ジャパン・ブルース&ソウル・カーニバル20102010年5月29日(土) 日比谷野外音楽堂 |
目の前に、あのソロモン・バークのライヴがいる!
巨像の放つ“ソウルの熱量”は桁外れなのである。
ブラック・ミュージック・ファン待望の本イベント(旧ジャパン・ブルース・カーニバル)も今年で25周年だそうだ。ぼくも7,8回は足を運んでいる。バディ・ガイ、B.B.キング、憂歌団などを見た記憶は今もありありと思い出すことができるが、どういうわけか雨にたたられる日が多かったこともまた、鮮烈に思い出す。この日も今にも降りそうな天気だった。折りたたみ傘と合羽を持って日比谷公園へ。入り口にいきなり張り紙がしてある。まさか「ソロモン・バークが急遽来日不能になりました」という告知ではあるまいな、と身構えてしまう。というのは、以前このイベントで、「出演予定だったジョニー・ギター・ワトソンが昨日、急逝しました。払い戻しに応じます」という張り紙を見て仰天、地団駄ふんだことがあるからだ。
けっきょく、来日不能になったのはソロモンではなくバーナード・アリソンのほうだった。バーナードも素晴らしいミュージシャンだが、「次、いつ日本で見れるかわからない度」はソロモンのほうが圧倒的に高い。結果、バーナードの代役は急遽ジョー・ルイス・ウォーカーが務めることになった。
ソロモン一座は、ローラーコースター(ゲストに吾妻光良)、ジョー・ルイス・ウォーカー・バンドに続いて登場した。バンド・メンバーが登場し、オープニング・テーマを演奏すると共に舞台の明かりが消え、次に点灯されたときには舞台中央にある巨大な椅子に腰掛けたソロモンが歌っている、という寸法だ。艶やかでハリのある声は60年代のアトランティック盤、70年代のMGM盤の頃とちっとも変わっていない。
「ダウン・イン・ザ・ヴァリー」、「キープ・ア・ライト・イン・ザ・ウィンドウ」、「ドント・ギヴ・アップ・オン・ミー」、「アイ・ウィッシュ・アイ・ニュー」(ジャズ・ピアニストのビリー・テイラーが作曲した。弘田三枝子も歌っている)などの名曲が次々と登場しては現れる。だが残念ながらそのほとんどはメドレーの一部としてワン・コーラス、へたしたら16小節程度歌われるだけだった。どういうサービスなのか、オーティス・レディングの「ドック・オブ・ザ・ベイ」やベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」などもメドレーに織り交ぜて歌っていたが、ぼくとしては全部ソロモンの自前のナンバーでまとめてくれたほうが、よほど嬉しかった。「ホーム・イン・ユア・ハート」を歌わなかったのは画竜点睛を欠くし、ローリング・ストーンズや映画「ブルース・ブラザーズ」でリバイバル・ヒットした「エヴリバディズ・ニーズ・サムバディ・トゥ・ラヴ」がワン・コーラスでは欲求不満になる。途中、息子と娘の歌をはさんだのは(ソロモンは21人の子供、17人の孫がいるという)、体力温存の意味があったのかもしれないが、ふたりとも「偉大なるソロモン・バークの子供」だというのに才能のかけらも感じられないようなヴォーカルだった。
だがこうした不満も、「目の前に、あのソロモン・バークのライヴがいる」という感激に比べたら鼻くそみたいなもの。次に彼が来日して、まったく同じセット・リストで公演しても、ぼくはやっぱり見に行くだろう。なんだかんだいっても、巨像の放つ“ソウルの熱量”は桁外れなのである。
混民サウンド・ラボ・フォーラム 第3回:批評の現場と音楽の現場:場所論の試み2010年5月2日(日) 吉祥寺 サウンド・カフェ・ズミ |
「音楽の現場」に較べて「批評の現場」については
具体的な展望や明確な見解が示されなかったのではないか
5月2日の日曜日に吉祥寺の『サウンドカフェ・ズミ』で開催された、北里義之氏主宰による『混民サウンド・ラボ・フォーラム』第3回『批評の現場と音楽の現場:場所論の試み』を聞きに行った。司会は北里さんで、パネリストは大友良英さんと平井玄さん。大友さんの音楽はずいぶん昔、確か90年代の初めころだったと記憶しているが、当時の音楽雑誌『AVフロント』にライヴレビューを書くため、吉祥寺の『マンダラ2』にライヴを見に行ったのが最初だった。当時の大友さんは、自作のまな板を細工したようなノイズマシーンや、ターンテーブルを自在に使いこなしており、その音楽的想像力の豊かさにいっぺんでファンになってしまった。私のノイズ好きはこの辺りに原点があるようだ。
