ここでのキースは実に楽しげである。スイングしている。
そのためか、なんか演奏が心にふっと入ってくる
キースのスタンダーズ・トリオ、2001年4月30日東京メトロポリタン・フェスティバル・ホールでの録音。2001年のツアーから4枚目のアルバムである(2001年の録音には、他に『Always Let Me Go』、『The Out-Of-Towners』、『My Foolish Heart』がある)。最近リリースされるアルバム共通だが、このトリオは脳裏に強烈に焼き付けられているあのスタンダーズ・トリオではない。どうしてもスタンダーズ・トリオといえば、あの『Standards, VOL.1/2』(1983年録音)、そして『Standards Live』(1985年録音)に聴かれるような力強いタッチと過剰に陶酔しきった状態から溢れ出すメロディとヴォイシング、そしてうなり声。もちろん、ピーコックの対位的なベースワークと、力の入れ具合が絶妙なディジョネットのドラミング。
しかし、この新作『Yesterdays』はどうだろうか。1曲目、ホレス・シルバーの「Strollin'」が始まった瞬間「キース丸くなったなぁ~。絶妙にスイングしてるし、なんか楽しそう」と感じたのである。80年代だとこうはいかず、「キース尖ってるなぁ~、絶妙にドライブしてるし、なんか心に突き刺さる、苦しそう」となってたはずだ。そういえばキースは、1945年5月8日生まれ。この録音のときは56歳。いい加減枯れ始めてもいいお年頃。ハンク・ジョーンズとかロイ・ヘインズとか宇宙人的存在が現役でうろうろされているとキースなんてまだまだ若いとか錯覚に惑わされてしまうのである。
私の中ではキースを3つの時期に分けて考えている。デビューしてから、スタンダーズまでが第一期、スタンダーズを始めて「ピアノ弾けない病」による隠匿までが第二期、そして復活してから現在までを第三期。第一期は、キースの中に神が降りてきていた。第二期は、神は去り人間キースが精神をパンパンに張り詰めた状態で苦しみながら演奏していた。第三期は自分に素直になり無理をせず演奏を楽しもうとしている。そう考えるとここでのキースの演奏は納得できる。実に楽しげである。今までスイングという言葉はキースには似つかわしくなかったのだが、この演奏は実にスイングしている。そのためだろうか、なんか演奏が心にふっと入ってくるというか。「Intro/Smoke Gets In Your Eyes」なんかは泣けてくる。人間キース・ジャレットを楽しむならこの第三期の演奏が一番。問題は人間キースの演奏が、第一期、二期以上に優れているかなのだ。第二期のキースのあの緊張感を体感してしまうと、第三期はどうしても物足りなさを感じてしまう。違う人と思えば納得できるのだが。それでもぞろぞろいるキース系とかエヴァンス系とか言われるピアニストに比べると雲泥の差は歴然なのだが。むぅ~。
そしてさらに時は残酷であった。2007年に新宿厚生年金会館でのスタンダーズ・トリオを聴きにいったときに感じたことは、選曲があまりにも日本人がリクエストしそうなものばかりでかつ、演奏がストレートすぎて面白みにかけていた。また、ピーコックの音が全然聴こえてこなかった。ピーコックもうだめかなぁと言われていた時期の来日だけに納得してしまった。選曲その他のこともピーコックのためを思ってのことかもしれない。だからこそ2001年の演奏がこんなにもリリースされるのだろう。
3曲聴けば十分。他のトラックは飛ばしていい。
2001年、東京文化会館での「スタンダーズ・トリオ」のライヴ。何で今頃これを新譜として出すのか、よくわからないなあ。僕はこのコンサートを生で観ているはずなんだけど、特に強い感銘を受けた覚えはない。即興演奏を延々と展開したオーチャード・ホール初日の評判を聞いて、楽しみにして出かけていったらスタンダードばかりでちょっと拍子抜け、という記憶があります。とまあ、ぶつぶつ文句を言ってしまったけど、演奏の質はさすがに高い。特に「イエスタデイズ」「煙が目に滲みる」といったバラードの深い音色、あるいはバップ曲「ショウ・ナフ」での8分音符連結のタッチの美しさは、やっぱりキースはとんでもないピアニストだな、と納得させられるだけの凄みがある。しかし、極論を言えば、このCDは今挙げた3曲だけで十分なのだ。他のトラックは飛ばしてしまっていいと思う。
ところでこれ、たしかアナログでも発売されたんですよね? ちょっと聴いてみたくはあります。
このトリオは新たに発表するに値する演奏を
最早生み出すことができない状態にあるのだ
これは形骸であり、残骸である。残氓(ざんぼう)ではない。8年も前の音源。しかも、最終曲「Stella by Starlight」は、別の日のサウンド・チェック時のテイクで、そのような本来ならば世に出るべくもない音源まで追加しなければ、作品として完成させることができないという事態とは一体何なのか? 即ち、このトリオは新たに発表するに値する演奏を最早生み出すことができない状態にあるということだ。それは、キース・ジャレットたちだけの問題でもない。いつからだろうか、ここ数年のECM作品は、「癒し系」と呼んでも差し支えないようなセンチメンタルで聴き易いものか、スタティックで無味乾燥なものが大部分を占めるようになっている。ミュージシャンのセルフ・プロデュースが増えているのも、そのような結果を招く一因ではあるだろう。しかし、我々の知るマンフレート・アイヒャーとECMとは、そのようなリリースを決して許さないような存在ではなかったか?
