これはまだ発展途上、過渡期の音楽なのだ
初めに本作のリリース情報を得たときには、スティーヴ・コールマン、久々の新譜登場、と勝手に思い込んでしまった。だが、改めてディスコグラフィを調べてみれば、前作は2007年録音の『Invisible Paths: First Scattering』(Tzadik)、これはソロ録音だから別扱いということにすれば、バンドとしては2004~5年の録音の『Weaving Symbolics』(Label Bleu)以来となるのだが、本作は2006年と2007年の録音だから、実は然程、間が開いているというわけでもない。リリースが遅れた事情は知る由もないのだが。にも関わらず、本作でのスティーヴ・コールマンは、ラベル・ブリュ移籍以来の大きな変貌を遂げたのではないかと私には感じられた。それは、ヴォーカルの位置づけと、リズムへのアプローチの二つの側面においてである。
既にデビュー作『Motherland Pulse』(JMT→Winter & Winter)でカサンドラ・ウィルソンが活躍しているばかりか、ほとんどの作品にヴォーカルが起用されているので、ヴォーカリストの存在自体が特に目新しいわけではないし、東ティモールと台湾出身の両親を持つジェン・シュウも2003年録音『Lucidarium』(Label Bleu)から、メンバーとしてその名を連ねてはいる。
これまでのコールマンの音楽におけるヴォーカルとは、アンサンブルの一部として、時に肉感的なフィーリングを付け加えたかと思えば、無機的なムードを醸し出したり、あるいはファンク・テイスト、東洋風のエキゾチシズム、無調を強調する抽象性、ポップ・ミュージックに通ずるメロディ等々を演出する機能を与えられた、あくまでサウンドを構成する一要素という位置づけだったのではなかろうか。
だが、本作におけるシュウのヴォーカルは、テーマ・メロディを奏でるアンサンブルの中核というポジションを与えられている。従来なら、コールマンのアルト・サックスが演じるべき役割をだ。ここには、単なるアレンジ手法の変化に留まらない何かが感じられてしまう。
もう一つのリズムに関してはどうだろうか。原田和典氏のインタヴューによれば、M-BASEとは「ビ・バップのコンセプトとファンクのリズムの融合」なのだという。これまでのコールマンの音楽はそれをなるほどと肯かせるようなリズムの“ノリ”を持っていた。例え、どんなに複雑な変拍子であったとしても、そこにはファンキーで、肉体のバネを想起させるような弾力性とある種の余裕を感じさせるグルーヴがあった。
本作でのメンバー構成は、スティーヴ・リーマンやリバティ・エルマンのバンドとかなり重複しているのだが、まるで彼等のグループにコールマンが客演しているような印象を受けたのは私だけだろうか。タイション・ソーリーの叩き出す、目の詰まった縦ノリの高速度ドラミングは、果たしてコールマンのリズム感にフィットしているのだろうか。若手に胸を貸すはずが、高度に複雑化し、身体化された彼等のリズムになんとか引き摺られていくのが精一杯、といった風情が感じられはしないだろうか。
「久々の新譜」に過度な期待を持ったこちらの問題もあるだろう。これはまだ発展途上、過渡期の音楽なのだ。次作では、若手を手懐け、ヴォーカルを中心にした独自のアンサンブルによるコールマンの新しい音楽の完成型に出逢えることを期待している。
コールマンにもバイアグラを!