その後、何度かライヴに行き、確か三上寛をゲストに迎えたときだったと記憶しているが、いまやダウト・ミュージックの主宰者、沼田順さんがベーシストとしてサイドに参加していたことを覚えている。また、同じくサイドのパーカッショニスト、確かイム・スウンさん(何しろ大昔のことなので名前が違っていたら申し訳ありません)だったかと思うが、彼のポリタンクを加工したドラム様の楽器から出る音がえらくカッコ良かったことも鮮明に覚えている。また、これもずいぶん昔だったが、いーぐる連続講演のゲストか何かで大友さんが来店されたこともあった。
一方、平井さんは雑誌などでお名前は当然存じ上げていたが、お目にかかるのは始めて。ただ、2005年に太田出版から上梓された『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』がご自身の体験を率直に語ったなかなか面白い本で、特にご実家が新宿2丁目の洗濯屋さんと知り、1960年代当時あのあたりを徘徊した記憶(知る人ぞ知るジャズ屋『バードランド』が今ピットインの建っている場所にあった)などと共に、勝手な親しみを抱いていた。
講演は大友さんの新しい試み『ENSEMBLES』と平井さんの「サウンド・デモ」を巡る話題で始まり、音楽の現場の新しい試みを「場所論」の視点から語るやり取りが展開された。残念なことに私はどちらも見ていないのでこの件についてはあまり詳しく語れないが、それでもお二人のやり取りから、「音が街に出ること」の意味や問題点、また、音楽の新しい伝え方についてのさまざまな議論を興味深く聞かせていただいた。
また、平井さんは、音楽評論、音楽メディアの現状についての、どちらかというと悲観的な見解を述べられたが、それらは私たちが抱いている感覚とまったく同じで、結局いずこも同じなんだなあという感慨を抱かせるものであった。平井さんの発言中「音楽の聴かれ方が大きく変わっており、また音楽が演奏される現場も変わっている、だから両者を突き合わせる必要がある」という部分は大いに共感できるのだが、その具体的方法についてはこの日の講演ではあまり明確にされなかったように思う。
また平井さんは、場所論とは空間の問題でもあり、「空間をいかに作るか」が問われている、それは公共空間に入り込むことでもある、として、あえて野蛮な音環境に入り込む「サウンド・デモ」の試みを評価しているという。
一方の大友さんは、「空間から先に考える」スタンスで、サウンド・インスタレーションとも言える『ENSEMBLES』を行っているという。批評家である平井さんが「空間を作る」発想で「サウンド・デモ」を行い、表現者の大友さんがある程度空間を「与えられた条件」と見なす、ある意味での逆転現象が面白い。
こうしたやり取りの最中に、会場の植松青児さんという実際の「サウンド・デモ」実行委員の方が、ヘゲモニーでやるような運動には問題がある、(デモの効果を高めようと、より大きな音で競い合ったり、自己主張をしようと拡声器を使ったりして)権力を行使すると、敵に似てくる、だからペットボトルの中にどんぐりを入れた、あまり大きな音の出ない手作り楽器の使用を推奨すると、音の持つ特殊性に着眼した非常に興味深い視点から発言された。
実際ヨーロッパなどでは教会の鐘の音が一種の権力装置として機能していたのだから、音響の行使を権力と結び付ける発想には正当な根拠がある。
またこの方は、「野宿者メーデー」という催しをやったときのこととして、手作りの楽器を作ってそれを鳴らしながら車道の真ん中を歩いたところ、それを見ている「一般人の身体性が変わる」と、これまたたいへん興味深い観察を話してくれた。要するに、ふだんは冷たい彼らの目線が好意的になるというのだ。これもまた非常に示唆に富んだ視点である。
それに伴い大友さんが、音楽の効用として「居場所を作る」ことがある、またそれはコミュニティを作ることでもあるとして、ご自身が知的障害を持った子供たちと共に音楽をやる試みに参加したときの経験を語ってくれた。端的に言って、音楽をやったからといって病気が回復するというわけではないにしろ、音楽をやることにより子供たちやその親が生き生きとしてくるというのだ。どちらの話も、私に音楽の持つ力についての見過ごされやすい側面を教えてくれた。