試みに最近のリリース、エンリコ・ラヴァ『New York Days』を聴いてみよう。マーク・ターナーのECM初登場に加え、ドラムスはポール・モティアン、こちらの期待は否が応でも盛り上がる。しかし、温和しくシンバルやスネアを撫でるだけのモティアンに、何時になく音程の飛躍が控えめなターナーのテナーは、まるで洞窟の中ででも演奏しているかのように付加された過剰な残響の中で今にも窒息しそうだ。その結果、都会の夜にマッチする少しアンニュイな雰囲気のBGMとしては高い完成度を有するが、それ以上でも以下でもない無難な音楽に終始している。
さて、本題はキースである。少なくとも80年代までのキースの音楽には、高度な技術に裏打ちされた密度の高い演奏だけでなく、そこからはみ出してしまう何かわけのわからない異様なものが感じられた。それはあの唸り声やまるで指が絡まりリズムがもたっているように聞こえる独特のリズム感の産物だけではなく、例えば私の耳には強靭なピアノのタッチから溢れ出し漏れ出してくる水気のようなもの、液体のようなもの、形を窺い知れず得体も知れないどこか暴力的なものでありながら不気味なだけではなく、寧ろ甘く柔らかいとすら言っていい程の弾力性と浸透力をも兼ね備えた何か、として響いた。しかし、ここでのキースのピアノからは残念ながら“ただのピアノの音”しか聞こえてこないし、それも本作に始まったことではない。
慢性疲労症候群という病気の所為にすることは容易い。だが、JAZZ TOKYOのインタビューでも語られているように、もっと大きな要因は『作曲する気が全然起きない』という発言から読み取れるのではないだろうか? 60〜70年代のキースは、良くも悪くも当時のジャズの枠には収まり切らない“異物”として強烈な存在感を放っていた。それは彼が即興演奏と作曲を不可分と考え、実践してきたソロ演奏に最も顕著に現れているものだった。だが、極度の集中力を要する長時間のソロ演奏をし(でき)なくなり、作曲をも放棄し、『自分が“最大に貢献できること”や“自分以外にできないこと”を考えた時、それは「インプロヴィゼーションをおいて他にない!」と気付いた』と言う彼に、ジャズの異物としての相貌を見ることはできない。ジャズ演奏として優れていればそれで良いじゃないか、という声が聞こえてきそうだが、“普通のジャズ”を演奏するのなら、それがキースである必要など全くないと私は考えているのだ。それどころか、あのリズム感が妙に気に触るようになって仕方がないではないか。
これでようやくキースの新譜に付き合うことを止める決心がついた。その意味では、この“新譜”に感謝している。
指先を鍵盤上で泳がせるようにソロを紡いでいく、
ぜんぜん“バップ”してない新しいキースに出会った
「バド・パウエルは、愛と美をプレイした」いつだったかキース・ジャレットがインタビューで話していた言葉である。僕はこのフレーズが好きだ。これだけでキースを信頼できる。
ラグタイムもフリーもロックもバロックもこなすキースだが、ビ・バップにも相当のめりこんでいた時期があるはずだ。だいいち、バップができなきゃアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに入れるわけがない。
チャールス・ロイド・カルテット時代の『ドリーム・ウィーヴァー』に入っている「バード・フライト」、リーダー作『シェイズ』の「シェイズ・オブ・ジャズ」、『バップ・ビー』のタイトル曲などなど。ゲイリー・ピーコック、ジャック・ディジョネットと組んだものでは『スティル・ライヴ』、『トリビュート』あたりに、僕は“バップ”を感じてやまない。
そこでこのアルバムなのだが、曲目を見て期待が高まりましたねえ。だって「ショウ・ナフ」に「スクラップル・フロム・ジ・アップル」ですよ。しかも冒頭にホレス・シルヴァーの隠れた名曲「ストローリン」が入っている。あんたアル・ヘイグか、といいたくなる選曲ではありませんか。
ですが、キースは、ぜんぜん“バップ”してない。あえてそういうフレーズやノリを避けながら演奏しているというわけでもなさそうだが(「スクラップル」後半の4バース部分をチェックしていただきたい)、熱狂、怒涛、刹那といった僕がバップに関して勝手に持っているイメージにかすりもせず、指先を鍵盤にめりこませる、というよりは指先を鍵盤上で泳がせるようにソロを紡いでいく。「ショウ・ナフ」テーマ部における左手の発想はどこから来たのだろう?
