巧妙にコラージュされた、究極の作り物は自然に響く。
並存としかいいようがないヴォーカルと演奏の関係も面白い
編集長の「林さんのデイヴィッド・シルヴィアン評も読んでみたい」との求めに応じることにした。というか、後藤組長に盤を押し付けられたのだ。編集長からは「ジャズではありませんよ」との忠告とも気遣いともつかない言葉があったが、ご心配には及ばない。雑食ではないが食わず嫌いではないし、Tzadikの新譜にハマっていた時期さえあるのだ。早速に盤に針を下ろす、と書ければ文学的なのだが、やむをえずトレイにセットする。この時点ではよもやスクラッチ・ノイズが補ってくれるとは思わなかった。ズバリ、鬼面人を驚かす類のものではない。まずはシルヴィアンのヴォーカルが気に入った。英国産を実感させるやや鼻にかかったソノリティ、やや引き摺るようなディクションが心地よい。それにもまして歌との距離のとりかたが抜群だ。人によっては投げやりだとか冷たいとか言いそうだが、距離感こそが名歌手の条件だと思う。ホリデイやシナトラを聴けばわかることだ。無闇に感情移入するのは愚の骨頂というほかない。シルヴィアンのアプローチは最もトンガッテいた時期のカーリン・クローグを彷彿させる。次いで演奏も気に入った。実に巧妙にコラージュ(と言っておこう)されていて、究極の作り物は自然に響くという自説が証明された格好だ。ヴォーカルと演奏の関係も面白い。もちろん主従(歌伴)ではないし、所謂インタープレイとも異質だと思う。それぞれが単独でも成立すると聴いた。エリントンではないがトーン・パラレル、並存としかいいようがない。それでいて見事なブレンドになっている。全編ゆったりしたルバート調だがダレルことはなく、胸のうちに持続するザワザワ感が心地よい。個々の演唱を云々するものではなくトータルでとらえるべき音空間と思うが、それでも唯一のインスト物(8)からタイトル曲(9)につながる大団円?には鳥肌が立った。ほぼ50分という収録時間も良心的だ。これはゼヒ買わねば。
編集長の「ジャズではありませんよ」という発言が気になりだした。これほど刺激的で良質の音楽がジャズとして語れない、ジャズからは生まれない?ほどジャズはナマクラになったということだろうか。ジャズ史の見直しというライフワークがなければ、こうした音楽の紹介に励みたいところだが、それぞれ持ち場というものがある。筆者にできるのはこのコーナーでとりあげられる新譜にまずは愛をもって接していくことしかなさそうだ。
一見、前作『Blemish』の延長線上に見えながら、
正反対のアプローチから彼が掴んだ「獲物」とは何か?
デイヴィッド・シルヴィアンの名前を初めて知ったのは、イギリスでJapanという奇妙な名前のバンドがデビューした1978年のことだった。当時、彼等は遅れてきたグラム・ロックの末裔、今風に言い直すなら元祖ビジュアル系として位置づけられ、特に日本の音楽ジャーナリズムからはアイドルとして扱われていた。そうした受容のされ方への反発からか、当初の黒人音楽を意識したファンキーなサウンドは次第にヨーロッパ的な陰鬱さを強め、中国・紅衛兵への素朴な憧れを歌った1982年の『Tin Drum』(Virgin)を最後に解散。それ以降のソロ・ミュージシャンとしての活動はいつしか私の関心からは外れてしまったのだが、00年前後のエレクトロニカ〜グリッチへの関心から彼の名前が再び視野に入ってくることとなった。そのきっかけとなったのが前作『Blemish』。全8曲中、半数を自作のトラックで固め、クリスチャン・フェネスがラスト・ナンバーのトラックを提供。しかし、なんといっても発表当時に話題を呼んだのは、残り3曲におけるデレク・ベイリーの参加だった。ここでのシルヴィアンの流儀は、コンピューターや音響メディアを通して鳴ってしまった音、鳴らしてしまった音を如何に組織化し、音楽として再構築するかというエレクトロニカ〜グリッチのマナーを基本的に踏襲していると言えるだろう。
