critique / 音楽批評
2010.07.30

後藤雅洋×益子博之 往復書簡「ジャズにおける身体感覚の変容と認識の切断面 再考」 vol.54

ポランニーの「暗黙知」とは「認識を求める過程で、能動的に経験を形成もしくは統合する力」

miya:このマイケル・ポランニーの「暗黙知」とは一体どういう理論なのか?
今回は、今まで何度も話題になったゲシュタルト心理学との関係が明らかにされている箇所を上記「暗黙知の次元」からご紹介し、「暗黙知」ってこんな感じっていうところをお伝えすることにしましょう。

ゲシュタルト心理学によれば、ある対象の外形を認識するとき、私たちは感知している個々の特徴をそれは何とは特定できないままに統合しているのだという。じつのところ、知に関する私の分析はこのゲシュタルト心理学の発見に密接なつながりを持っている。もっとも私の方は「ゲシュタルト(形態)」とは申しても、これまで無視されてきた側面に注目することになるのだが。これまでのところゲシュタルト心理学が依拠する仮定は次のようなものだ。外形の認識は、網膜もしくは脳に刻印された個々の特徴が、自然な平衡を得て、生起する。しかし私の考えはそれとは逆なのだ。すなわち「ゲシュタルト」は認識を求める過程で、能動的に経験を形成しようとする結果として、生起するものである。このシェイピング(形成)もしくはインテグレイティング(統合)こそ、私が偉大にして不可欠な暗黙の力(=暗黙知)とみなすものに他ならない。(「暗黙知の次元」ちくま学芸文庫 マイケル・ポランニー 高橋勇夫訳 P.21)

「暗黙知」とは「認識を求める過程で、能動的に経験をシェイピング(形成)もしくはインテグレイティング(統合)する力」、とりあえずそう申してよろしいかと思います。

後藤さんの「ジャイアンツ・オブ・ジャズ」(改題「天才たちのジャズ」宝島文庫)に<「ジャズとは聴き手の分析、統合の能力の前に、それ自身として無根拠に提出されてしまう一個の出来事である」というテーゼ>という含蓄のある言葉がありますが、この言葉を例に「暗黙知」を語れば、
「無根拠に提出されてしまう一個の出来事であるジャズ演奏とはまだ包括的にとらえられていない諸細目(個々の諸要素)であり、聴き手はその演奏に積極的にコミットメントすることを通じてそれらを音楽(包括的全体)として感じ取っていく(統合する)」ということになります。そして、それを可能にする“力”こそが「暗黙知」なのです。
(その際「分析」とは一度音楽(包括的全体)として把握した対象をさらに要素に還元してとらえようとする行為(上位から下位へ)を指すと考えればいいでしょう。また暗黙知による「統合」とは演奏のどこに(どのレベルに)注目するかによってその都度聴き方(現象の現れ方)が変わってしまう、可変的で相対的な認知であることも申し添えておきます…)

この原理論「暗黙知」は一体どのようにジャズ批評に活用できるのか?(色々使えると思うのですが)今回は例として以前も話題になった楽理(音楽理論)と鑑賞の関係に絞ってお話しいたします。マイケル・ポランニーはこの問題を次のように論じています。

 あけすけな明瞭性は、複雑な事物の認識を台無しにしかねないのだ。包括的全体を構成する個々の諸要素を事細かに吟味すれば、個々の諸要素は拭い取られ、包括的存在についての概念は破壊されてしまう。そうした事例は多くの人が知るところだ。(中略)ピアニストは、自分の指に集中させたりすると、演奏動作が一時的に麻痺することもある。倍率の高い虫眼鏡で部分を念入りに眺めたりすると、全体の模様や人相を見損ないかねない。
 もっとも、こうした意味や全体像の破壊は、個々の意味をもう一度内面化し直すことで修復が可能だろう。言葉が適切な状況下で再び発せられ、音楽に集中したピアニストの指が再び躍動し、人相の個々の特徴や模様の詳細がある距離をもって眺め直されるなら、それらはみんな息を吹き返し、自らの意味と自らの包括的な関係を回復させるだろう。
(「暗黙知の次元」ちくま学芸文庫 P41)