どこかで見たような見出しではある。ともあれ、コールマンは長らく気になる存在だ。新譜に傾注していた時期の『On The Rising Of The 64 Paths』(2002/Label Bleu)までリーダー作はすべて買っていた。しかしファンとまでは言えまい。手元に残っているのは数作を数えるのみだ。無類にかっこいいものにはコレクションに加わっていただいたが、無闇に高踏的なものにはおひきとりいただいた。そんなわけで期待と不安が相半ばする。一聴、良い意味で相変わらずで一安心。コールマン印の変拍子ファンク、旋律転換法、先鋭的な姿勢は健在だ。バップ・スキャット?を交えたテーマ・ユニゾンに各人のソロが続く(1)(2)は21世紀版のビバップに聴こえる。コールマンの印象は希薄だが、上々の出来と言えよう。このあとがよろしくない。悪い意味で相変わらずで失望した。(3)から(5)までしんねりむっつり、ダークでレイジーな曲想が続き、喫煙に逃避する。スローがいかんと言うのではない。ハーモニカルでコレクティヴ、実に手が込んでいるが単調で、浮遊感も静かな高揚感もないのだ。退屈を忍んで聴き通してもさしたる印象は残らない。やはり変拍子ファンク系の(6)で盛り返すものの、屈折系の(7)で再び機嫌を損なう。(1)(2)(6)クラスが並べばまだしもだったが、それでもコールマンが存在感に乏しく快作には届くまい。総じて冴えと閃きを欠いている。その癖、クソ真面目ぶりを遺憾なく発揮して大いに遺憾だ。コールマンにもバイアグラを!女性シンガーは得体の知れなさが面白いと思うが、声質や語り口に『64 Paths』のMalik Mezzadriほどの魅力は感じない。
今年の録音かと思ったら2006年から2008年にかけてのものだった。現在進行形とは言えないわけだ。満を持しての本国レーベルからのリリースともある。意地の悪い見方だが、お蔵入りしていたのではないか。出来からすれば不思議はない。おかげでチト安心した。次作に期待できようというものだ。不安もよぎった。これがいまも進行中なら似たようなものになるのではと。贅沢は言わない。鳴りと切れのいいコールマンが聴きたいだけだ。
いまだに「得体の知れない不良オヤジ」であり続けるコールマン
スティーヴ・コールマンがファイヴ・エレメンツと名乗るバンドを組織してから25年の歳月が流れた、という事実に、なんだかしみじみしてしまう。僕はあの当時まだ20代で、やっと自分たちの世代の「新しいジャズ」が登場した! と大喜びしていたんだよね。ジャズライフ誌でコールマンが語っていたM-baseという理論(なのかなあほんとに)は分かるようで分からなかったけど、まあとにかくかっこいいから許す、みたいな気分で。そして時は流れ、わたくしは52歳のジジイになりましたが、今年54歳になるコールマンは相変わらずクールかつしたたかなスタンスで、宮本武蔵の「五輪書」にちなんで命名したというバンドを維持している。この新作は4年ぶりの作品だけど、録音は2006年から08年にかけてのもので、その辺の悠然とした態度が長続きの秘訣なのかもしれない。
例によっての複雑きわまりないリズム構成、ひっかかりのあるメロディ・ライン、アブストラクトでクールなコールマンのソロ、といったバンドの基本的な特徴は変わらないが、今回は中国系アメリカ人であるジェン・シューのエスニックなヴォイスが大きくフィーチュアされていて、サウンドにオーガニックな人間くささを与えている。もろに「中国」というわけでもなく、ユーラシア大陸のどこであってもおかしくないようなテイストを持ち、しかしあきらかに「ヨーロッパ」や「北米」や「南米」や「アフリカ」ではない。広い意味での「アジア」を感じさせる彼女のパフォーマンスは、はっきりと好き嫌いが分かれるタイプのものだろう。僕はと言えば、これぐらいの違和感が漂った方がスリリングでおもしろいし、コールマンがまだまだ「得体の知れない不良オヤジ」であることを確認できて、なんだかうれしかったりもするのだ。
そのことは、アンサンブルの要であるタイション・ソーリーのドラミングにも言えるのだと思う。ファイヴ・エレメンツの80〜90年代の作品とこのアルバムを聴き比べてみると、なによりもドラムのプレイが圧倒的に複雑でテクニカルになっていることに唖然としてしまうはずだ。この25年の間に、ある種の「ジャズ」が「リズム」的におそろしく変化したことは誰もが知っている事実だが、80年代にそれをいち早く準備した当事者であるコールマンが、その変貌を最も端的かつ過激に体現しているドラマーを起用していることって、実に素敵だなあ、とは思いませんか?
