メルドーは屈折した都会人なのかなと思っていたのだが、
実は結構ネアカで単純な人なんじゃなかろうか。
最初に結論を言ってしまえば、この種のものとしてはかつての『Largo』のような大傑作とは言えないまでも、それなりによく出来た作品だと思う。メルドー自身が手がけたというストリングスのアレンジも、オーケストレーションや使い方にやや素人っぽい(あるいは逆に過度にプロじみて無個性な)ところがあるような気もするが、十分に水準に達している。パーカッションの使い方もうまい。また、私はよく知り合いからジョシュア・レッドマンに冷たいと言われ、彼の潜在能力を高く評価している人間としていつも悲しい思いをしているのだが、本アルバムでのジョシュアは個性が生かされているというか、いわば性格俳優(?)としてうまくハマっていると思った(例えばDisc 1の2曲目や5曲目でのソロ)。なので、おすすめします。ちょっと長すぎるというか、2枚目以降が散漫なような気がしないでもないが。さて、この作品で私が興味を持ったのは、どちらかというとメルドーがこの作品に込めた意図というか、そこに顕れた彼のセンスのようなものにである。
不幸に見まわれ悲しむ(Don't Be Sad)、おそらくは孤児となった男の子(John Boy)が成長し、料金所を出てハイウェイを疾走するかのごとき人生の旅に出る(At The Tollbooth、Highway Rider)。いつか鷹のように飛べるよう修行を積み(The Falcon Will Fly Again)、師匠から離れ一人で頂を目指して苦闘するが(Now You Must Climb Alone)、ついに成功を収める(Walking The Peak)。川も一緒に渡ってくれるような(We'll Cross The River Together)苦楽を共にする伴侶を見つけて愉快な時(Capriccio)を過ごすが、一天にわかにかき曇り、再び不幸(たぶん伴侶か子供の死)に見舞われる(Sky Turning Grey)。都市で慌ただしい生活を送り(Into The City)、次第に老いの荒野に差し掛かった(Old West)彼は、神に導かれてこの世を去る(Come With Me)。出発は、どこかへの帰還でもある(Always Departing, Always Returning)。
曲のタイトルを素直に順番通りつなぎ合わせると、このようなストーリーが浮かび上がってくる。こういうものを文字通りにとるのはどうかという向きもあるだろうが、ジャケット写真に何も映っていないロードサイド・シアターのスクリーン(もちろん映画は人生の隠喩であろう)を持ってきたあたりを見ても、メルドーが想定する、あるいは聴取者に想定してほしいストーリーというのは、これに近いものと考えて良いのではないか。割と大時代なビルドゥングス・ロマンというか、昔の映画や小説ではありがちな話ですよね。
別にこの手の表題音楽的な行き方が悪いというつもりはないのだが、それにしたって、あまりにもひねりがなくベタすぎるのではないか、というのが私の正直な感想である。私は、メルドーというのは屈折した都会人なのかなとなんとなく思っていたのだが、もし本当にこういうものをこういうつもりで作ったのなら、実は結構ネアカで単純な人なんじゃなかろうか。成功哲学とか自己啓発とか、案外好きそうだ。個人的な好みとしては、ここまで狙いが見え見えだと、なんだか野暮臭く感じられてしまうのだが…。
それはそうと、私の感覚ではDisc 1とDisc 2でだいぶテンションに差がある。さらに言えば、Disc 1の最初の5曲と、それ以外には質的に相当な差があるようにも思われる。この5曲は(ジョシュアの演奏も含めて)非常に優れた出来なのだが、あとは、悪くはないにせよあまりにも映画音楽的というか、どうも緊張感に欠けるのだ。そのあたり、想定されるストーリーともそれなりにつじつまがあう(ようするに、「下積み時代」の曲には緊張感があって、「成功後」の曲にはない)のが個人的には面白い。成功したので気が緩みました、ならまだしも、これくらいぬるくしないと成功できません、だったらいやだなあ。
(と、最後まで書いてメルドーのホームページを見に行ったら、曲のタイトルはメルドーが書いた詩から採られていることが分かった。で、ざっと読んでみたが、まあ細かいところは違うにせよ、大筋では私が想像したストーリーに近い、本当に旅に仮託して「人生」を語る詩であった。うーん、いいのかそれで。)
