神話としての、そして「悪夢」としての
アメリカを想像=創造する行為
このアルバムの成立過程については、com-postに掲載されているビル・フリゼール・インタヴュー「vol.4」に詳しい。1959年にアーカンソーの田舎町でひっそりと死んだ奇人の写真館主。彼が遺した町の人々のポートレイトにインスパイアされたフリゼールが、ディスファーマー(非農民)という奇妙な名前を持つその男をテーマに制作した音楽、というわけだ。
編成はフリゼールのギター類、グレッグ・リーズのスティール・ギターとマンドリン、ジェニー・シーンマンのヴァイオリン、そしてヴィクター・クラウスのベース、という4人。フリゼールの自宅があるシアトル、そしてカントリーの中心地ナッシュヴィルでレコーディングされ、メンバーの顔ぶれや楽器編成、そしてアルバムのテーマから容易に推測できるように、カントリーや古いフォークソング、マウンテン・ミュージックなどの色合いが濃いサウンドとなっている。
ほの暗い納屋の隅でひっそりと演奏されるのにふさわしい、ダークでノスタルジックなメロディを持つフリゼールのオリジナル群の合間に、アーサー・クルーダップ(というよりプレスリーの大ヒットだ)の<ザッツ・オールライト・ママ>や、ハンク・ウィリアムスの<ラヴシック・ブルース><アイ・キャント・ヘルプ・イット>などが挟まっているが、フリゼールの書いた曲との間に違和感はまったくなく、実につきづきしく収まっているところが興味深い。
さて、ここでフリゼールがクリエイトしている音楽は、では古いカントリーやフォークなどを「それらしくなぞった」ものであるのだろうか。もちろん、そうした音楽に対するフリゼールの愛情と知識と探求心は並々ならぬものがあり、ここでもその愛と敬意はひしひしと伝わってくるのだが、やはりこれは「ビル・フリゼールという特異な個性の音楽家」のフィルターを通した、彼にだけしか表現できない、きわめてユニークな音楽なのだと思う。
おなじみのループ・プレイやエレクトロニックなノイズも登場するのだが、いつもよりかなり控えめに使われているそれらのエフェクトよりも、アコースティックな音で淡々と演奏されるシークエンスがミニマル・ミュージック的に聞こえてきたり、多重録音されたヴァイオリンとギターが一瞬、まるでチャールズ・アイヴスのような不協和音を響かせたりする局面に、僕はフリゼールの個性を強く感じるのだ。
カントリー・ミュージックやマウンテン・ミュージックやブルースやロックンロールやゴスペルや、もちろんジャズもがそうであるように、ミニマル・ミュージックもアイヴスの音楽も、「アメリカ」という不思議な国の風土からしか生まれ得ない音楽なのだと思う。フリゼールはcom-postのインタヴューの中でこのように語っている。
「自分自身は特に自分を一人のアメリカ人に仕立てようと考えている訳ではありませんが、今ではそれを意識しています。と言うのも、アメリカはまさに私の出身地だからです。出身地であり、かつ私の全てなのです」
アメリカが生み、育んだ多様な音楽を自分の中に集積し、それらを自身の感性によってつづれ織りに仕立てること。それは、マウンテン・ミュージックとミニマル・ミュージック、ハンク・ウィリアムスとチャールズ・アイヴスといった、いっけん無関係に思えるもの同士を直観によって結びつけ、神話としての、そしてフォークロアとしての、さらには「悪夢」としての「アメリカ」を想像=創造する行為なのだ。
どういうわけか、フリゼールがここでディスファーマーという「奇人」に触発されているように、神話としてのアメリカには[weird][wicked][strange]なものがよく似合う。そうした不気味でほの暗くて奇妙で邪悪な「神話と悪夢」に惹かれて、同時代的にその作業を行っている音楽家として、われわれはフリゼールの他に、ダニエル・ラノワやジョー・ヘンリー、ブライアン・ブレイドなどの名前を挙げることができるだろう。そしてその一世代前の先達としては、ロビー・ロバートソンやジョン・サイモン、ヴァン・ダイク・パークスたちがいる。
そうした、アメリカの「不気味で曖昧(obscure)な神話=フォークロア」とポップ・ミュージックの関係を、その本自体も神話的な語り口で著述したグリール・マーカスの大著『ミステリー・トレイン』(第三文明社)を、この『ディスファーマー』をより深く楽しむためのサブテキストとして推薦しておこう。
最後に、フリゼール自身が書いたライナーの、もっとも印象深い部分を紹介しておきたい。
「(ディスファーマーが無名のうちに死んだという話を聞き)私は生前に世に認められず無名だった、たくさんの芸術家のことを考え続けていました。フェルメール、ヴァン・ゴッホ、チャールズ・アイヴス、ヘンリー・ダーガー、などなど…。今はどんな人がそうなのでしょうか?」
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70分余りを飽きずに聴かせるのは、さすがだとは思うが、
旧作とどう違うのよ、と訊かれると答えが見つからない。