批評の問題点としては、大友さんが、90年代ぐらいから批評もジャーナリズムも機能しなくなっているといい、この見解は私たちcom-postの同士たちとまったく同じであった。この件にからみ、平井さんは、最近音楽家が自らの音楽を語ることが多くなったようだが、この傾向は彼らの思惑とは逆に、音楽が閉じられることにつながると言い、大友さんもまた、音楽家が書くと小さなサークルに納まってしまい、結果として自家中毒になると警告を発していた。
平井さんはご自身の今後の課題として、自らの欲望の内的必然性に関心が向かっており、ジャンルとは関係なくさまざまな音楽の系譜を考えているという。そうした発想から「どもる音楽」に対する関心が強まっているという。ちなみに平井さんの言う「どもる音楽」とは、たとえばボブ・ディランであり、オーネット・コールマンであり、アルバート・アイラーであるという。
ここから話題は北里さんのいう「病者の音楽」へと移り、デレク・ベイリーが引き合いに出される。このときまたもや植松さんから非常に興味深い視点が提示された。ウエマツさんの発言を要約すると、「どもりを病と見ないほうが良いのではないか? 過酷な体験が吃音を招くのであり、自らの体験を話したとしても理解されないのではないかという不安が吃音を招く。つまり、世界との関係や表現が失敗するのではないかという不安が吃音の原因ではないか。」という、極めて説得力のある見解(誰か研究者の著述の引用であったかもしれないが、著者の名前はメモし損ねた)が展開された。
平井さんは、ディランやブルースマンのどもる音楽はある意味で「ヘタ」なのだが、それを自分は肯定すると言い、それに対して大友さんから「訛り」とどう違うのかという質問が成される。これに答えるようにして平井さんは、かつてその話題を大谷能生氏と議論したことがあるが、そのとき大谷さんは「二つの違うものを無理につなげようとすると訛るのだ」という説を出したが、自分は違うと思う、訛りは別に間違っているわけではないとし、「訛り」と「吃音」は違うと自説を述べた。この平井さんのご意見には私も同感だ。
それに伴い、大友さんが、菊地成孔さんや大谷能生さんの提唱するバークリー・メソッドは「訛り」に無神経であり、そこがこのお二人の説の問題点であると発言した。また、大友さんは「批評」は対象の位置づけをするものだが今はそれが出来ない時代になっている、だからこそジャズの歴史の書き換えが必要であり、それは美術でも同じようなことが言えるという主旨の発言をした。これも私たちの抱いている危機意識と完全に同じである。
最後の質疑応答で、com-post益子さんから、「批評の現場と音楽の現場」というタイトルだが、「音楽の現場」については充分な議論がなされていたが、「批評の現場」については具体的な展望や未来に対する明確な見解が示されていないという不満が述べられた。実を言うとこの不満は私も内心抱いており、どのような回答があるかと思っていたが、それに対して平井さんが、自分は自らの内的関心に従って前述の「どもる音楽」について研究を進めているという主旨の回答があった。
私の感想としては、それは平井さん個人の問題としては理解できるし、私も「どもる音楽」という発想自体にたいへん興味があるが、それは大友さんや私たちが危惧する、現在の「新しい音楽」に対する批評の不在という、本質的問題の直接の回答とはなりえないのではないかと思った。
講演終了後、平井さんに自己紹介し、オーネットの音楽は私も大好きだけど、私はそれを「どもっている」とは受け取らず、むしろ「訛っている」と受け止めている(訛りはもちろん間違いなどではない)。そして、ジャッキー・マクリーンもそうだが、ジャズはクラシックと違い、「訛る」こと自体を肯定的に受け止める音楽だという自説を開陳した。
「批評の現場」という問題についてはいささか期待外れではあったが、そのほか私の知らないことが数多く議論され、そうした意味では今回のイヴェントも大いに意義深いものであった。最後に時間が無かったので質問を控えた疑問に、北里さんの言う「病者の音楽」という文脈で、大友さんの知的障害を持つ子供との音楽と、運動ニューロン疾患とされるデレク・ベイリーの例が並列的に論じられていたが、知的障害と肉体的障害を同列に論じても良いものかどうか、そのあたりのみなさんのご意見を伺いたいと思った。
具体的に言えば、精神的障害があったとされるパウエルやモンクの音楽と、肉体的障害があるジャンゴ・ラインハルトやホレス・パーラン、あるいは晩年のローランド・カークの音楽を「病者の音楽」とひとくくりに論ずる意味は何かという疑問である。もっとも、知的障害と精神障害だって同一線上で論じられない問題ではあろうが......
