズ評論家の一番いけないところは、フレージングというものについてしか語らなかったことだ、って言ったのね。
肌触りとか、リズムの溜め、ノリとかを全く無視したジャズ評論を何十年も続けた結果、ジャズ・ファンってこうなっちゃったんだ、って彼は言っていて。まあ、彼特有の乱暴な議論ではあるけれど、それはホントにそうだな、と僕、思うんです。

後藤:その通りだと思いますよ。だけどね、結局難しいのはね、フレージングだとか、音の高低に関しては楽理の用語で言えるけど、それこそ、マクリーンのアルトの肌触りと、フィル・ウッズとどう違うんだっていう部分は、あえて書くと「かさかさした感じがいい」なんてまるで幼児語のようになるでしょ。そういうこと書くと、「こいつはバカなんじゃないか」とか「教養がない」(笑)なんて思われるでしょ。まぁ、思われてもいいけど、それより「モードがどうの、ペンタトニックが滑った転んだ」っていうほうがインテリみたいだし、ある意味じゃ伝わるわけですよね。はっきり特定の音の要素について同定できるから。しかし、根からのジャズ・ファンが聴いているのはぜんぜんそういう部分じゃないんですよ。それを無理に言語化しようとするのは非常に難しいってことです。

村井:それで、最近の新しいジャズが音の肌触りみたいなのが前景化しているということと、いや、そんなことはない、ジャズは昔からマクリーンの音色が全てなんだよ、というような話とは切り離したほうがいいと思うんだけど、でも、それは後藤さんにとってはあんまり変わらないってこと?

後藤:えっ? もう一回言って。

益子:だから、ジャズは元々音響派だったってこと。

後藤:私の経験で言うと、年季が入ってくると音の感触に行くのかもしれないけど、最初はやはりフレージングなんですよ。一番認知しやすいから。だけれども、だんだんジャズにはまっていくと、フレージングというのはミュージシャン固有の音を際立たせるための枠組みっていうふうに相対的に背景化しちゃう。つまり、パーカーがカッコイイのは、あるフレージング、あるリズムにのったパーカーの音がカッコイイってことになるわけです。フレージングというのは即興といってもいいのですが、もちろん無意味ではないんだけれども、必ずしもそれだけが前景化するわけではなくなってくる。
人間の感覚っていうのは音の肌触りだけ取り出して聴いてるわけじゃないでしょ。必ずあるフレーズ、リズムにのった音を聴いている。もちろん、結果として全体を聴いているわけだけど、要はどの部分に快感を感じるかってことですよね。
ジャズ聴き始めたとき、自分を含めた平均的な日本人はどの部分を一番認知しやすいかというと当然メロディですよね。マクリーンだったら、マル・ウォルドロンのアルバム『レフト・アローン』がすごく人気があったっていうのは、鼻歌でも歌える、メロディが認知できる。私もそうでした。しかし長く聴いていると、単なるメロディの認知だけではなくて、音色だとか、ニュアンスだとかそういうところにいくわけでしょ。つまり客観的な音響情報としては同じだけど、そのどの部分を前景化して聴くのかっていうことが問題なんじゃないかって私は思っているんです。

益子:そのこと自体には何の異論もないんですけど、今話に出ているマクリーンのアルトが発する音色とか肌触りとかと、ここ十数年で前景化してきた、いわゆる音響派の人たちが使っている音響の肌触りとは、全然別のものだと思うんですよ。で、そのことを表現するために僕は「触覚的な」という言い方をしてみたんですけど、自分の首筋をなでられるような、とか、耳元でガサガサ鳴らされるような、といった、普通の聴覚とはちょっと違う皮膚感覚を刺激されるような音の肌触りなんですね。そういう音を気持ちいいと感じるようになったところに、身体感覚の変容、認識の切断面が顕れていると僕は思っています。
一例を挙げると、僕はアナログのLPを日常的に聴いていた最後の世代だと思いますけど、その頃はLPレコードのサーフェイス・ノイズって非常に嫌いだったんです。CDになって、そのノイズはなくなりましたよね? そこはCDの大きな効用だ、と。ところが、音響派の人たちはわざわざこのプチプチ・ノイズを入れたりするんです。あるいは、とても電波の受信状態が悪いラジオで鳴らしたような音を出すわけです。それがなぜかとても気持ちよく感じるようになったんですね。だから、この違い、物理的には同じような音なのに、音楽とは無関係に聞こえるノイズと、意図的に付加されたノイズでは聞こえ方が違うということは、聴覚に何らかの変容が起きていると思うんですよ。
連載タイトル一覧
General
disc review
live review