さらにこの後、ジャズ批評を考える上でも重要な指摘が続きます。音楽鑑賞をする際の楽理やコード分析の意義とその限界について明らかにされます。

 テキストを切り刻む精読は鑑賞を台無しにしかねないが、テキストを以前よりはるかに深く理解するための材料を提供する可能性もある。こうした事例では、部分を念入りに吟味するのは、ただそれだけでは意味を破壊する行為なのだろうが、次の段階の統合へ向かうための道しるべとして寄与し、ひいてはより正確な意味をもたらすのだ。
 しかし部分を事細かに詮索することで被るダメージは取り返しのつかぬものになりかねない。くだくだと細かいことばかり言い立てていると、歴史や文学や哲学の主題などは忘却の彼方にかすんでしまうだろう。もう少し一般的な言い方をすればこうだ。個々の諸要素はより明確なのだから、それらをちゃんと認識すれば、事物全体のほんとうの姿を捉えることができる、と信じ込むことは根本的に間違っている。
(「暗黙知の次元」ちくま学芸文庫 P42)

楽理の鑑賞に与える限界がここにあります。どんなに細かくスコアーを精読し、コード分析をしても、それによって深い鑑賞が可能になるかのように信じ込むことは根本的に間違っています。むしろそれらは、演奏を再現したり、新たな作品創造(次の段階の統合)へと向かう際の材料(個々の諸要素がそれに当たる)を提供する可能性を持つのだと考えるべきでしょう。

追伸
今回お送りした文章ですが、原理的な議論中心のテーマであったため、仕方がなかったのですが我ながら内容が固いですね(笑)
「いずれこのような原理的な議論に戻って来ざるを得ない場面も何度かあるでしょう。ですが、その前にお応えしておかなければならない後藤さんや相澤さんの問いかけがまだまだ残されています。80年代と90年代の間に横たわる断層/断絶や、その背景にある「身体感覚の変容」と「認識の切断面」の関係、表現における「主体性」の変容、それに関わる形で前景化してきた「触覚」の問題、そして、それらの全体を俯瞰するモダン/ポストモダン/さらにそれ以降のフェイズの位置づけの問題等々」

この益子さんの提言に一票! この“原点”に一度戻りませんか?
2010.07.30

後藤雅洋×益子博之 往復書簡「ジャズにおける身体感覚の変容と認識の切断面 再考」 vol.53

ソシュール記号論の基本的原理は、「ゲシュタルト認知」に似ているのではないか?

miya:お久しぶりです。miyaです。
後藤さん・益子さん、お二人の議論の代弁者・交通整理役をみずから買って出ておきながらその役割に徹しきれず、スキゾ・ミドル「逃走論」とでも申しましょうか(笑)、闘争ではなく逃走へと転じて、今まで心のジャングルをさ迷って参りましたが、「恥ずかしながら帰ってまいりました」。久しぶりに踏みしめた本土(com-post)は未だ変わらぬ戦時中でしたので、そのことには大変驚いております。
今回の再登場はmiyaの発言に対する益子さんからの問いかけに応える必要を感じたこと、それからここ数ヶ月の後藤・益子両氏の意見の応酬を読んで、再登場する必然を私なりに感じたからです。これにお答えし、もし許されるならば、お願いがございます。一度失敗した《代弁者、交通整理役》にもう一度挑戦させていただけないでしょうか。私自身もこのままでは終われないという思いをずっと心に秘めておりました。皆さんが議論しやすい環境を整備すべくベストを尽くしますのでご検討お願いいたします。