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大友良英
福島恵一音盤レクチャー「耳の枠はずし−不定形の聴取に向けて」 第3回:アンフォルム 空間の侵食2010年4月25日(日) 吉祥寺 サウンド・カフェ・ズミ |
音楽とか、演奏といった概念自体に揺さぶりをかける、
音そのものが喚起するさまざまな心象、想念の数々。
4月25日、日曜日午後3時から吉祥寺の『サウンドカフェ・ズミ』で行われた、福島恵一氏の講演『耳の枠はずし』シリーズ、第3回『アンフォルム 空間の侵食』を聞きに行った。今回はその「報告」、というより、紹介された音源、お話を聞きながら心によぎったさまざまなことごとを、そのときにとったメモを参照しつつ書き記してみたい。『耳の枠はずし』第2回『野生の耳がとらえる音景』は所用で欠席してしまったので、今回の講演のテーマ「第1回のデレク・ベイリーと、第2回のさまざまなトラッド音楽の二つの流れを、改めて『不定形の聴取』の視点からとらえなおす」を完全に消化できたわけではないが、それでも、今回の主要アーティスト、ミシェル・ドネダ周辺のミュージシャンが出す音からは、実に有益な思考の種を受け取った。
今回の「音」はすべて面白かった。「音楽」あるいは「演奏」ではなく「音」としたのは、福島さんが提示した音源は、音楽とか、演奏といった私たちが暗黙の前提としている概念自体に揺さぶりをかけるものだったからだ。また、「面白い」というのも、「名演に感動した」というようなことではなく、音そのものが喚起するさまざまな心象、想念の数々が非常に興味深いものであったということである。
福島さんの「話」もまた、実に多くの個人的関心事を喚起した。以下、メモ的に書き連ねる。最初にお断りしておけば、すべて福島さんのお話に導かれた私の感想だが、どの部分が福島さんの話で、どこからが私の感想なのかについては、境界が曖昧になっているところがあるかもしれないので、全部が福島さんの発言と誤解しないでいただきたい。
まず眼と耳の原理的違いについて。ドネダの音を聴いていて感じたのは「気配」だった。で、気配というとまず頭をよぎるのは「探る」「探索する」ということ。たとえば、樹木によって視界を遮られた森の茂みの中で得物を追う猟師が、「耳」で動物の気配を探るというような状況である。
この場合、「眼」はあまり役に立たない。そしてそういうときの「耳」は、単に音を受動的に聴くのではなく、能動的、積極的に森のざわめきの中から得物の発する音を探索しなければならない。つまり「気配」の「音楽」は、こちらから音のありか、形、意味を探索しなければ本来の姿を現さない。もちろん、「本来」などというのはことばの綾で、そこでは多様、かつ重層的な聴取がありうるだろう。そしてそれは「聴くこと」の可能性の拡大であり、まさに「耳の枠はずし」だ。
続いて「空間による侵食」という概念が提出され、それに絡んで美術評論家ロザリンド・クラウスの発言が引用される。また、形態に対する知覚に揺さぶりをかけるバタイユの「ドキュマン」からの写真を提示するなど、従来の「音楽評論」の枠を超える議論の展開は実に刺激的。
