「結果として」ではなく、
「表現として」の線の細さを感じる。
参加している楽器は、サックス(テナーとソプラノ)、ウッド・ベース、ドラムスだけ。ただしベースとドラムスはそれぞれ2人ずつ入っていて、トリオ(サックス、ベース、ドラムス)とカルテット(サックス、ベース×2,ドラムス1)とクインテット(サックス、ベース×2,ドラムス×2)の演奏が混在している。13曲中ジョシュア個人のオリジナルが9曲で、参加メンバー4人がクレジットされた共作が1,グレナディアとブレイドの作品がそれぞれ1曲ずつ、そして「ムーンライト」はベートーヴェンのあの曲だ。華麗なデビューからずっと、僕はジョシュアに積極的な魅力を感じたことがあまりなかった。たいへんに優秀でテクニカルな音楽家であり、オッド・タイムやリズミック・モデュレーションといった、現在のジャズの常識というべき手法を、早い時期に大胆に導入した先駆者がジョシュアだ、ということも分かっているのだが、一音聴いただけで「これがジョシュアだ!」と分かる個性が、彼の演奏には希薄なのだ。そのあたりは、「ジャズ・ミュージシャンの個性」ということに対する自分の感覚がもはや古いのかな、という気もしないではないのだが。
さて今回はどうだろう。ピアノやギターが入っていないことで、空間の存在が強く意識される場に、ジョシュアの線の細いテナーがふわっと浮かび上がる。その「線の細さ」は、今までの彼の「線の細さ」とはどこか違うように思えるのだ。それは「結果としての線の細さ」ではなく「確信犯的な、表現としての線の細さ」なのではないか。そしてそれこそが、彼が到達した「ジョシュアの個性」なのだと僕には思える。
曲のテーマのアブストラクトなそっけなさ、抑制された中に細やかなニュアンスを込めたサックス演奏のディテール、時として現れるエモーショナルな、しかし情動失禁的ではないクライ。ある意味で今回のジョシュアは、今までの作品中最も「地味」なのかもしれない。しかし地味であることは、必ずしも「つまらない」ことを意味しないはずだ。表現の細部をじっくりと聞き込むことによって、このアルバムはどんどんおもしろくなっていくのだと思う。
しかし今さら何ですが、ベートーヴェンっていいメロディ書くんですねえ(馬鹿)。
音程や音色が揺らぎ続ける実体感の希薄なテナー。
まるで別人のようなジョシュアは一体何者なのか?
ゆったりしたメロディをゆらゆらと揺らめくような微妙な音程で奏でる、ひんやりとクールな感触のテナー・サウンド。あれっ、ジョシュア・レッドマンって、こんなに温度感の低いテナーだったっけ? 久しぶりに『Mood Swing』(Warner Bros.)を引っ張り出して聴いてみる。1994年録音(もう15年も前だ)、彼の代表作と言われるアルバム。ここでの彼のテナー・サウンドは艶と甘み、そして適度な温かみを感じさせるもので、自らの若さに微塵の疑問も抱かないような自信に溢れた、かなり饒舌な吹奏を繰り広げている。デューイ・レッドマンの息子という出自よりも、ハーヴァード大学卒業の黒人エリートがミュージシャンに転身、という話題性が注目されたデビュー。オーソドックスなアクースティック・クォーテットから、徐々にソウルやファンク、ヒップホップに繋がるテイストへ移行し、エレクトリック・サウンドを導入したエラスティック・バンドに至るまでの彼の音楽の変遷は、アメリカ国内の音楽市場に対するマーケティング意識を過剰に反映したプロダクションに感じられた。一方、エラスティック・バンドの2作目『Momentum』やピアノレス・トリオを核としたアクースティック回帰の前作『Back East』(共にNonesuch)といった、多彩なゲストを招いて楽曲毎に異なるメンバー編成で行われた録音は、彼の迷いを示すが如く散漫な印象しか残らないものになっていた。
ところが、ここでの音楽はどうだ。テナー吹奏の中に回復した自信が窺える、というわけではまったくない。寧ろスカスカとした実体感の希薄なテナー・サウンドは、これまでにないほどクールで温度感が低いばかりでなく、音程や音色が揺らぎ続けるやや不安定なもの。ベートーヴェン作曲「Moonlight(月光)」のように、楽曲によってはメロディをほとんど崩さずになぞるだけ。一方、冒頭の「Uncharted」も同じく作曲された旋律のみかと思っていたら、こちらはコレクティヴ・インプロヴィゼーションだという。一聴、ポール・モティアンを嚆矢とするNYダウンタウン〜ブルックリン派のサウンドを想起させる。これこそが長い迷いの末にようやく辿り着いた彼の“本音”なのだろうか?
