pick up disc / 注目作クロスレビュー
2009.01.19
Disc Jacket
村井康司の見解
市野元彦: Time Flows (Like Water)

BounDEE Jazz Library DDCB-13007

1. Oceanus 2. Doze Off 3. No Restrictions For Plasterer 4. Sanpoji-Ike 5. Treat 6. Hiking 7. Start 8. Remembrance 9. No Restrictions For Plasterer (closing take)

市野元彦(eg, ag, loops) 是安則克(b) 外山明(ds) 土井徳浩(cl).
recorded at Studio Dede, Tokyo on October 19-20, 2007.

ゆらぎ、ふるえつつ耳を撫でさする音楽。
外山明のドラミングがすばらしい

 この作品については「スイングジャーナル」2008年12月号でレビューを書いた。というわけで、この文章はそのロング・ヴァージョンになってしまうのだが、そこはお許しを。

 まるで蜘蛛が体内から紡ぎ出す糸のように輝きつつ長く伸び、あるいは寡黙な少年がやっとのことで愛を告げるようにもぞもぞと口ごもり、ある局面では時空のキャンバスに半透明の絵の具で幻想的な光景を描き出すギター。

ジャズ・ギターが「線」ではなく「面」を十全に表現できるようになったのは、ビル・フリゼール以降のことではないかと思うのだが、そういう意味では、市野の演奏は明らかに「フリゼール以後」のものだ。もちろん、ジム・ホール、さらに遡るとエディ・ラングから市野に至るまで綿々と続く「もうひとつのジャズ・ギターの系譜」というものはあるのだが、ゆらぎ、ふるえつつ、かたちを次々に変化させ、ソロとバッキング(それを「地と図」と呼んでもいい)の区別を曖昧にする演奏を自覚的に実践する市野の試みは、たとえばベン・モンダーがそうであるように、フリゼールが切り開いた感覚と技術を、さらに発展させようという意図を強く感じさせる。

 ギターが描く「音の絵」に、さまざまなかたちで切れ込みを入れ、触発するドラムス。鋭さと柔らかさが同居する音色で、ギターに寄り添い、あるいは突き放すクラリネット。重厚なトーンで演奏の重心を下げ、水底に沈む巨岩のような存在感を感じさせるベース。市野を中心としたこのカルテットの演奏は、たとえばブルックリンやビレッジのクラブで日々行われている「今のニューヨーク・ジャズ」にきわめて類似したテイストを持っている。

 誤解を恐れずに言えば、ここで市野たちが演奏している音楽は、ポール・モチアンのトリオ(ビル・フリゼール、ジョー・ロバーノ)が80年代から演奏し、いつのまにか少なくない数のミュージシャンたちが共有するようになった、触覚的に耳を撫でさすり、リズムや音のテクスチュアが可塑的に変型し、アメーバ状にゆっくりと拡がっていくサウンドの系譜に繋がるものだ。

 個人的な驚きのひとつは、こうしたサウンドの中で聴く外山明のドラミングが、ポール・モチアンの演奏と共通の発想を感じさせたこと。外山の演奏は、どんなバンドにあっても、新鮮な驚きと喜びを聴き手に与えてくれるのだが、ここでの彼のプレイは、いつにも増してフレッシュであり、それでいてこのグループの音楽にとてもつきづきしくフィットしている。ドラムスという楽器の可能性を更新する、すばらしい演奏だと思う。

2009.01.16
Disc Jacket
後藤雅洋の見解
市野元彦: Time Flows (Like Water)

BounDEE Jazz Library DDCB-13007

1. Oceanus 2. Doze Off 3. No Restrictions For Plasterer 4. Sanpoji-Ike 5. Treat 6. Hiking 7. Start 8. Remembrance 9. No Restrictions For Plasterer (closing take)

市野元彦(eg, ag, loops) 是安則克(b) 外山明(ds) 土井徳浩(cl).
recorded at Studio Dede, Tokyo on October 19-20, 2007.