同じくドネダの『Montsegur』(Puffskydd, 2003)は、「音」「音楽」「聴く」といった、すでに知っているはずのことごとに対する概念の変更を迫るものだった。こうした「演奏」に寄り添うには、演奏者の「共犯者とならざるを得ない」という言い方を福島さんはしていたが、まさしく、当たり前に見えていたものが、突如見ず知らずの相貌を見せ始めたような戸惑いと驚きを聴き手に与える音だ。
これもドネダの『Salsigne』(Puffskydd, 2004)は、蒸気機関車のような機械音と息遣いの人為的な音が交錯する異様なサウンドだが、種明かしをするとなんと風力発電の風車の音と、ドネダの演奏だとのこと。こうした意表を突く「音の尻尾をどのようにして捉えるのか?(福島発言)」という問題提起は、私たちがcom-postで議論している「最近のジャズのわかりにくさ」を読み解く上でも重要なヒントになるように思える。
次はデレク・ベイリーと田中泯の雨中の録音『Music and Dance』(Revenant, 1980)。こういうものを聴くといやでも音について考えざるを得ない。ここでマクルーハンの聴覚と触覚についての話題が出る。これもまた益子さんのテーマに繋がる。
ジョン・ブッチャーが洞窟やオイルタンクの中で演奏した『Resonant Spaces』(Confront, 2006)を聴いて思ったこと。音体験の多様性、つまり私たちの日常の聴取体験には実にさまざまな位相があるのだが、それらの違いをおそらく私たちは意識していない。この音源もまた私に「聴くこと」「考えること」といった根源的な問題を指し示す。メモには「“身体の音”ではない、では何の音か? 空間それ自体の音? ノイズと音楽の境界、ノイズと音楽の接点、融合」などと書かれている。ともあれこれは空間を照らし出す演奏だ。
斉藤徹とドネダの『Spring Road』(Scissors, 2001)を聴いているときのメモ。「音楽? サウンド? 効果音? ノイズ? 視覚を奪われていること自体が想像力を喚起する。聴くことの意味のさまざまな位相」などなど。
もう、あまりにも刺激が多すぎたのでまだ頭の中がまったくまとまっていないのだが、とりあえずこれらの「音」が私に与えてくれた「思考」は、まず「五感の中で聴覚の占める位置、意味」ということ。これは視覚との対比、話題になっている触覚との関係なども含むが、要するに「音」とは何だろう、「聴く」とはどういうことだろうという根源的問題。
つまり、環境音(森の環境音、都市の環境音など)、人為的生活音(洗濯の音や足音など)、ことば(日本語、外国語)、音楽(楽器の音、それ以外の音)、ノイズといった多様な「音」を、私たちはそれぞれ日常的に意識的、あるいは無意識に「聴いて」いるのだが、そうした実に多様かつ重層的な聴取体験の意味はそれぞれ間違いなく異なるはずなのに、私たちはそうした問題についてまだほとんど掴みきれていないのではないだろうか。ここのところをもう少し明確にすれば、「音楽」に対する理解の幅も間違いなく豊かなものになるに違いない。
あまりに雑多でとうてい論理的とはいえない「感想」ですが、いずれこの体験がもう少し煮詰まれば「何か」が見えてくるように思えます。そうした知的刺激に満ちた機会を与えてくれた福島さんに感謝!