まず最初に益子さんのご発言をいくつか引用いたします。私の発言への問いかけを含むもので、今回の寄稿のきっかけにもなったものです。

『いつの間にか、言語活動による「意味生成」能力と「ゲシュタルト認知」とは等号で結ばれているのです。』
『ここでも、発話行為を成立させる「言語活動による意味生成」が、「表現行為全般」や「音楽の意味」の議論へとそのままスライドして行きます。この時点で、この議論のすりかえを指摘するだけの読解力と思考力が僕にあれば、この後も長らく沈黙せずに済んだのかもしれません。』


「議論のすりかえ」とはちょっぴり不穏当ないい方ではありますが、そう思われたとしたら残念です。結論からあっさりと述べてしまえば、ここで論じられている言語能力による「意味生成」能力と「ゲシュタルト認知」、「表現行為全般」や「音楽の意味」はすべて等号で結べるものです(正確には≧あるいは≦で)。

又、以下のようなご提言もありました。
『複数形の「ランガージュ」が単数形の「ランガージュ」とパラレルな関係にある多様な複数の創造能力から構成されているとするならば、それらの基底を成すような、より根源的な創造能力か、もしくはそれらを包括・統合するような、より上位の創造能力の存在が要請されるように思うのですが、いかがでしょうか?』

この意見には全面賛成です。今回の私の文章は、益子さんが要請した「より根源的な創造能力か、もしくはそれらを包括・統合するような、より上位の創造能力の存在」をハンガリーの科学者・哲学者であるマイケル・ポランニーの認識論の中に見出そうとする試みです。

早速、益子さんからの問いかけにお応えしながら、テーマを論じて行きましょう。
(1)言語能力による「意味生成」能力と「ゲシュタルト認知」とは等号で結ばれるのか?
(2)「言語能力による意味生成」が「音楽の意味」など「表現行為全般」の議論へと等
号で結ばれるのか?
※引用文の「言語活動による意味生成」という用語ですが、狭義のランガージュに相当するならば「言語活動」ではなく「言語能力」とするのが適切ではないか、という後藤さんからのご指摘を受けました。もっともな話でしたので、ここで改めさせていただきました。

たとえば、ソシュールの記号論の基本原理を改めてご紹介しましょう。
「ソシュールは言語記号の各要素は実体的に構造化されているのではなく、各要素と全体の関係、各要素間の関係によって構造化されていると考えたのだ。すなわち、各要素は実体的な意義を持たず、全体および各要素との関係で差異化され、それ自体の価値を持つのである。」(志賀隆生)
つまり、一つ一つの記号(=各要素)はそれ自体「意味」を持たないわけです。DOGとかイヌという音がそうであるように、システム内の他の記号と判別できるように違い(差異)があれば、どんな呼び方でもよかったのです。その言語システムに属する他の要素との違い(差異)を要因としてシステム(体系)の中に組み込まれて、はじめて個々の記号は意味や価値を持つようになる、そういうことです。言いかえれば、個々の記号(個々の各要素)とは実体としては存在せず、他の要素との共存と全体との関連によってはじめて存在する関係態なのだと考えることも出来ます。

ソシュール記号論の基本的原理である「個々の要素はそれ自体には意味がなく、各要素・全体との関係に組み込まれることで、はじめてシステムの中でその要素は意味や価値を持つようになる」とは、どこかで聞いた話ではありませんか?そう、一つ一つの音とメロディとの関係、あの「ゲシュタルト認知」に似ているとは思いませんか?

別にこれは不思議な話ではありません。実をいえばソシュールの言語学と現象学の間の共通性は、両者を知る人からは早くから指摘されておりました。ソシュールの記号論をレヴィ・ストロースに紹介し、「構造主義」を生み出す要因となったロマン・ヤコブソンはソシュールとフッサールの共通性を早くから指摘し、フッサールの「論理学研究第二巻」が構造言語学の発足のための強力な要因となったと発言しています。