従来の日本の音楽特有の演歌的湿り気が無いのはOK。
NY派とは違うオリジナリティが今後のポイントだろう。

アイルランド音楽研究者として名高い大島豊さん(2月14日に「いーぐる」で氏の出版記念イヴェントを行います)が、ブログに私の『ジャズ喫茶 リアル・ヒストリー』の素敵な書評を書いてくださった。さすがと思ったのは、自分でも気が付かなかった盲点を指摘されていることだ。「日本人ジャズマンとの交流の記述が無い」。そうだよなあ、書いてないよなあ、でも、それも致し方ない。亡くなった阿部薫との個人的な交流があったとは言え、あまり積極的にミュージシャンと付き合おうとはしなかったのだから、、、

理由がある。私が、パーカーやストーンズ、そしてオーティス・レディングのシャウト、タクシー・チームのノリや、クールなバッハ、能天気なモーツアルトが好きなのは、日本音楽特有の演歌的湿り気が無いからだ。まあ、国粋主義者に天誅されちゃいそうだが、そうなのだから仕方ない。もっとも、古来からの邦楽には興味があって、民謡、謡曲の類はまったくわかっていないけど、心惹かれるものがある。

などと言っているけれど、ホントウの理由は別にあるのかもしれない。私が音楽に求めているのは「何か知らない、別世界」的なもの、ミステリアスなもの、なのだ。つまり、私たちの日常生活からネタが透けて見えるようなものは、イマイチなんではなかろうか。阿部の音楽にしても、私には妙に情緒過多と言うか、日本人であるからこそその機微がわかってしまう歌謡曲、演歌に通じる湿度感が、世評ほどのめり込まなかった理由のような気がする。パーカーのアルトはワケがわからないから良いのだ。

さて、本題である。垢抜けしたジャケット・デザインと言い、最初の一音といい、よくよく表記を見なければ、まあ日本のジャズとは思えない。私たち団塊世代が耳にしてきた「日本人ジャズ」は、「最初の一音」はオオゲサとしても、ちょっと聴けばコリャ日本人だ、とわかることが多かった。例えば山下洋輔が注目されだした頃、日本のセシルみたいなことを言われたこともあったけれど、一度彼ら特有の日本的リズム感や発想が見えてしまうと、セシルの音楽とは本質的に別物だと言うことがわかってしまう。もっとも、だから好きだと言う人も当然いるわけで、単に私はそうではなかったということなんだろう。

では、このアルバムが日本的でないことをどう評価すべきなのだろう。私の個人的第一関門(エラそうな言い方だ)はOKと言うことだ。つまりネタが見えちゃうからどうの、とか、湿気っぽいからこうの、という綾はつけない。グローバル・スタンダード(冗談です)で聴ける。その一方で、ブラインドで聴いたら近頃のニューヨーク派(そんなものは無いとしても)的サウンド、テイストであることも確かで、じゃあオリジナリティはどうよ、ってところが今後のポイントだろう。

2009.01.15
Disc Jacket
原田和典の見解
市野元彦: Time Flows (Like Water)

BounDEE Jazz Library DDCB-13007

1. Oceanus 2. Doze Off 3. No Restrictions For Plasterer 4. Sanpoji-Ike 5. Treat 6. Hiking 7. Start 8. Remembrance 9. No Restrictions For Plasterer (closing take)

市野元彦(eg, ag, loops) 是安則克(b) 外山明(ds) 土井徳浩(cl).
recorded at Studio Dede, Tokyo on October 19-20, 2007.

一定の音量を保ったままクールにゆがみひずむギター、
現在形のマジックを引き出すクラリネットに興奮!