福島恵一ブログ「耳の枠はずし」
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FESTIVAL NEO-VOICE #1 ヴォイスの挑戦2010年3月29日(月) 青山円形劇場 |
「完全即興」の両面性、自然で圧倒的な高揚感と、
その反面の「息切れ」状況がともに見えたように思えた。
3月29日青山の円形劇場で開かれた『FESTIVAL NEO-VOICE #1』を見に行こうと思ったのは、先日このスペースでもご紹介した吉祥寺『サウンド・カフェ・ズミ』での北里義之さん主宰の講演会『日本初のヴォイス・フェスティヴァル』がきっかけだった。その日の巻上公一さん、天鼓さん、吉田アミさんのお話があまりに面白く、これは話を聞くだけで済ましたら後悔すると、急遽お三方を含めた6名の出演者による、各々のソロ・パフォーマンスを見に行こうと思いついたわけだ。百聞は一見にしかずとはまさに的を射た言いようで、世間で「ヴォイス」とか、「ヴォイス・パフォーマンッス」と呼ばれているものの多様性が、この日の舞台で実感できた。もちろんこうした公演を数多く見ているわけではない私の感想なので、見当外れも多々あろうかと思うが、それはシロウトのご愛嬌とご容赦ください。
6名の出演者のうち、やはり華というか存在感のあるのは灰野敬二、巻上公一、天鼓の3人で、それぞれの立ち姿は、出身母体の違いを反映しつつも、出てきただけで聴衆の注意を惹きつける力がある。
灰野さんは歌というかシャウトというか、まあ大きく言えば「音楽」の延長上のようにも思える声の扱い方でヴォイス・パフォーマンスを行い、3本のおそらく特性の異なるマイクを、テクニックを駆使して使い分け、こんな声が良く出るものだと思わせる凄まじい声の技法の限りを披露してくれた。
巻上さんは歌謡的な声の使い方もするけれど、基本は「音の面白さ」を狙っているように思える。擬音語のような擬態語のようなものも、それらの「音」がもつ、即物的な面白さがジェスチャーを交え、ある意味で芸能的に披露される。とにかく巧い。ズミでの講演の際は「サービスはしない」と言っていたが、サービスと自己表現の巧みなバランスが巻上さんの身上ではなかろうか。というか、観客を面白がらせようというより、ご本人が「音の面白さ」にハマっているが故の、「面白さ」なのだろう。悪い意味ではなく、一番わかりやすく、かつ完成されているのが巻上さんのパフォーマンスであった。
最後のトリをとった天鼓さんのステージは、圧倒的だった。舞台に彼女が出てくるだけで一種のオーラが感じられる。まったく無根拠に思い出されたのが、何十年も前バルバラが来日したとき、たまたま彼女が風邪で声が出ず、舞台で歌えない旨を謝罪するという異例の場だったが、歌わずとも現れる存在感に驚いた記憶がある。それに近いものを感じたのだ。
天鼓さんはステージに上がるまで何をやるか事前に決めるようなことはしない、また、いわゆる感情移入も行わず、どういうヴォイスを出そうかという一点しか頭には無い、と『ズミ』の講演で語っていたが、完全即興であることは直ちに了解できた。ただ、ご本人は感情移入してはいないのだろうが、「声」というものの持つ抗い難い特質(いやでも何らかの「感情」のようなものが表出されてしまう)と、ダンスに近い身体表現が組み合わさったステージは、どうしてもある種の情動を喚起させられてしまう。というか、それ自体が彼女の表現なのだろう。
ただ、このステージでは、「完全即興」というものの両面性が現れたように思える。つまり、即興であるが故の自然で圧倒的な高揚感と、当然その反面の「息切れ」状況がともに見えたように思えるのだ。事前に何も考えず、あたかも「神が降りてくるのを待つようにして」ヴォイスを扱う天鼓さんの身体から発する、異様な集中力ゆえの吸引力が場を支配し、さして大きな声でなくとも聴衆の意識は彼女に集中する。これは凄かった。
その反面、即興であるがためにすでに表現しつくしてしまったとしても、ステージの時間枠でもう少しやらなければならないとしたら、それは緊張感が途切れはしないだろうか。まったくの憶測でしかないが、ステージの後半、ここで終えたら万雷の拍手、というところで終わらず、しばし「その先」があったが、明らかにそれ以降、観客の集中力が減退してしまったのだ。まあ、それも含めて「即興」というものだろう。