そもそも現象学とは一体どういう学問でしょうか?現象学者鷲田清一氏は次のように述べています。

現象学(Phenomenology)は、その名が示しているように、現われのロゴスを問う。つまり、世界をそれが現われているかぎりでその現われにそくして問題にする。だからそこでは、現れの構造、つまりは、何かが何かとして何かに対して現われるときのその<関係>が問題となる。しかもそれらの<関係>が、その生成を可能にしている媒介、ないしは条件もろとも問題となるのである。その意味で<現象学>は(実体主義に対立する)広い意味での関係主義の立場に立つ。(「現象学の視線」講談社学術文庫 鷲田清一 P.8)

現象学がそのような学問ならば「実体論から関係論へ」を主張するソシュール=丸山圭三郎氏の文化記号論と親和性があるのは当然のことなのです。又「関係」という言葉を「構造」とか「システム(体系)」「ネットワーク」等の言葉に置き換えれば「構造主義」や「システム論」、「情報理論」も共通の基盤を持つことがわかります。
ちなみに、ヤコブソン同様フッサールとソシュール、その両者を知る立場にあったメルロ=ポンティの言語論はソシュールの記号論に大きく影響を受けています。

又、先ほど述べた「個々の要素はそれ自体には意味がなく、各要素・全体との関係に組み込まれることで、はじめてシステムの中でその要素は意味や価値を持つようになる」というテーマですが、益子さんのいう言語と音楽、「それらを包括・統合するような、より上位の創造能力」に深くかかわっています。
“「個々の要素」をより上位の「システム=関係」に組み込み、「包括/統合」し、それによって意味や価値を生み出す力”、人間が持つそのような意味生成力をとりあえず「暗黙知」と言っておきます。
2010.06.29

後藤雅洋×益子博之 往復書簡「ジャズにおける身体感覚の変容と認識の切断面 再考」 vol.52

「身分け・言分け構造」の関係は複雑で、丸山の説明によれば言分け構造が身分け構造の上に「重ね書き」されている

後藤:
>後藤さんの仰りたいことは、複数形の「ランガージュ」が作用しているのであれば<A>であり、それは同時に<C>でもある、ということだと思うのですが、いかがでしょうか?

まず益子さんの言う<C>は

<C>音楽を聴いた、あるいは演奏する人間の「身体感覚」は、「ランガージュ」とはまったく次元の異なる「より広範な人間の文化的創造能力」を通じて「非言語的な音楽の意味」を生成し、「音楽的価値の集大成」である「音楽理論」を生み出していく

でしたよね。「より広範な人間の文化的創造能力」がすなわち複数形(広義)のランガージュなのですから、「ランガージュ」とはまったく次元の異なる「より広範な人間の文化的創造能力」という言い方がよくわからない。つまり

>後藤さんの仰りたいことは、複数形の「ランガージュ」が作用しているのであれば

という質問の前提と矛盾しているように思えるのですがいいかがでしょう。ともあれ、この質問の答えは「違います」としか言い様がありません。

次いで「一つ目」の質問、「言分け構造」と「身分け構造」のモデル図に対する意見を申し上げます。

下部の枠で示された「身分け構造」が直接上部の枠で仕切られた「言分け構造」に作用を及ぼしているように見えますが、その関係はもっと複雑で、丸山の説明によれば、言分け構造が身分け構造の上に「重ね書き」されているという表現を使っています。

「二つ目」の質問については、ソシュール自身著作を残さず彼の生徒たちの書き残したさまざまな講義録の解読が現在の構造主義言語学なので、概念の成立順序についていろいろな説があるようですが、ソシュールは最初から、言語成立の契機となる潜在能力と人間の文化活動一般を成立させうる潜在能力と同一視していたようです。つまりランガージュの狭義の意味と広義の意味は同根であるということのようです。

