のどかさや柔らかさを突き抜けた「怖さ」が足りない
ジョン・ホーレンベックのコンポーザー=アレンジャーとしての才能はとんでもないものがあると思う。彼のラージ・アンサンブル作品『エターナル・インタールード』は、そのスケールの大きさ、楽曲の多彩さに感嘆してしまう傑作だ。クールでミニマルで、しかし聴き手を暴力的に音の渦巻に引き込むアグレッシヴさもたっぷり備えた複雑な味わい。僕は昨年末「いーぐる」で開かれた恒例の「今年の一押し」大会で、ためらうことなくそのアルバムを紹介したのだった。
クローディア・クインテット名義のこのアルバムは、やはりホーレンベックの作編曲家としての側面をクローズアップしたもの、と言えるだろう。おそろしく正確で切れのいい彼のドラミングも堪能できるものの、各人のソロ・パートは少なく、複雑に入り組んだアンサンブルが精緻に組み立てられていく。
おもしろいのは、アコーディオンとクラリネットが柔らかな持続音を奏で、減衰するヴァイブや金属打楽器がそれに切り込みを入れ、といった対比を、減衰系の楽器であるピアノが非常にソフトなサウンドを奏でることで包み込む、といったサウンド設計がなされていることだ。その結果、全体的な音楽のたたずまいは、楽曲の仕掛けや音使いはかなりハードであるにもかかわらず、どこかのどかでリラックスしたものに聞こえてくる。
僕がラージ・アンサンブルほどにこの作品に惹かれなかったのは、その「のどかさ」が物足りなかったから、なのだろう。ラージ・アンサンブルのサウンドにも「のどかさ」や「脱力感」は含まれているのだが、それをさらに高次のところで覆う「怖さ」みたいなものが、僕にはひしひしと感じられたのだ。それがないのは楽器編成のせいなのか、それともホーレンベックが求めている音楽がまるで違うものであるからなのか、は分からないが…。
というわけで、「けっこうおもしろいけど夢中にはなれない」というのが、今の時点での僕の感想だ。もちろん、これを生で聴けるとなれば盛り上がって行くでしょうけど。
なまじ「ジャズ」っぽくなければもっと良かったのに
MJQことモダン・ジャズ・カルテットは、私が最も好きなジャズ・グループの一つだ。ジョン・ルイスやミルト・ジャクソンといった主要メンバはすでに全員亡くなってしまったが、今でも根強い人気を誇る超名門コンボである。MJQの音楽を聴くたびに私が思うのは、彼らの音楽は「クラシックの皮をかぶったジャズ」だったのではないか、ということだ。「皮をかぶった」というのがなかなか微妙なところで、たとえばジャック・ルーシェのように、クラシックの旋律をそのままアダプトしてジャズっぽく演奏するという人もいるのだが、MJQのやり口は彼らとはかなり異なる。私の考えでは、ルーシェらは結局のところクラシックをただ「引用」しているだけであって、本質的にはDJが過去の音楽を音源としてサンプリングするのと違いがない。もちろん即興演奏や独自にアレンジされた部分もあるわけだが、突き詰めればルーシェらの音楽は「ジャズの皮をかぶったクラシック」に属するものなのだと私は思う。よって、なまじジャズだと思って彼らの音楽を聴くと、なんとなく違和感が残るわけだ。
一方MJQの場合、彼らはクラシックから対位法や曲構成といった技術面に加え、クラシックの伝統が醸し出す雰囲気や空気感と言ったものまで(タキシードまで着て)強引に引っ張ってきているわけで、その「輸入」の度合いは、ある意味でルーシェら以上かもしれない。しかしあえて乱暴な言い方をすれば、クラシックは彼らにとっては表向きのファッション、それこそ「皮」に過ぎないのであって、ちょっと聴きにはなんだかクラシックぽい音に聞こえるものの、よくよく聴き込めば中身は純然たる真っ黒王道ジャズなのだ。私はジャズ・ファンなので、皮がなんであろうと中身がジャズならば大喜びで聴くのである。
で、ようやく本題である今月のテーマ、クローディア・クインテットの話になるのだが、彼らの演奏を聴いて思ったのが、これは「ジャズの皮をかぶった現代音楽」なのではないか、ということなのだ。
演っているのはクリス・スピードを始めジャズ経験のある人たちばかりだが、即興によるソロ・パートがほとんどなく、ほぼ全てがあらかじめ記譜されている(らしい)ということもあってか、表面的なスタイルはともかく何か発想のレベルで、これはジャズではない、という印象を強く受けた。私はジャズもクラシックも現代音楽も好んで聴くので、本来それならそれで別に構わないはずなのだが、なまじジャズ「っぽい」にもかかわらずジャズらしい味わいというか感触のようなものがまるで感じられないので、認知的不協和というか、なんだかひどく居心地の悪い気分にさせられたのである。これならば変にジャズの皮をかぶらないほうが、現代音楽と割り切って楽しく聞けるのではないかとすら思った。