録音はやや古いが、僕はこのアルバムを通じて新しいキースに出会ったような気がする。
今のキースは往年の大打者が打ったホームラン性の当たりが
結局フェンス前でおじぎして二塁打、という情景のようだ
いわゆる「スタンダーズ・トリオ」の新譜である。新譜といっても、録音されたのは今を去ること8年前、2001年4月のことだ。東京文化会館でのコンサートの録音に加え、一曲だけ別会場(オーチャード・ホール)でのサウンドチェックの際の録音が入っているらしい。本作のようにフリー・インプロヴィゼーションではなくスタンダード曲を中心に取り上げたスタンダーズ・トリオの作品は、ここ10年ですでに3作世に出ている。おととし2007年に出た『My Foolish Heart』は2001年7月のモントルー・ジャズフェスでの録音。さらに前の2004年に出た『The Out-of-Towners』も、やはり2001年7月、ドイツでのライヴ録音だった。最も古い2003年の『Up for It』が実は録音日時としては最も新しく、2002年7月フランスでのライヴ録音である。つまり、今回出た『Yesterdays』は、スタンダーズのスタンダードものとしては6年前に出たCDよりも古い音源なのだ。なお、このときの日本ツアーでは日によってフリーインプロをやったりスタンダード曲中心でやったりしていたそうだが、同じときのフリーインプロの録音はすでに2002年、『Always Let Me Go』として2枚組CDで発表されている。だから、辛辣な言い方をすれば、この「新譜」は8年前に録音された、7年前のCDの残り物に過ぎない。
むかし録音されたものを引っ張り出してきて今出すということ自体は一向に構わないのだが、さすがに8年前の音源で、しかもそのあと録音された同種の音源がすでにいくつも世に出ているという有様では、正直これを「新譜」と呼ぶのは躊躇してしまう。ふつうこういうのは、未発表発掘音源とか何とか銘打って、キースが亡くなった後に出すようなものではなかろうか。プロデュースが売り物のECMにしては、ずいぶん無秩序な出し方のような気がしないでもない。
それはそれとして肝心なのは中身だが、前述の3作と同じく、近年のスタンダーズ・トリオの作品として一定の水準はクリアしていると思う。「近年の」とわざわざ断ったのは理由があって、1983年から続くこのトリオの作品には、1999年録音の『Whisper Not』以前と以後の作品群で質的な違いがあるからだ。具体的に言えば、マイルスやビル・エヴァンスの影響が色濃い、どちらかと言えば地味なレパートリーに代わって、ビバップやハードバップ期のミュージシャンが得意としていた派手目の曲を多く採用するようになり(そういえば今回はデクスター・ゴードンの愛奏曲が多いですね。偶然だとは思うけど)、かつ音楽そのものの複雑性というか、特にリズム面において三者間の伸縮自在な有機的絡み合いのようなものが薄まった。そして、ピアノのタッチからは鋭さが消え、温かみのある音になった。これらの変化が相まって、1999年以降のスタンダーズ・トリオの音楽は、昔と比べてより明快に整理された、誰が聞いても親しみやすいものになっていると思う。
個人的には、キースの情動が未整理のまま噴出したような「わけのわからなさ」を内包していた初期の作品のほうが好きだけれども、最近のスウィンギーな演奏も悪くはないし、これはまあ好みの問題だろう。ただ、1999年以降の作品と比較した場合でも、たとえば『Whisper Not』にはまだ残り火のように存在していた「何か」が、この2001年の演奏の時点ですでに消えてしまっているのが気に掛かる。それを言語化するのは難しいが、あえて言えば張りつめた佇まい、ある種の気配のようなものだ。これは病気の影響や肉体的な衰えから来たものというよりは、内面的な緊張感や覇気の弱まり、もっとはっきり言えば、キースの精神的な老いからもたらされたものではないかとわたしは思う。ようするに、タガが緩んできているのである。
一応付け加えておくと、別にこのCDを買って損をしたとか、そういう気持ちはない。お代の分だけ、きちんと楽しませていただいた。そこらへんにある十把一絡げのピアノ・トリオものを買うなら、こちらを聞いたほうが遙かに費用対効果というか、満足度は高いはずだ。しかし、こう言ってはなんだけれど、本音を言うとわたしは、キースに「お代の分だけきちんと楽しませていただく」ことを期待してはいないのである。かつてはどんな作品にあった、いかに他の部分の出来が悪くともそれを軽くチャラにしてしまえるような、さすがキースとうならせるだけの圧倒的に突き抜けた瞬間が、この20年、年を追うにつれてどんどん少なくなってきているような気がしてならないのだ。野球で言えば、往年の大打者が打ったホームラン性の当たりが、昔だったら悠々場外に消えていったのが、結局フェンス前でおじぎして二塁打、というような情景を見せつけられているようなもので、どうしたって一抹の寂しさは否めないのである。まあ、あの歳でコンスタントに二塁打を打てるだけでもたいしたもの、と言われれば、それはその通りなのだが…。