「三つ目」の質問ですが、パラレルというより同じ作用なのですから、より根源的だったり、上位の創造能力というようなものはないと思います。

不十分かもしれませんが、一応これが私の回答です。私の感触では、この1年ぐらいの間に益子さんは言語学、および記号学についてずいぶん勉強されたようですが、事のついでに現象学の方も勉強していただければ、私の早トチリ、不注意による誤記、不正確で大雑把な概念をより精密に彫琢していただけるように思います。勉強は一人でやるよりみんなでやったほうがはかどります。また、せっかく記号学と関係の深い言語学の話題が出たのですから、以前益子さんがお話になっていた、音楽と記号学の関係について展開していただけたら、また話が面白くなりそうな気がしております。
2010.06.29

後藤雅洋×益子博之 往復書簡「ジャズにおける身体感覚の変容と認識の切断面 再考」 vol.51

以下はmiyaさんが参照した文献の説明であって、私自身が言語学用語を使って考え方を展開するのではない

後藤:ちょっと話を整理してみると、今問題になっている「ランガージュ」という言語学用語は、私が持ち出したものではなく、「往復書簡」の中でmiyaさんが丸山圭三郎の著書『文化のフェティシズム』(勁草書房)を念頭において提出した概念です。また、益子さんも使っている「身分け・言分け」という概念も、前回の私の返信でも触れましたが、「抽象的な用語は避けたほうが良い」という判断のもとに、「音楽を演奏する人 / 聴く人」と「音楽理論」というより身近な概念に置き換えました。

つまり、「ランガージュ」にしろ「身分け・言分け」にしろ、その用語の意味を知っている者同士では非常に話の通りが早く、ラクではあるのですが、いかんせん、一般性に欠ける。ですから、なるべくならばほかの言い方で済ませたいのですが、益子さんはこうした専門用語の解説を私にお求めのようなので、改めて私の理解した限りではありますが、これらのことばの説明をいたします。

ただし、こうした質問は、本来ならそうした用語を最初に持ち出したmiyaさんに対して発せられるべきであって、私が答えるのは筋違いのようにも思えます。つまり、私が以下に述べることはmiyaさんが参照した丸山によるランガージュ、あるいは身分け、言分けの説明であって、私自身がこうした言語学用語を使って自分の考え方を展開しようということではありませんので、その点ご承知おきください。

まず、丸山によるとランガージュは意味付与作用とは言え、人間を含む生物体の原初の外界把握である身体のゲシュタルト「身分け構造」には関係しません。ダニに言葉がないように、狭義のランガージュが関与するのは、言語が発生する場面での対象のゲシュタルト把握、すなわち「言分け構造」における潜在能力であり、また、広義のランガージュは、人間の文化的営為における意味付与作用一般にかかわっているということです。つまりゲシュタルト「形態把握」は、生命体の原初の外界把握の場面と、人間における言語誕生の契機、および音楽を含む文化的営為一般における意味付与作用の場面とに、二重分節しているというのが丸山氏の説です。

しかし、単純に身体のゲシュタルトである「身分け構造」の上に言語把握のゲシュタルトである「言分け構造」が2階建てのように乗っかっているというようなことではない。とは言えこの「二重分節理論」に基づいて丸山氏が提唱した「言分け構造」は、ご自身が著作で「仮説用語」と断っているように、学説として定説化されているわけではないようです。

私見ですが、以前私が言及した、野矢さんの説と、丸山さんの説との整合性についてはまだなんとも言いかねるし、また、丸山氏がこの用語(身分け)を借用した市川浩の著作(『〈身〉の構造~身体論を超えて』(青土社刊)などを散見する限り、市川氏の概念の方が幅が広く、人間の文化的所作全般に及んでいる。つまり元祖市川氏の言う「身分け構造」は、丸山氏の新たに設定した概念「言分け構造」、すなわち広義のランガージュにまで及んでいるような感触を持ちました。

その上で言うのですが、私の「身分け構造」という言葉の使い方も、どちらかというと現象学者である市川氏に近い。まあ、そういうこともあって私自身はランガージュという用語は使いませんでした。とは言え、miyaさんの文脈は充分に理解できたということです。もちろんこうしたディティールにまで言及しなかったため、それを読んでいる読者の皆様方、そして益子さんに対して不親切であったという批判はその通りだと思います。