強烈な個性に否応もなく引きずり込まれる類の音楽では決してないし、各々の楽曲の印象も然程強いものではない。しかし、不思議と単調さを感じることもなく、聴き手の気分にじんわりと寄り添ってくるような音楽。常にセンターに位置し、曲によっては饒舌なアドリブまで展開するサックスよりも、メンバー相互の発する音に触発されながら、絡み合ったり、反対に突き放し合ったりすることで、表情を変化させ続ける2組のベースとドラムに耳が惹き付けられる。こうした音楽のことを説明する際に、以前はわかりやすさを優先させて“フロントとリズム・セクションの逆転現象”等と呼んでいたのだが、無論これは事態を正確に表現した言葉ではない。
00年代に入って以降に活発になった創造性や創造力を巡る議論では、「作者」ではなく「環境」に焦点が当てられているという。突然、話がトンでもなく見当違いな方向に飛んだように思われるかもしれないが、そうではない。従来は芸術分野に限らず、創造性、創造力といえば自由な主体が独創性、オリジナリティに溢れた作品を生み出す源泉のことだったと言って差し支えないだろう。だが、インターネットがデフォルトと化した情報・コミュニケーション環境においては、創造力というよりも「生成力」と呼ぶべき能力が、主体ではなく「環境」としての制度やアーキテクチャによって生み出される。そして、「生成力」に期待される機能は独創性ではなく、ハブとしての媒介中心性だという。私は専門の研究者でも何でもないので、この話にこれ以上立ち入ることは避けたいのだが、こうした音楽でソロイスト(ここではジョシュア)が果たしている役割とは、各メンバー(ここでは左右に分かれた2組のベースとドラム)間のハブとしての「媒介中心性」であり、演奏の枠組みとなる「アーキテクチャ」をリアルタイムで設計することなのだ、と考えることはできないだろうか?
21世紀に入ってからのNYダウンタウン〜ブルックリン派等の新しいジャズの傾向に理解を示さないジャズ・ファンは少なくない。彼らは上述の図式=自由な主体の創造力がオリジナリティに溢れた作品を生み出すという物語を信じている。彼らは独創的な創造力を発揮する主体を“創造主=神”として崇める。そして、彼らは神の代理人として、新しいジャズの担い手には独創的な創造力が不足していると審判を下すのだ。しかし、音楽に限らず文化を取り巻く環境は根底から変わりつつあるのではないか? それに伴って、音楽を演奏する/聴取する枠組みも、それらを支える価値基準も変わって行かざるを得ないのではないか? 例えば、現代の消費者はコンテンツそのものよりもコンテンツにまつわるコミュニケーションを重視する傾向があるという。音楽を鑑賞するのではなく、聴くという積極的な行為を通じて何かを生成すること。歩みは遅くとも、その何かを追いかけて行きたいと私は考えている。
参考文献:
東浩紀・北田暁大 編「思想地図 vol.2」(NHKブックス)
フワフワしたスモール・トーンで、たぶん一生、優等生。
でも、優等生ジャズにも優等生ジャズなりの面白みがある
国内盤のライナーノーツを書いた。そこでは主役のジョシュア中心に触れたので、ここでは参加ミュージシャンについてスペースを割く。ラリー・グレナディアの美しい音色と端麗なフレーズ。
成長著しいルーベン・ロジャースのしなやかなリズム。
活火山と化したグレゴリー・ハッチンソン。
いうことなし、やることなすことキマりまくったブライアン・ブレイド。
ブレイドはしかも、オリジナル曲(13)まで提供している。これがラストにきたことで、アルバムの印象は鮮明になった。
僕はジョシュアのプレイをワールド・デビュー前から富士や斑尾のジャズ・フェスティバルで聴いている。折り目正しいのはいいとしても、音数をもう少し減らし、その減らしたエネルギーを音色の太さにまわせばいいのになあ、と思った。