まず、起きがけに聴いた。やけに短いCDだなあ、と思って、もう一度かけた。やはり短く感じる。
そこで収録時間を見たところ、あら不思議。61分何秒という表示が出ている。長いじゃん。
ということはつまり、内容がそれだけ充実していたのだと考えて差し支えなかろう。駄演なら、たとえ3分でも苦行である。
是安の図太い音、空間にさまざまな小石を散りばめていくような外山のドラムスも気持ちいいったらありゃしない。土井のクラリネットも、市野の漂うようなギターとエロチックなまでに絡み合っている。
ぼくはかねがね疑問だったのだ。何がって、クラリネットが過去の楽器扱いされていることが、である。アメリカではドン・バイロン、デイヴィッド・クラカウアー、ペリー・ロビンソン、ベン・ゴールドバーグなどがこの楽器から現在形のマジックを引き出している。なのに、日本ときたらどうなんだ。ぼくの認識不足なら謝るが、クラリネットがスイング時代の遺物として捉えられているのだとすればそれはファンだけではなく演奏者にも責任があるんじゃないのか? レッツダンスもシングシングもいいが、それを継承したところで未来はないぜ。
土井のようなクラリネット吹きがあと4,5人あらわれたら日本のジャズ界はもっと頼もしくなるだろうなあ。
と、文章を締めくくろうとして、市野のギターについてあまり触れていないことに気づいた。一定レベルの音量を保ったままクールにゆがみ、ひずむあたり、ベン・モンダーあたりを相当研究したのかもなあと思う。こういうアプローチ、ぼくは大好きだし、とくに「Treat」には興奮させられた。このCDは07年録音なので、今の彼はもっと進化していることだろう。俄然、ライヴが見たくなった。


2009.01.15
Disc Jacket
八田真行の見解
市野元彦: Time Flows (Like Water)

BounDEE Jazz Library DDCB-13007

1. Oceanus 2. Doze Off 3. No Restrictions For Plasterer 4. Sanpoji-Ike 5. Treat 6. Hiking 7. Start 8. Remembrance 9. No Restrictions For Plasterer (closing take)

市野元彦(eg, ag, loops) 是安則克(b) 外山明(ds) 土井徳浩(cl).
recorded at Studio Dede, Tokyo on October 19-20, 2007.

ひどく懐かしいが実在したとは限らない過去の情景、
あるいはその再編成されたイメージを聞き手の心に喚起する

実家の近所には石神井公園という公園があって、そこには三宝寺池という大きな池がある。湧き水が出ているので冬も凍らず、白鳥が越冬のために飛んできたりもする。十数年前には、ワニだかワニガメだかが目撃されて大騒ぎになったこともあった。そして結局うやむやのまま終わった。いつものことだが。

子供のころ、わたしは近所の友達とよく三宝寺池へザリガニを釣りに出かけたものだ。公園内の茶店でサキイカの切れ端をもらい、たこ糸に結びつけて池に垂らすのだ。ザリガニはあれで相当ずるがしこく、なかなか餌には食いついてくれない。隙あらばわたしたちを出し抜いて餌だけを奪いとり、さっさと池の縁のすみかに逃げ込んでしまう。釣れるのはわたしたちと同じくらいとんまで辛抱のない、ダボハゼという小魚ばかりだった。

そんなある日、相変わらずザリガニが釣れずにふてくされているわたしたちのところへ一人の男が歩み寄ってきた。おにいさんというにはとうが立ちすぎていたが、おじいさんというほどの歳ではなかったと思う。

その男はザリガニ釣りの天才だった。とにかくよく釣れた。あっという間に十匹は釣り上げたはずだ。そもそもそこに十匹もザリガニがいたこと自体驚くべきことだった。わたしたちは文字通り口をぽっかり開けて感心していた。彼はわたしたちにザリガニ釣りのこつを伝授して、颯爽と、来たときよりも心なしか肩をそびやかして去っていった。彼によれば、ザリガニが潜んでいる穴の前でイカに結んだ糸を引き、餌をぴょんぴょん上下させることが重要なのだと言う。言われた通りにやってみたが、どうしても彼のようにはうまく釣り上げることができなかった。

最近でも、こどもたちは三宝寺池でザリガニを釣っているのだろうか。ザリガニやダボハゼたちは、今もあそこで餌が下りてくるのを虎視眈々と狙っているのだろうか。それにしても、平日の真っ昼間、延々とこどもたちにザリガニの釣り方を教えていたあの人は、いったい何者だったのだろう。

*

市野元彦のアルバム、『Time Flows (Like Water)』には、「Sanpoji-Ike」という曲が収録されている。ライナーノーツによれば、彼も以前石神井公園の近所に住んでいて、そこからタイトルをつけたのだと言う。石神井公園ともザリガニとも、あるいは近所の友達とも縁遠くなってもう20年以上になるが、この曲を聴いて、唐突に、かつての三宝寺池でのザリガニ釣りの一部始終を思い出した。