ところで、ある意味で一番過激かつアヴァンギャルドだと思えたのが、吉田アミさんだった。「ハウリング・ヴォイス」というのだろうか、子供の頃見た怪獣映画『ラドン』の絶叫のようでもあり、また、機械音のようにも思える、当然歌でもなければことばでもない「音響」を発する彼女のステージは、単調といえば単調なのだけど、「人声」が否応も無く喚起してしまう「人間性」を、どこまで排除して「音そのもの」に近づけるのかという実験を見る思いなのだ。これは壮絶だった。
蜂谷真紀さんの行き方は、明らかに「ことば」を意識していた。具体的に言えば、決してラテン系でもなくアジア圏でもなく、あたかも東欧域のどこかの言語「のように聞こえる」、しかし、完全に架空の言語「のようなもの」によるパフォーマンスは、シニフィアンなきシニフィエではないが、いやでも「この人の頭の中はどうなっているのだろう」と思わせる。即興には違いなかろうが、明らかに一貫性を感じさせる「偽言語」は、事前の周到な訓練が無ければ使いこなせるはずがなかろう。つまり、その「偽言語」としての「パーツ」を生み出す作業はそうとうに意識的な作業なのではなかろうか。
さがゆきさんのステージは、誤解を恐れずに言えば、少しばかり外界との関係に不整合を来たしてしまった方々を演じる典型例に似ていなくもない。言語的な、ともおもえる(失語症的)痙攣は、蜂谷さんのスタイルと共通項を感じさせたりもしたが、当然狙いは違うのだと思う。しかしその違いを巧く言い当てることは今の私には荷が重過ぎる。
最後にドシロウトの感想を述べると、この分野は表現というものの極致にあるように思った。つまりダンス、舞踏は身体表現という枠、歌は文字通り歌うことという枠があるので、逆に受け手も暗黙の理解の枠組みを作りやすいが、ヴォイス・パフォーマンスは何でもありなだけに、どのような受け取り方も出来る反面、「誤読」の可能性も高まるように思える。
それが露になったと思える一例を挙げると、灰野さんのステージの最中、まったく脈絡無く観客席の一部から笑いが起こったのだ。まあ、私の観察が鈍いのかもしれないが、少なくともその場面は笑うようなところではない。灰野さんも「はてな」と思ったのではなかろうか。
とは言え、「理解、受容の枠組み」の前提となると思われるパフォーマー自体の姿勢も、それぞれずいぶん違うように思えるのだ。つまり、人によって表現しようとしているものが大きく違うように思える。もちろんこれは個々のステージが異なるという意味ではない。
たとえば、声を音として聴かせたいのではないかと思える人には吉田さんがいる一方、蜂谷さんは架空ではあっても、どうしたって「ことば」との類似を連想される声の使い方をしている。この二人を同じ視点から論評することは難しいように思える。極論すれば同じ声という道具立てを使っていても「ジャンルが違う」ようにも思えるのだ。
また、灰野さんと巻上さんだって、どちらも声の究極の技法を駆使しているとは言っても、どちらかというと灰野さんのステージが音楽との隣接性を感じさせるのに対し、巻上さんの声使いは演劇空間に近いように思える。
また、蜂谷さん、さがゆきさんと天鼓さんだって、部分的には似たような印象を持つ瞬間もあるのだけど、どこか「表現の方向」自体が異質であるように思える。
つまりはこの「声」の表現ジャンルは、少なくともジャズのように「演奏の良し悪し」といったシンプルな基準軸でどうこう言うこと自体が難しい。要するに、その人がいったい何を、あるいはどういったものを表現しようということの見極め自体が、ジャズなどより難しいのだ。しかし、そのことを裏返せば、まだまだ未開拓の沃野が広がっている分野であると言えるように思えるし、観客にとっては、ありうべき多様な表現の枠組みを探索する面白さがある世界とも言えるわけだ。
まあ、シロウトの初体験だけに見当外れは多々あることかと思うが、平にご容赦。
FESTIVAL NEO-VOICE #1
青山円形劇場
福島恵一音盤レクチャー「耳の枠はずし−不定形の聴取に向けて」 第1回:デレク・ベイリーと「音響」以降2010年3月28日(日) 吉祥寺 サウンド・カフェ・ズミ |
一見とらえどころの無いように思えるベイリーの音楽が、