だが、ベイリーとの仮想的なデュオ(演奏と歌の録音は同時には行われず、ベイリーのソロ・インプロヴィゼーションにヴォーカルをオーヴァー・ダビングしている)のアプローチはやや趣きを異にしている。ここでの彼のアプローチは、鳴らされてしまったベイリーのギターの音に、如何に自分の声、そして歌を寄り添わせて行くかをテーマとしている。定型的なフレーズやリズム構造を持たないベイリーの演奏に、歌のフレーズの始まりや終わりを正確に合わせたり微妙にズラしたり、あるいはギターが生み出す奇想天外な音の跳躍とハモっているかのようなメロディ・ラインを組み合わせたりすることで、まるで息を合わせて同時に演奏しているかのような自然な一体感を感じさせる。ここには歌と伴奏のような主従関係は存在しない。文字通りのギターと声の共演、デュオ演奏と呼ぶべき音楽が成立している。
さらに驚かされたのは、改めてカヴァー・アートを見直したときのことだ。インナー・スリーヴには、雪に覆われた森の中の道をシルヴィアンがショッピング・カートを押しながら歩いているイラストが掲載されている。静寂の中をゆっくりと歩を進めるシルヴィアン。カートの轍を決して踏むことのない彼の足跡。事前に直接的な説明の意図があったわけではないのだろうが、即物的なベイリーのサウンドに、衝突や離反することなしに歩みを合わせていくシルヴィアンのアプローチを忠実に表現しているように私には思えたのだ。
前作から6年の歳月を経て発表された『Manafon』は、引き続き参加のフェネスに加えて、複数の即興演奏家が参加していることから、一般的にはベイリーとの共演の延長線上にある作品と考えられているようだ。だが、ここでのシルヴィアンのアプローチはそれとはかなり、というよりむしろ正反対といって良い程に異なるものではないのだろうか。
宮崎駿『もののけ姫』のワン・シーンを思い起こさせるような、深い森の中に佇む子鹿や番の鹿を描いたカヴァー・アートは、一見したところ複数の演奏家による即興を森の中から湧き上がってくる生命力に溢れた「ざわめき」に見立てたもののように思われる。だが、実はこれは巧妙に仕掛けられた罠なのだ。元々は無関係な樹木や植物、茸類の絵柄を丁寧に組み合わせ、貼り合わせ、合成することによって創り上げられたヴァーチュアルな森のイメージ。本作でのシルヴィアンのアプローチはまさにこれなのだ。
ウィーンにロンドン、そして東京。2004年から2007年まで、3年におよぶ歳月をかけて、異なる場所で異なる時間に収録された即興演奏の欠片たち。それをバラバラに切り刻み、別の時と場所で録音された音源を切り貼りしては上書きを繰り返す。こうした気の遠くなるような作業を根気よく繰り返すことによって、生の集団即興とはまったく異なる音楽として新たに構築されたトラック群。これもまた、まるで事前に作曲された伴奏のように自然にシルヴィアンの歌に寄り添っている。それは、コンピューターや音響メディアを通して鳴ってしまった音、鳴らしてしまった音の代わりに、即興演奏を素材として組織化されたエレクトロニカ〜グリッチのマナーに則ったサウンド作りの方法論のように私には思える。
本作のインナー・スリーヴは、森での獲物と思しき一羽のウサギを掴んだシルヴィアンの肖像。彼は6年という歳月をかけた悪戦苦闘の末に、即興演奏の断片から音楽を組織化する彼独自の方法論(というよりも「手捌き」とでも呼んだほうが適切だろうか)を獲得した。どうやら、事の真相は森のイメージではなく、こちらのほうに隠されていそうではないか。
アヴァンギャルドな電子音と、複雑な情感のヴォーカル。
押さえた情熱か、クールな熱さか、微妙な感覚がいい。
アヴァンギャルドな電子音と、静謐で説得力に富んだデヴィッド・シルヴィアンのヴォーカルの組み合わせは、「そうか、こういう手もあったのか」と目からウロコ的な音楽世界だ。まあ、あまりこの手の音楽に詳しくないのでそう思い込んでいるだけかもしれないが、新しい。好きになった。理由を分析してみよう。まず、私はキンクスのレイ・デイヴィス、スティングなど、イギリス人特有のちょっと紗がかかったようなしゃがれ声がけっこう好きなのだ。私の中ではデヴィッド・シルヴィアンの声質もその系譜に繋がる。とにかくアメリカ人の声とは違う。
もう一つはエヴァン・パーカー、大友良英ら、“ど前衛系”ジャズ・ミュージシャンが参加していることだと思われるかもしれないが、それは少しばかり違う。最初に言った「組み合わせの妙」は、単に「前衛サウンドとオーソドックス・ヴォーカル」ということではない。