中国系ヴォーカルの起用による「刺激」は良い効果を発揮しているのだろうか?
スティーヴ・コールマンはブルックリン派としてデビューした頃からカサンドラ・ウイルソンをフィーチャーし、歌伴のサイドという発想とはまったく異なるスタンスでヴォーカリストを自分の音楽の中に組み込んでいた。だから、このアルバムがJen Shyuのヴォーカルを前面に押し出していること自体は、さほど不思議ではない。しかしJen Shyuの参加の意味は、カサンドラと同じではない。カサンドラの場合は、同じブルックリン派の仲間という関係だったが、Jen Shyuはチャイニーズなので異文化が交錯する効果が生まれる。まったくの思いつきだが、大昔オーネット・コールマンが読売ランドのライヴ・アンダーザ・スカイに「謎の日本人女性ヴォーカリスト」を伴って登場した時、「面白いこと考えるなあ」とファン一同フクザツな気持ちを抱いたものだが、同じ東洋系ヴォーカルという連想から、あの時のことを思い出してしまった。
そして、「そうか、オーネットは違う感覚がほしかったんだ」と今頃になって合点がいったのだが、そうした視点で見れば、まったく音楽の傾向は違うけれど、ジョー・ザヴィヌルがサリフ・ケイタと共演したのも、似たような心つもりだったのだろうか、などと、連想は果てしも無く広がってしまった。
まあ、こうした想像は当たらずといえども遠からずなのではなかろうか。要するに刺激を求めているのですね。ではこの「刺激」は良い効果を発揮しているのだろうか。ウーン、難しい。悪くは無い。気になるところも無い。しかし、その先のもう一歩が足らないように思うのだ。というか、どのトラックも若干一本調子の気味があり、そのせいか印象が散漫になってしまい、「これはスゴい」というところまでは行ってないように思う。
ヴォイスをオミットしたヴァージョンを出してくれないものか
このアルバムの発売を知ったのは今年の春だったと思う。僕は基本的に「品物は、現物を見て買う」タイプなのでネット買いはあまりしない。しかしスティーヴ・コールマンの新作なのだから、これは必聴ものであるに違いない、内容を確認するまでもないと思ったので、すぐ某ウェブサイトに予約注文した。が、待てど暮らせどアルバムが発送されてこない。結局、僕が本作を初めて聴いたのは7月10日、四谷「いーぐる」で行なわれた益子博之さんの新譜特集の場において、であった。益子さんからは「今回の新作、以前よりさらにヴォイスがフィーチャーされている」とうかがっていたので、かなり身構えていたのだが、当日かかった「Beba」を聴く限りではコールマンのサックスの音色やタイシャン・ソーリーのフル稼働ドラミングが、ヴォイスより遥かに強烈な印象として残り、「ああ全体がこの調子なら、けっこう満腹感を与えてくれるアルバムになってるかもしれないな」とも思った。
家に戻ると、ようやく本作が届いていた。全曲が「Beba」のような調子だったらなあ、と思いながら再生したが、なんということだろう、曲が進むごとにヴォイスがさらに前面に出るようになり(少なくとも僕はそう感じた。ミキシングのせいかもしれない)、キビがワリイなあ、あれ今だれのCDを聴いてるんだっけ、と思わずジャケットを見返してしまう瞬間も出た。コールマンは「ヴォイスをフィーチャーしたアルバム」を作りたかったのかもしれないが、ぼくがあくまで聴きたいのは「スティーヴ・コールマン自身の音色」であり、それが満喫できないという一点において本アルバムは、個人的なスティーヴ・コールマン・フェイヴァリッツの中では最下位に属する。
脳内イコライザーを必死にかけてヴォイスの存在を隅っこに追いやるように追いやるようにしつつ聴けば、コールマンやソーリーはもちろん、ティム・オルブライトやトーマス・モーガンもすさまじいプレイをしていることが浮かび上がってくるのだが・・・。ヴォイスをオミットしたヴァージョンを配信でいいから世の中に出してくれないものか。