だが考えてみれば、管楽器の音色は奏者の体格、より厳密にはアンブシャー(口の形)、頭蓋骨に左右されるというではないか。つまりジョシュアの、あのフワフワしたスモール・トーンは、彼の頭蓋骨とアンブシャーが生んだ結果なのである。エディ・ロックジョー・デイヴィスやサム・リヴァースのような頭蓋骨を持っていれば、一音をフッと吹いても、障子を4、5枚突き破るほどの音圧が出たかもしれない。
が、ジョシュアには相変わらずスター性がある。男気あふれでるゴツイ漢よりも、さわやかな笑顔のスマートなオトコがウケる風潮には依然として歯止めが利かない。世間的には志賀勝よりも谷原章介のほうが断然、ハンサムなのだし。
テナーにしろソプラノにしろ、あいかわらず優等生だなあ、と思う。たぶん一生、優等生だろう。(7)の6分24秒あたりではグロウル(声を混ぜながら吹く奏法)も聴くことができるが、父デューイ・レッドマンのそれ・・・・楽器の音22%、雄叫び78%と勝手に測定させていただく・・・・に対して、なんというか、ジョシュアの表現ときたら楽器の音92%、穏やかな語り口調の声8%ぐらいな感じのすごい物腰やわらかなグロウルであり、こんなのグロウルの風上にもおけない、とあの世でデューイがウィリス・ジャクソンやイリノイ・ジャケーと一緒にクダを巻いていても不思議ではない。
でも、優等生ジャズにも優等生ジャズなりの面白みがある。少なくとも自分が聴いたジョシュアのアルバムの中では、この作品がいちばん、興味深く響いてきた。
おもしろくないのである。つまらないのである。
ジョシュアには表現のコアとなる切実なものがないのだ
上手いんだけど旨くはない、と言うのが、今までわたしが抱いていたジョシュア・レッドマンのイメージだった。器楽奏者としてはずば抜けた技量を持っているし、作曲の才もそれなりにある。なのに、聞いても一向に心躍らない。グッと来ない。ジャズとしての旨味が欠けているように思われてならないのだ。まあ、「心躍る」だの「グッと来る」だのというのはひどく主観的な感覚なので、そんなのおまえの好みに過ぎんだろと言い返されれば一言もないのだが、一応付け加えておけば、一概に心躍ると言っても単にノリが良いとかアップテンポであるとか、さすがにそこまで雑駁な話ではない。静かで内省的な音楽であっても、心躍るもの、グッとくるものはいくつも存在する。ジョシュアの演奏にしたって、曲調やテンポといった表面的な点ではバラエティに富んでいるのである。問題は、表現の内奥に秘められた熱の塊、高揚した感情みたいなものが、あまり感じられないということだ。
今回レビューする新作の『Compass』はピアノレス、ギターレスのシンプルな編成で勝負したもので、意欲作であることを認めるにはやぶさかでない。2006年発表の前作『Back East』は、編成のみならずタイトルやレパートリーからしてソニー・ロリンズの金字塔『Way Out West』を意識していることが明らかで、どんなものであれかつての名作のカバーというコンセプトそのものをあまり評価しないわたしとしては正直言って鼻白む部分もあったのだが、今回は自分やバンドメンバーのオリジナル曲を中心に固めていて、その点は高く評価できる。例によってサイドメンも一流どころを揃えているし、演奏の技術的水準も相変わらず高い。一部の曲で採用されたダブルベース、ダブルドラムスという試みにどれくらい意味があったかは率直に言って疑問だが、とにかく月並みなことはやりたくないという意欲は買える。
ただ、先ほど述べたようなジョシュアの音楽の本質的な問題点は相変わらずだ。身も蓋もない言い方になってしまうが、一所懸命やっているのは分かるけれど、聞いても大しておもしろくないのである。つまらないのである。何度か通して聞いたが、結局何も印象に残らない。構成力の高さや破綻の無さが、音楽的にはプラスどころかマイナスとなってしまっている。