両者の描き出す世界の対比が面白いということだ。つまり、音自体の面白さを追求したように聴こえる無機質なインストゥルメンタル・パートと、ことばを大切にし、ひとことひとこと語りかけるていねいな歌声。しかしその歌に込められた情感はけっこう複雑だ。思いを込めているようにも、けっこう醒めているようにも聴こえる。方やキカイ、もう一方はヒトの声とその性格は対照的でありながら、どちらも“クール”であるという共通項が、このアルバムのキモのように思える。
歌の魅力は歌詞、旋律の表現法や声の質感などいろいろあるが、デヴィッド・シルヴィアンの場合は、明らかに声の質感と歌詞の表現だと思う。しかし、後者については、私の英語力では「ではなかろうか」という話であって、わかった上での発言ではない。しかし、そんな語学力のレベルの私でも、彼の歌の力は伝わってくるわけで、ネイティヴ・スピーカーの受け取り方はもっと強烈ではなかろうか。
こうしたことを思い合わせると、メロディの快楽に酔いたいタイプのヴォーカル・ファンの受けはあまり期待できない。しかし、いわゆるノイズ系バックサウンドから浮かび上がってくる、シルヴィアンの押さえた情熱というか、クールな熱さというか、微妙な感覚は実にカッコいい。聴くほどに味が出てくるタイプですね。私はこのアルバム気に入りました。
ぼくが小・中学生の頃、アイドルだったシルヴィアンは
どのようにしてこの場所に到達したのだろう?
中山康樹さんの著書「愛と勇気のロック50」(小学館文庫)を読了した。このところオヤジ・ロックが殊に面白い、ということに大抵の音楽ファンなら気づいているだろうと思うが、それを言葉でビシッと説明してくれたのは中山さんが嚆矢だろう。この本では50アーティストが紹介されている。が、個人的に最も「教えてくれてありがとう」といいたくなったのはスコット・ウォーカーの近況だ。60年代後半の日本で、ひげをはやしたりメガネをかけたりしてアイドル性の低下したビートルズにかわるティーン・アイドルとして、やたら持ち上げられていた(「ミュージック・ライフ」誌などで)ウォーカー・ブラザーズの片割れである。たしか来日して、カーナビーツ等、グループサウンズとも親交を持ったはずだ。
そのスコット・ウォーカーは現在、前衛音楽家としての人生を歩んでいる。「30世紀に生きる男」といわれるほど、彼のつくりだす音楽は現在とは離れた場所で時を刻んでいる。女性ファンの嬌声など、今の彼にとってはトラウマでしかないのか。
スコットの気持ちがわかるのは誰だろう。そう考えたとき、ぼくにはデイヴィッド・シルヴィアンの名が思い浮かんだ。
ぼくが小学校、中学校の頃、シルヴィアンはアイドル・シンガーだった。デュラン・デュランやワム!と同じような扱いでグラビアを飾っていたと思う。少女マンガから抜け出たような、耽美的なルックスだった。が同時に、彼は実に骨のあるミュージシャンでもあった。ケニー・ホイーラー、マーク・アイシャム、ニルス・ペッター・モルヴェル等、決してカネでは動かないであろうメンバーをゲストに迎えたりしながら、丁寧に丁寧に音を編み上げてきた。『ブレミッシュ』(2003年)は、そんなシルヴィアンの場外大ホームランだろう。鬼才ギタリストのデレク・ベイリーとの共演が成立しているというだけでもすごいのに、ヴォーカルの存在感がベイリーのギターにちっとも負けていない。
この『マナフォン』には、中村としまる、大友良英、エヴァン・パーカー、AMMのジョン・ティルバリー等とのセッションが収められている。僕が持っているのは輸入盤なので歌詞はわからない。が、シルヴィアンの声だけで酔える。レコード店では「ロック」の棚におかれているはずだが、「ロックだから聴かない」という理由で他ジャンルのリスナーがこれに手を出さないとすれば(本稿の読者にはいないと思うが)、それはすごくもったいない。配信でもなんでもいいから、とりあえず1曲は聴いてみてほしいと思う。購入するかどうか決めるのは、その後でいいのだから。
それにしても、どのようにしてシルヴィアンはこの場所に到達したのだろう。日本一の色男に扮した植木等が「♪あ~、いやだよいやだよ色男はつらい~、デイトデイトで寝るヒマもない~、たまに一人で飲んでりゃ~マダムに口説かれる、あ~女にゃ もてたくないね」と歌う映画があったが、なまじルックスが良いのもなにかと大変なのかもなあ、と思う。