以上を前提として、改めて益子さんのご質問にお答えいたします。
2010.06.29

後藤雅洋×益子博之 往復書簡「ジャズにおける身体感覚の変容と認識の切断面 再考」 vol.50

「よくわからないこと」を公開の議論に付し、批判、反論によって「軌道修正」して行くのが往復書簡での基本方針

後藤:今回益子さんに習って、私たちの往復書簡を最初から読み直してみました。その結果、ずいぶんいろいろなことが見えてきました。益子さん、相澤さんの質問に答えるために私自身が思考する過程で、考え方を変えたところや誤りの訂正、不適切な用語の使用に気付かされるなど、実に多くのことを学ばさせていただいたのだと、深く実感したのです。改めてそうした機会を与えてくれたお二人に感謝の意を表したいと思います。

また、一時期議論が「音楽の意味の意味」を巡って膠着状態に陥ったとき、適切な助け舟を出してくれたmiyaさんにも大いに感謝しております。もし彼の参入がなければ、おそらく私たちの「往復書簡」はスタート直後に空中分解していたことでしょう。

もともと私がこの往復書簡を始めた動機は、なにか積極的な主張をしようというよりも、ウエブ・サイトという同時進行的に誤りの訂正、考え方の修正が可能なメディアを利用し、少々荒削りな概念や、あるいは「思いつき」でもいいから、とにかく私が「ジャズ、音楽について、よくわからないと思っていること」を公開の議論に付し、当然出てくる批判、反論に身を晒すことによって、それこそ「動きつつ軌道を修正」して行こうというのが基本方針でした。そしてそのこと自体が、これを読む読者に、議論自体の批判を含め、何かを考えてくれるきっかけになってくれればいいなあと思っていたのです。

聞くところによれば、その「効果」は少しずつ現れ、すでに一部の非公開サイトでこの往復書簡に対する「批判」が現れているそうですが、そのこと自体が私の目論見でした。批判は無視とは違います。「なにを下らないことやってんだ」という批判は、それ自体が「オレたちはこう思う」という暗黙の意志を前提としています。どうでもいいと思っていることに人は批判などしません。

出来うれば、そういう方々にも公開の場で批判していただき、「オレたちの思い」をご教示いただけたら、私たちの認識もまた別物になりうるだろという期待があるのです。もちろんそこで真摯な議論が行われた結果「オレたちのほうが間違っていた」となる可能性だってないとは言えません。しかしそこで大事なのは「どちらが正しい」ではなく、そうした「生産的対話の過程」を通して、お互いのどちらかが、あるいは双方が、より妥当な見解へと変わりうる可能性が開けてくるということです。百歩譲って、結局物別れになったとしても、その議論はお互いがお互いの「暗黙の前提」を自覚するきっかけにはなりうるのではないでしょうか。私は自説がゼッタイに正しいなどとは夢にも思っておりませんが、少なくとも、自分がそのように考える根拠、前提は明示しているつもりです。

というか、私は「批評」とはそういうもの(思考の暗黙の前提を開示すること)だと素朴に信じております。そのことを裏返せば、対話の否定はすなわち批評の否定です。どんなに妥当と思われる見解も、「仲間内の論理」に過ぎないという批判をかわすことが難しい。まさに批評の蛸壺化です。もちろんcom-postはそうした状況に風穴を開けることを第一の目的に上げているのですから、外部からの批判には必ず応対いたします。

ともあれ、昨年の1月に始まり2年目に突入した往復書簡は、私自身の考え方を大きく変え、まだまだわからないことは多いとは言え、少なくとも往復書簡をはじめた時よりは「見通し」が立ってきました。改めて益子、相澤、miyaのお三方に感謝の意を表したいと思います。

その上で、今後は私自身の考え方の変わったところを少しずつ発表していきたいと思うのですが、その前に益子さんの質問にお答えし、また益子さんのお考えもお聞きしたいと思います。
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