そういえば、このアルバムの3曲目はフランク・ザッパのある種の(たとえば1969年の傑作『Hot Rats』に入っているような)曲によく似ている。思えばザッパも、ジャズの皮をかぶった、ロックの皮をかぶった、それでいて本質的にはクラシックの人だったような気がしないでもない。私がザッパを尊敬しつつも今ひとつのめり込めないのは、どこかそういう志向の食い違いのようなものが透けて見えてしまうせいかもしれない。それと似た理由で、このクローディア・クインテットも、音楽的なレベルや志の高さは認めつつも、残念ながらあまり好みではないと言わざるを得ないのである。
私、室内楽的なものをジャズに求めてないんですね、きっと。
これは私の体質には合わないし、聴いていてツカれる。
いやー、これはダメです。私の体質に合わない。別に悪いとは思わないけれど、だけど、どこが面白いんだと言われると、ウーンと唸ってしまう。しかし、それならどこが体質に合わないのか言わなければいけないでしょうね。「ギミック」とまでは言わないけれど、なんか「作り物感」がしちゃうんですよ。もっとも、音楽はみな作り物と言われればそれはその通りなんだけど、作り物でも、何でこの人がこういうものを作ったのかは、好き嫌いは別にして、なんとなく伝わってくるんじゃないでしょうか? そこのところが私には良く見えない。
たとえば、同じようにちょっと変わったリズムや、ふつうの音楽の流れと違った展開が意表を突くヴィジェイ・アイヤーたちの音楽は、なんか良くわからないけれど、この人たちはこれがやりたいんだなあと言うことがけっこうビシビシ伝わってくるんで、好きです。説得力自体が音楽としての好ましさとして私には聴こえるのです。ヘンだけど音楽としての一貫性を感じると言うことでしょうか。
そこが良くわからない。本当のことを言うと、だから今回は意図的に「後出しジャンケン」を決め込みました。最初ずいぶん繰り返し聴いたんだけど、どうも「別に悪いとは思わないけれど、、、」以上の感想が浮かんでこない。そこで他のレビューアーの方々の意見を一通り読んでから、その読み筋に従ってもう一度聴いてみようとズルを決め込んだんです。林さんのご意見、その通りでしょう、室内楽。私、室内楽的なものをジャズに求めてないんですね、きっと。チコ・ハミルトン(古いか)も苦手だったし。
益子さんのご意見、脱力感、それもわからなくはない。でも、それなら以前レビューした市野さんたちの音楽の方が素直にふわふわした流れにたゆたうことができる。しかし、こっちはツカれる(ってことは、ホントウに脱力してんの、コノひとたち?)。もっとも無理にレビューなんかしようと思わないで聴いている分には、それほど気にはならない音楽とも言えますね。何度も聴こうとは思わないけれど。
白人ニューヨーク派の系譜に連なる室内楽アンサンブル
クロスレビューへのデビューから(舌を噛みそう)3作目となった。幸いにも好評価を続けられたが、今回はどうだろう。お題の指示に際して「ジャズではありませんよ」とのエクスキューズはなかった。編集長のいうところの“現在進行形”のジャズなのだろう。例によってミュージシャンの経歴や作品の背景は知らないが、知ったかぶりするとロクなことはない。そこらは先発レビューに譲らせていただき、早速にお手並み拝見といこう。(1)で即座に室内楽アンサンブル・ワークと知れる。知りもしないミュージシャンの個人技(アドリブ)に神経を遣わずにすむのはありがたい。織り成されるサウンドに耳を傾ければよく、そうした演奏には慣れ親しんでもきた。ゆったりしたテンポで、テナーとアコーディオンが意外に好ブレンド、ミニマル風に終始する後半も煽らずダレず、程よい気だるさが持続する。(2)はドラムス・ソロ、スティック捌きは精密機器さながらで、電子音を模した?チューニング・センスの良さにも驚いた。リズム感ばかりか耳の感度の良さが知れようというもの。そのままなだれ込む(3)はキャッチーな曲想のノリノリ・ファンク系(と言っていいのかな?)で、ハッピーな気分が横溢するゴキゲンな一曲だ。一転して、(4)は昔のミュージック・コンクレートを思わせるサウンド・コラージュに始まり、後半は集団即興のうねりを呈する。これはなかなか刺激的で、一番気に入った。