魅力的な美曲が多く、一部を除いて作り物感は
希薄で自然な仕上がりになっている
今回から本コーナーに参加させていただく。相当数に上っていた新譜聴きをやめてから何年も経つ。投資効果の低さに呆れたのだ。最後の1枚が奇しくもメルドーの『Largo』(Warner Bros.)だった。これはアタリ!で、その年のもので手元に残した数枚に入る。ともあれ、久々の新譜レビューなので何かとトンチンカンなことをほざくかもしれない。ここしばらくはリハビリ扱いということで、生温かい目で見守っていただければと思う。初回から2枚組みでヒモ付き(ウィズ・ストリングス)ときた。先発レビューを見ると評価の程は概ね芳しくない。おまけに、コンポストのメンバー中、最右翼の筆者に好意的評価ができそうにも思えず、腰が引けるというものだ。なんら期待するところなく一聴に及んだのだが、これがどうして結構な秀作ではあーりませんか。喫煙に逃げることなく、それぞれ1枚を聴き通せた。魅力的な美曲が多く、一部を除いて作り物感は希薄で自然な仕上がりになっている。「メルドーに郊外のハイウエイを走らせてもあまり似合わない」というご意見があるが、陽光降り注ぐなかや涼風そよぐなかを走るばかりとも限るまい。黄昏や夜のしじまを、そぼ降る雨やチラつく雪のなかを走ったっていいはずだ。ハイウエイがダメならナイト・クルーズとしてもいいのでは。そんな情景を思い浮かべつつ聴いたので、情景喚起力に乏しいというご意見がわからない。あと、あまりいい評判を聞かないジョシュアが収穫だった。なかでもフニャマラのテナーが大活躍する「Don't Be Sad」がご機嫌だ。先行きを悲しむことはないように思う。とはいえ、いいことづくめではない。ご指摘のように長いのだ。2枚目には構成上の必然性に乏しいものが散見され、冗長性も高まることに。少なくとも作り物臭が漂うオケ物の(6)‐(8)、ジョシュアと組んだ(12)は余計だろう。これらを外すと(オケ物を外すはずがない)1枚に収まるのだが。
われながら思わぬ好評価となったが、久々の新譜聴きということで、ものみなすべてが新鮮に映る浦島太郎現象の懸念なしとしない。また、このところエリントンの大作を聴き続けていて、長尺ないし冗長慣れしているということもあるかも。取扱いにはご注意を。
アコースティックな『ラーゴ』と言うべき
「ちょっとオタクなシンフォニー」
大傑作『ラーゴ』と同じジョン・ブライオンのプロデュースで、大編成オーケストラと共演した2枚組大作、というのは期待度大だ。僕は『ラーゴ』は「ヘッドフォン・ミュージック」として最高だと思っていて、それはパラノイア的に細かくて多様な音たちがぎっちりと詰め込まれているさまをヘッドフォンでオタク的に解明するのが楽しい、ということだったわけだが、今回の『ハイウェイ・ライダー』はエレクトロニックなサウンドは使われていなくて、そういう点ではごくごく「まとも」で立派な音楽であるのだった。
とは言え、クラシカルなオケの上で、メルドーのコンボ、そしてフィーチュアド・ソロイスト的なスタンスで参加しているジョシュア・レッドマンが演奏しているだけの作品、と結論づけてしまうのも違うように思える。フレンチホルンの柔らかな合奏に絡んでくるパーカッション系の音は、「ナチュラルな」打楽器のサウンドとは明らかに異質な、電気的に加工されたとおぼしき音質になっているし、一瞬だけパーカッシヴな一音が左スピーカーの外(!)から聞こえてくる局面もあったりして、このアルバムもなかなか「音響的」におもしろいのだ。なにより、自分のリーダー作とはえらく違う音質で、右スピーカーにへばりつくような定位とバランスで鳴っているジョシュアのサックスが、これが人工的に作られた「レコード芸術」であることを雄弁に物語っている。
メルドーとブライオンは、『ラーゴ』でオケの生音とエレクトロニクスを混ぜ合わせて構築した方法論を元に、よりアコースティックでさりげない「ちょっとオタクなシンフォニー」を作ろうとしたのだろうか。僕はその試みはかなり成功していると思う。ただ、2枚組にする必然性があったとは思えないけど…。
「ロード・ミュージック」として仕立て上げることが
自己目的化した「元の映像を持たないサウンド・トラック」