言い方を変えると、ジョシュアの音楽には、「吹っ切れた」ところがないのである。水泳に例えれば、常に足がつくところで泳いでいるような気がしてならないのだ。能力はあるのだから沖合に出て思うままにのびのびと泳ぎ回れば良いと思うのだが、そもそもそういうことをしたくないのではないか、と思われるふしもある。リスクを取ることができない、リスクを取ることを恐れている、というような能力的な問題ならまだしも、そもそもリスクを取ってまで言いたいこと、やりたいことがないのではないか、とすら思えてしまうのだ。
そもそもジャズに限らず、優れた表現者には必ず表現のコアとでも言うべき部分、何かどうしても表現したいことがあるとわたしは思っているのだが、そういった切実なものが、ジョシュアにはあまり感じられない。それが、結局は作品全体に漂う散漫さ、凝集力の無さ、あるいは説得力の無さにつながっているような気がしてならないのである。真摯で生真面目という、普通ならば美点とすら言えるジョシュアの資質も、つまらなさにいよいよ拍車をかけているようだ。そんなこと言われても、というジョシュアのぼやきが聞こえてきそうで、気の毒ではあるのだが…。
そんなわけで、私としてはこの作品を、あまり高く評価することは出来ない。ジョシュアに対するイメージも改められることは無かった。それでもなお、彼が2000年代を代表するジャズマンの一人であることは幸か不幸か否定できない事実である。何とか奮起を期待したい。
クロっぽくない、燃えない、ハッキリしない。
いまどきのニューヨーク派の音はジョシュアの転回点か?
デビュー以来、私のジョシュア・レッドマンに対する評価は決して芳しいものではなかった。巧いのはわかるけれど、今ひとつ聴き所が掴めない。そんな中で比較的気に入っていたのが、だいぶ作風を変えた、というか彼の代表作とはいえない2002年の『yaya3』。要するに、私はジョシュアのあまり良い聴き手とはいえないのだ。だがこの新作には驚いた。何と言うか、いまどきのニューヨーク派の音がするのである。ところで「いまどきのニューヨーク派の音」とはいったいどういうものか? かく言う私も、ごく最近になって「この音」というか「テイスト」の微妙なニュアンスを聴き取れるようになったわけで、とうてい一般的ジャズファンの間で流通している形容とは思えない。
否定神学ではないけれど、ナイナイ尽くしでいってみよう。クロっぽくない、燃えない、ハッキリしないと続けば、これはジャズファンのメジャー層を支えるハードバップマニアに理解されがたいのも無理からぬ。
しかし、冷静になってみれば、これらの特徴は現在の社会状況を実に正確に反映しているとは言えないだろうか。オバマが大統領になった今、黒人の特殊性を声高に訴えるのは明らかに時代錯誤だし、時代がハッキリしない以上音楽がそれを映す鏡となるのはやむをえないだろう。燃えないといっても、それはかつてのジョニー・グリフィンやらブッカー・アーヴィンの誰にでもわかるブリブリ・ブローを念頭においての比較で、内に秘めたパッション熱量は決して低くは無いのだ。たとえてみれば、新主流派時代のジョーヘンの抑えた熱気に近い。
もう少し肯定的に言うならば、抑制とコントロールの利いたサウンドは、明日はどうなるのか誰にもわからない今、それでも生きていかざるを得ないわれわれの置かれた状況を、クールかつ淡々と描いているようにも聴こえる。つまりは、ジョシュアの今回の新譜は、ハッキリしない状況をハッキリと描き出しているのである。
と書いてきて気が付いた。黒人なのにクロっぽくなく、巧いけど燃えず、今ひとつ聴き所がつかめないのがジョシュアの欠点だったのではないか。だとすれば彼はそうした自身の問題点を、そのまま肯定的評価に結びつけられる転回点を迎えたのだろうか。