考え抜かれた末のものであることが実感として理解できた。
3月28日、日曜日午後3時から吉祥寺の「サウンド・カフェ・ズミ」で開催された、福島恵一氏音盤レクチャー『耳の枠はずし』第1回「デレク・ベイリーと“音響”以後」のご報告をいたします。まずもってこの講演のレベルは大変に高い。ちょっと高すぎるようにも思える。「高すぎる」点については後述するが、私のように、ベイリーのことは当然知っているとは言え、あまり熱心な聴き手でもなく、また、その方面に対する知識も浅い人間にとっては、大変にありがたく参考になる講演であった。
冒頭、BGMのようにして流れていた、Tomoko Sauvage についての福島さんのブログ「耳の枠はずし」3月22日の記事を読み、私は福島さんのご意見に深く賛同したのが、この講演を聞いてみようと思う動機の一つだった。そこで語られた
音は我々の外にある。音は決してコミュケーションの道具ではなく、相手の意図を運ぶ乗り物でもない。たとえある意図を込めて発信したとしても(たとえば言葉のように)、必ず他の何かが紛れ込み、憑依する。発信者の意図を推し量ることで、音をわかった気になるのはやめにしよう。それは「聴くこと」を貧しくすることにほかならない。だいたい「聴くこと」は、そんな風に人間の自由になんてならないのだ。
という見方、まさに同感です。また、
Tomoko Sauvageの生み出した音の不可思議な手触り、揺れる息遣い、おぼろに移ろう色合いを、「水を張った茶碗をかき混ぜる」動作やそれをコンタクト・マイクで拾う仕掛けに還元してしまえば、それはひとつの「ネタ」へと矮小化され、見て、あるいは知ってさえいれば、「ああ、あれね」と片付けることもできる。それが情報消費のやり方だ。こうしたことを続けている限り、人は「聴くこと」の豊かさへたどり着くことはないだろう。
これもまた、私が普段から音楽ばかりではなく、美術作品や映画に対して抱いている思いを代弁しているように思えました。このように、音楽に接するスタンスにおいてある種の共感を得られる福島さんのお話は、一つ一つが「そうだよね」という思いをもって受け止めることが出来たのです。
当日の講演に沿って言えば、フリー・ミュージックにおいて「意図がわかる」ということの問題点についての指摘は、いわゆるフリーおたくの陥りがちな罠を過たずに打っているように思える。もちろん「発見」も数多くあって、デレク・ベイリーの演奏と原子崩壊のスライドを対比させる試みなど、「なるほどなあ」と思わせるものでした。確かに音は視覚イメージを惹起することがあり、また、ベイリーの奏法やさまざまな技法の効果を、視覚を用いて説明しようという試みは新しい。
他にも福島さんのやり方は具体的にベイリーの演奏を分析し、それがどのようなものであるのかをいくつかのパターンに分けてていねいに説明してくれるので、一見とらえどころの無いように思えるベイリーの音楽が、かなり考え抜かれた末のものであることが実感として理解できました。
とは言え、贅沢な批判かもしれませんが、ものすごく濃い内容を福島さんはあたかも当然のことのようにすらすらとお話しになるので、こちらとしては、「そこはオイシイ話なのだからもっともったいつけてもいいのに」などと余計なおせっかいを言いたくなる場面もあった。
そこで冒頭の「レベルが高すぎる」という話になるのですが、それは「難解」だとか「わかりにくい」という意味ではなく、音楽評論において極めて重要なポイントがてんこ盛りになっているので、もう少し内容を絞って、それぞれの問題についてじっくりと語ってもよかったのではないかという、感想です。
なんというのかなあ、福島さんの想定しているお客さんのレベルが高すぎるというのか、まあ、確かに高いとは思えるのだけど、もう少し個々の固有名詞などについて、冗長だという批判を覚悟の上で、詳しく説明しても良いのでは、と思いました。それにしても福島さんはよく研究していらっしゃるし、見識も高い。この日の講演も含め、一冊のまとまった書物としてじっくりと福島さんの頭の中身を味わってみたいと思いました。
福島恵一ブログ「耳の枠はずし」
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