評価したそばからなんだが、(5)から(12)は概して楽しめなかった。リズム面でもハーモニー面でもやはり手が込んでいるが、妙に屈折しているくせに月並みに響くのだ。2000年代に山とあった若手の判じ物のようなジャズに通じる。智に働けば過度?が立つ、覇気が空回りしたようだ。幸いにも終盤は持ち直す。抒情と憂いが道行きする(14)や、ときにシュールに響く音列がカラフルに積み重なっていく(16)は上々の出来だと思う。CDの登場で新譜は70分前後が標準になった。LPなら2枚組にも相当する。かつてなら大作にあたるものを日常的に聴かされているわけだが、中身もそうとは限らない。むしろ上げ底が通り相場になったように映る。本作についても、個人的には(5)から(12)は要らない。あの世のアルフレッド・ライオンに頼まれたら(大きく出たな)、(1)から(4)をA面に、(13)から(16)をB面に収める。そうすれば4ツ星半は固いだろう。
ここで展開される音楽は1920年代から脈々と続く白人ニューヨーク派の系譜に連なると聴いた。ミニマル風やテクノ風の見かけにとらわれてはなるまい。入念にして洗練され、抑制が効いて非直情的、翳りや揺らぎある音となりにその遺伝子を見た。本質において、ジミー・ジュフリーやハル・マクシックらの室内楽風の試みと大きく隔たってはいまい。白人ニューヨーク派、その語られざる系譜についてはいずれ取り組みたいと思っている。
時代の風を吸い込みながら成長を続ける感性。
老舗うなぎ屋の姿勢に通じるものがあろう。
ジャズ系ドラマーが作曲や編曲とは無縁の存在でなくなったのは比較的最近のことだろう。と書くと、「40年代のタイニー・カーンや50年代のオシー・ジョンソンを忘れてもらっちゃ困るな」というマニアックな声もきこえてきそうだが、それはあくまでも偉大な例外としたい。戦後しばらくの日本ジャズ界では「譜面が読めなくても務まった職種」がドラマー、「ただ楽器を持って立っているだけでどうにかなった職種」がベーシストだったという話もどこかで聞いたことがある(もちろん一流にランクされるひとたちは別だろうけど)。70~80年代、トニー・ウィリアムスやジャック・ディジョネットの作編曲や、彼らが率いたグループのサウンドも面白かった。80年代のボブ・モーゼスの営みもいくら賞賛しても足りない(このあたり、近々発表されるcom-postのデビュー本『80年代ジャズ』に詳述されているはずだ)。しかし今ほどドラマーが譜面を操ってジャズを面白くしている例を僕はほかに知らない。ジェラルド・クリーヴァー、タイシャン・ソーリー、ジム・ブラックなどなど、彼らが自身のアルバムで表現する音楽を聴くと「オイラはドラマー、ヤクザなドラマー」な時代は遠くなりにけりだ、と思う。
ジョン・ホレンベックは、自らの音楽を“ジャズとワールド・ミュージックのスタイルを反映させたコンテンポラリー・ミュージック”であると表現している。現在の主な活動拠点は自己のラージ・アンサンブル、このクローディア・クインテットと、トニー・マラビーのアパリションズ(クオーテット・ルーシー、レフュージ・トリオは、まだ続いているのだろうか)。ジャズ界で知られるようになったのは90年代初め、ボブ・ブルックマイヤーのグループに入ったあたりからだろう。余談だがジミー・ジュフリー、ポール・ブレイ、ブルックマイヤーあたりが、現在のニューヨーク・ジャズに与えた影響は実に濃い。
クローディア・クインテットは2001年に第1作を出したから、今年でデビュー10年目といっていいだろう。室内楽的ともいえるだろうし、ミニマム的ともいえるだろうし、人力テクノ的ともいえる響きはここでも輝いている。聴きやすさの陰に毒がひそみ、余白ある音のスキマに情報がつめこまれては溢れているようなサウンドを、彼らはよく10年間も守り通しているものだと思う。しかしマンネリなどどこ吹く風、今回もおやまあ、なるほど、あらあらと思いつつ一気に聴かせてくれるのだから、やっぱりホレンベックの感性は時代の風を吸い込みながらさらに成長を続けている。そのあたり、秘伝のタレにサムシング・ニューを付け足し付け足し何年も使い続ける老舗うなぎ屋の姿勢に通じるものがあろう。あくまでも曲単位ではなく、アルバム全体の流れを味わうべき作品だと思うが、「ドコモの携帯のCMソング」みたいな響きの(3)は単独で取り出しても実に面白い。ゲイリー・ヴァセイシの出番がもうちょっと多くても良かったのに、というところもあるが、これは僕がヴァセイシ・ファンだからそう思うのであって、ホレンベックにとってはこの程度の“フィーチャーぶり”が最も音楽的に感じられるのかもしれない。
I, Claudia