わたしには、この音楽は、ビル・フリゼルやジョン・アバークロンビー、あるいはポール・モチアンといった人々がかつて80年代から90年代に展開したような、ある種の音楽と同質のものに聞こえる。静かな曲調、音色やテクスチャーへのこだわりといった表面的な類似もあるが、音楽によって描き出そうとしている表現の内実そのものがよく似ているように思われるのである。彼らの音楽には、かつてジャズと呼ばれていた音楽の最良の部分が持ち合わせていたような、聞き手を否応なしに作品世界へと引きずり込む暴力的な吸引力やシンプルな高揚は存在しない。その代わり、彼らの音楽はあたかも触媒のように、ひどく懐かしいが必ずしも実在したとは限らない過去の情景、あるいはその再編成されたイメージを、聞き手の心に喚起することができるのである。それだけに、リスナーに対しては通常以上に注意深い聴取を強いるところがあるのは否定できない。ようするに、これらはリスナーからの歩み寄りを必要とするタイプの音楽なのである。ややもするとこの種の音楽は平板で退屈なものになりがちだが、例によって外山明の瞬発力抜群のドラミングが起伏と緊張感を与え、押しつけがましくなることなく全体をきゅっと軽く引き締めている。

おそらく、これは好みが分かれるアルバムなのではないかと思う。わたしは、あまり新味は無いにせよ、現在の空気を反映した優れた音楽だと思った。


2009.01.15
Disc Jacket
益子博之の見解
市野元彦: Time Flows (Like Water)

BounDEE Jazz Library DDCB-13007

1. Oceanus 2. Doze Off 3. No Restrictions For Plasterer 4. Sanpoji-Ike 5. Treat 6. Hiking 7. Start 8. Remembrance 9. No Restrictions For Plasterer (closing take)

市野元彦(eg, ag, loops) 是安則克(b) 外山明(ds) 土井徳浩(cl).
recorded at Studio Dede, Tokyo on October 19-20, 2007.

ステディなリズムに飽きた結果として生まれた音楽と、
ポストモダン・ジャズの流儀の関係性とは?

リヴァーブを効かせた独特のフィンガー・ピッキングによるソフトで儚げな音色。ビバップ臭のない、シングル・ラインよりもアルペジオに近い、常にハーモニーの動きを感知させるアドリブ展開。市野元彦の演奏は、既にかみむら泰一や橋爪亮督のCDで耳にしていた。真っ先に思い浮かべたのはベン・モンダーとの親近性であり、その背景には彼の師匠に当たるミック・グッドリックへと連なる現代NYギターの系譜が見えてはくるものの、それはカート・ローゼンウィンケルからマイク・モレノやラーゲ・ルンドへと受け継がれている大きな流れとはかなり異質のものだ。

雑誌等で目にした本作に対するレヴューの多くは、概ねビル・フリゼールとの類似性を中心に語られ、付随的にポール・モティアン(ライナーで市野自身が言及しているくらいだ)やオーネット・コールマンからの影響に触れられている。確かに、フリゼール的な曲想やフレーズがまったく無いわけではないが、浮遊感のあるサウンドとループの導入だけから、フリゼールが引き合いに出されているような気がしてならない。市野の音楽が、そんな表層的な捉え方をされているのだとしたら非常に残念だ。当然ながらここには、あの、失われたアメリカに対する追憶、存在しないアメリカに対する憧憬は存在しないからだ。

筆者は以前、ディスクユニオン新宿ジャズ館で行われた本作の発売記念ライヴについて記している。本作に対する認識はほとんど変わらないものなので、少々長いが引用しておこう。

*
蜃気楼のように儚げな浮遊感を漂わすギターに対し、ベースとドラマーは思い思いに寄り添ってみたり、微妙にタイミングを訛らせたり、明からさまにビートをズラしたり、あるいはまったく異なるリズム・フィギュアを叩き出したりすることによって、静かに流れる水面の表情とは対照的に、時に流れを堰き止め、淀みを作り、川底を浸蝕し、川岸を削り、時折水飛沫を上げながら、長大な時間を通じて、川の形そのものをまったく違った相貌に変えてしまうような時間の流れをイメージさせる。まさに、Time flows like water。
*