2002年にリリースされた『Largo』(Warner Bros.)は傑作だった。そこでは、プロデューサーにポップス〜ロック畑で知られるジョン・ブライオンを迎え、レギュラー・トリオだけでなく、マット・チェンバレンやジム・ケルトナー、ヴィクター・インドリッツォといったロック系のセッション・ドラマーを楽曲に応じて使い分けるとともに、エレクトリック・サウンドやホーン・アンサンブルを適宜加えることで、同時代の異なるジャンルの音楽と共振する感性を持ったミュージシャンであることを見事に証明して見せた。そして、8年の歳月を挿んで再びジョン・ブライオンをプロデューサーに迎えた本作。期待は否が応にも高まろうというものだ。ところが、事前情報によれば、『Highway Rider』は「旅」をテーマにしたコンセプト・アルバムで、エレクトリック・サウンドではなく、オーケストラを交えた壮大な編曲に初めて挑戦した作品だというではないか。なんとなく嫌な予感が頭を掠める。
冒頭のピアノが奏でる短調と長調を行き来する微妙な哀調を湛えたメロディは紛れもないブラッド・メルダウ節。だが、曲が進むに連れて徐々に聴き続けることが苦痛になってくる。ハイウェイへと旅立ち、やがて家に帰るまでのプロセスを描いたというCD2枚に亘って繰り広げられる長大な音楽からは、ハイウェイを疾走する目前に拡がる雄大な景色だとか、旅の途上で経験する様々なエピソードだとかといった具体的な情景を喚起されることがほとんどない。近年の共演者であるパット・メシーニーの音楽が、特に標題を掲げているわけでもないのに関わらず、強い情景喚起力を持っていることとは対照的に、まるで元になる映像を持たない形式としてのサウンド・トラックに陥っているように感じられる。
おそらく、ロード・ムーヴィーならぬ「ロード・ミュージック」としてのストーリー性を仕立て上げることが自己目的化してしまっているのだろう。ドライヴのBGMとして、現実に移り変わる車窓の風景を眺めながら聴く分にはかなり心地良さそうな音楽ではあるのだ。だが、そこからメルダウ自身の心象風景なり、感情の揺れ動く様なりを感じることは難しい。
むしろ印象に残ったのは、ジョシュア・レッドマンの変貌ぶりである。最新作『Compass』(Nonesuch)で聞かれた、それまでになく温度感の低いサックス吹奏とは別人のように温かみのあるサウンド。それは自信に溢れたものというより、どこか頼りなげで、まるでプラスチック製のボディを持った楽器が鳴っているかのようなヴァーチュアルな気配を漂わせている。彼の音楽はこれからどうなっていくのだろう。メルダウよりもジョシュアの次作を早く聴きたいという気にさせられた。
なぜ2枚組なんだろう? どうして1枚じゃダメなの?
メルドーって、もっと“生きた”ピアノを弾いていたはずだが
ディスク・レビューを書く以上、最低限複数回は聴くべきだと思ってはいるけれど、正直に申し上げると今回は1回しか通して聴けていない。だがもちろんスピーカーの前でじっくりと堪能したつもりだ。ブラッド・メルドーの新作である。なんだか彼の名前をきくのはずいぶん久しぶりのような気がする。失礼ながら「懐かしい」という気持ちすら起こった。だがメルドーの創造力は相変わらず旺盛のようだ。
2枚組、一気に聴かせていただいた。が、最初に思ったのは「なぜ2枚組なんだろう? どうして1枚じゃダメなんだろう?」ということだった。プロデュースがジョン・ブライオン、ドラマーのひとりがマット・チェンバレンということで、それなりに期待して聴いたのだが、曲が進むごとに、「ちょっとトイレに」、「ちょっと茶菓子でも」、「ちょっと散歩に」・・・モロモロの気持ちが湧き上がってきて、わが“鑑賞心”を妨げだした。
もちろんぼくは最後までトイレにも行かなかったし茶菓子もとらなかった。真剣に聴いたつもりだ。が、全曲終わったときに残ったのは「この音楽、別にオレはいいや」というシンプルな気持ちだけだった。メルドーって昔はもっと“生きた”ピアノを弾いていたと思うんだが。
数日後、いま制作進行中の本のためにデイヴ・スコットというトランペッターのスティープルチェイス盤『Nonchalant』を聴いた。ピアノの音色、和音、フレーズ、リズム感、どれもが鮮烈で心にグイグイ来た。奏者の名はゲイリー・ヴァセイシ。今の僕はこういうピアノをもっと欲しい。