マイク・ディスファーマーなる人物については、恥ずかしながらcom-postに掲載されているインタビューを読むまで知らなかった。本名はマイケル・マイアーズ。1884年に生まれ、1959年に亡くなった写真屋のオッサンだ(いわゆる職業フォトグラファーではない)。1917年にアーカンソー州Heber Springsで店を開き、地元のひとたちを1枚1ペニー(1セント)で撮影した。が、あくまでも自然光に頼っていたため、自分のお気に入りの明るさになるまで客を延々と待たせることもザラだったという。“太陽待ち”“雲待ち”に何日間もかけた(といわれる)黒澤明みたいじゃないか。
ビル・フリゼール自ら書いたライナーノーツによれば、ヴァン・ゴッホやヘンリー・ダーガー同様、ディスファーマーも時代を先走ってしまったひとなのだという。表紙に使われている写真も彼が撮ったものだが、妙なショットであることは僕にもわかる。チョウチンアンコウ(?)を持った男は、なにを思ってカメラの前に立ち、右手人差し指を立てようとしているのか。謎だ。
CDの内容は、フリゼールお得意のディスカバー・アメリカものと言い切っていいように思う。「第二次大戦前のアメリカ田舎町を題材にした架空のサウンドトラックですよ」、といわれたら僕は何の疑いもなく「そうですか」と言ってしまうだろうし、「第二次大戦前のアメリカ田舎町を題材にした演劇のバック・ミュージックですよ」、といわれても僕は「そうですか」と納得してしまうに違いない。フニャーン、ポヨーンという展開中心でも70分余りを飽きずに聴かせるのは、さすがフリゼールだとは思うが、じゃあ『グッド・ドッグ、ハッピー・マン』や『ナッシュヴィル』などの旧作とどう明確に違うのよ、と訊かれると僕にはさしたる答えが見つからない。せめてアーサー・ビッグ・ボーイ・クルーダップの(7)やハンク・ウィリアムスの(10)等のカヴァー曲だけでもヴォーカルを入れてくれれば、もっと作品にメリハリがついたのでは、と思うぐらいだ。
(19)と(20)に使われている哀調を帯びたメロディは、ある意味アルバムのメイン・テーマなのであろう。僕がプロデューサーだったらここをもうちょっと膨らませて、各曲のどこかに必ず、この旋律やコード進行を振りかけながら組曲風に作品を構成するのだが。
美しいアルバムだとは思う。メンバー4人の楽器のうまさも際立っている。が、僕にとっての“心をえぐるビル・フリゼール”は、ここには隠れたままだ。ポール・モチアン・トリオの『One Time Out』や『Trioism』、ネイキッド・シティの『Torture Garden』における阿鼻叫喚のギター・プレイこそ、我が愛しのフリゼールなのである。
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このアルバムはあまりジャズ的ではないけれど良い音楽だ。
そして、それにもかかわらず私はこの演奏にジャズを感じる
最初の一音から聴き手を魅了する。ビルフリ得意の“懐かし路線”だが、それが気持ちよい。さりげなく積み重ねられるカントリー風旋律が、じんわり沁みてくる。音楽を聴いているとき、それを聴いている自分を意識することなく、自然体で音と一致できるような体験がたまにある。だいぶ前、ビルフリがソロで来日したとき(確か赤坂TBSの会場だった)、ステージ上で演奏する彼の、極めて自然な音の流れに身体が吸い込まれて行くような不思議な体験をしたが、ホンモノのミュージシャンはこうしたことが出来るのだ。今回のアルバムからは、その時の心地よい気分に極めて近いものが感じられる。ことさら構えたところが一つも無く、かといって勝手気儘な演奏というのとも違う微妙なスタンスから生み出される音楽の柔らかな手応えとでも言おうか。技巧をことさら表面に浮き立たせること無く、しかし間違いなく最高度の演奏技術を備えた音楽家が、音楽と一体化してしまったような演奏。これは、演奏から「それを演奏している人間」を嫌でも浮き立たせよう、感じ取らせようとするタイプの「表現者」の対極の姿勢だ。「オレがオレが」と言わないからこそ、否応も無くその(良い意味で捉えどころの無い)音響の中に自然に絡めとられる、というか馴染まされてしまうという、、、まあ、それがビルフリの個性なのだけれど。
話は変わるが、「これはジャズだ」「ジャズじゃない」という話がそれなりに熱気を持って語られたのは、もうずいぶん昔のことだ。大昔のフリー・ジャズ、もうちょっと新しいけれど、それでも40年も前のマイルス・エレクトリック路線など、暗に「ジャズじゃないからよくない音楽だ」という含意が、何の前提条件も無く信じられていた。
それが変わりだしたのが80年代辺りか。ビル・フリゼールが頭角を現し始めたのも、ちょうどその頃。以来彼はさまざまなタイプの音楽を演奏してきたけれど、同じように多彩な経歴を持つパット・メセニーとは、その多様性のあり様がどこか違うような気がする。意図的にさまざまなサウンドを取り入れようとするパットに対し、「気が付いたらそうなった」的ビルフリ、とでも言おうか。
このアルバムも、太古のジャズ論争の図式から見ればあんまりジャズ的ではないけれど、もはやそんなことはどうでも良い地点で、これは良い音楽だ。そしておかしなことに、それにもかかわらず私はこの演奏にジャズを感じてしまう。
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