市野のギターは、ソロを取っているときでさえ、背景に退き、まるでベースやドラムが反応しあったりしなかったりするための「場」を用意しているように聞こえるときがある。言い方を変えれば、ベースやドラムの「伴奏」を務めているように聞こえるときがあるということだ。この音楽には、従来のモダン・ジャズの捉え方からすれば、そのように受け取られても仕方がないような側面があると言って間違いないだろう。

乱暴を承知で要約してしまえば、近代の純粋芸術とは、予め存在する自己を表出したり表現したりすること、即ち外部からは見ることのできない自己の内部を外部へと再現することであり、他の目的に奉仕することのない自律した人間の営みとしてのオリジナルな価値の源泉がそこに求められてきた。それは、芸術を創造する主体が神ではなく、総体としての人間であると同時に、個人=自己であるということの宣言でもあった。それに対して、ポストモダンの思想が明らかにしたことは、自己なるものとは決して予め存在しているわけではなく、既に内部に組み込まれている構造と、環境や状況との関わり合いに応じて、その都度その都度に生成してくるものに過ぎないということだった。

モダン・ジャズのソロ演奏は、例えば「言いたいことを言い切っている」というような言い方で評価される場合がある。そのような言い方が妥当であるような意味で、予め自己の内部にあるものを演奏行為を通じて再現するのではなく、その都度その都度の演奏行為を通じて自己を生成しつつ、演奏に関わる共同性(=自分たち)をも生成していくこと。また、それと同時にその演奏を聴くことを通じて、新たに生成されつつある自己(と自分たち)に触れようとすること。そして、その音楽は聴き手に対しても、聴くことを通じて演奏者と同様に音楽に向き合い、そこから生成されてくる新たな自己(や私たち)に触れるように求めてくること。それこそが、世紀の変わり目に前後して現れてきた、モダン・ジャズとは様相を異にするポストモダン・ジャズの在り方の核心のひとつなのではないだろうか。

本作に収録された楽曲の多くは、是安と外山との共演を念頭に書き下ろされたものだという。そして、『ジャズライフ』2009年1月号のインタヴューでは市野自身が、ステディなリズムで演奏することに飽きてしまった結果、本作の構想に至ったと語っている。演奏のガイドラインのひとつとなる定型的なリズムを前提としないのであれば、各々の演奏者が発する各々のリズムを聴くことと同時進行で、瞬間瞬間に自分のリズム、自己の時間を生成しつつ、演奏者間の時間の差異から生まれる「揺らぎ」を内包した共同の時間を織り成して行かねばならない。このプロセスは、上記のポストモダン・ジャズの在り方と流儀を同じくするものだ。

ライヴでのほうがレコーディングから時間を経ているためか、「揺らぎ」を内包した音楽としてのまとまりと、一見それとは相反する各人の自由度の双方が格段に増していた。だからといって本作の価値が下がるものではない。ここにはもう一つ別の要素が存在する。

80年代にドン・バイロンが登場して以降、NYでは徐々にクラリネットを演奏するミュージシャンが増えてきた。今ではクリス・スピードを筆頭に、スウィング時代への懐古趣味ではない、現代的な感覚を体現する演奏家たちがシーンの一角を着実に占めている。土井徳浩のクラリネットも彼らに通じるメロディックで印象主義的なものに聞こえる。思い思いに時間の流れを生成する3人に、土井もまた異なった時間の流れで寄り添うことで、もう一つの「揺らぎ」を上書きしているのだ。

2009年3月には遅ればせながら、本作の発売記念ツアーが用意されている。土井も加えたライヴ演奏が一体どのようなものになるのか、今から楽しみだ。


市野元彦のバイオグラフィおよびライヴ・スケジュールはこちらを参照<http://www.motohikoichino.com/page/japanese.html



参考文献:
松宮秀治「芸術崇拝の思想 ― 政教分離とヨーロッパの新しい神」(白水社)
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