天鼓×巻上公一 往復書簡「ヴォイスの挑戦」 vol.06
この夏、トゥバに行ってきた。
風景描写っていいなぁ。奥深い芸能というか、哲学を感じる。トゥバなら「羊と少年」。京都なら「龍安寺の石庭」とか描写できるだろうか。いま窓の外を眺めたらトンボが20匹舞っている。川の流れ、蝉の声、今朝の鳥は静か。これを声で表現するのは、至難の業でもあるが、興味深い。それはまさに非言語の世界であって、声の修業をするにはうってつけだね。
で、この夏、トゥバに行ってきた。もう14回目になる。トゥバの西側に4000m級の山がふたつあって、ひとつはバイタイガ、もうひとつはムングンタイガ。その山に暮らすカルグラという低音のホーメイの名人セヴェックさんと、ホーメイの達人オッペイさんに、山を下りてきてもらい教えを請うた。
今年はトゥバに行くのが少し楽になった。いつも新潟空港から極東の町ウラジオストクに行き、乗り換えてハカス共和国のアバカンまでの空路だったけど、なんと今年から成田空港発ウラジオストク行きが就航。それでアバカンからトゥバに行く途中の山あいに、エルガキ自然公園のロッジができたので、そこでワークショップを開くことにした。アバカンからトゥバまでストレートに行くと8時間くらいクルマに乗るんだけど、エルガキなら3時間くらいで着く。だいぶ楽だ。
ロッジに着くと、セヴェックさんとオッペイさんは既に到着していて、バーベキューの薪割りをしていた。残念ながら雨が降ってきて、バーベキューは延期になったけど、薪割りが実に堂に入っている。雨が降っても尚、坦々と延々と薪を割っていた。
次の日、素晴らしい晴天で、14キロのトレッキングをして西サヤン山脈のエメラルド色の湖と神の悪戯で置かれたという奇岩まで歩いた。標高2000メートルの絶景の中でのカルグラの練習。
カルグラは、喉の奥の方をゴロゴロ細かく震わせて、通常より一オクターブ低い音を胸に共鳴させる。うまく震えるまでに時間がかかり、且つ重心を低くして温かい雑味のない音にするまでが時間を要する。
だけど、トゥバの人たちは、普通の革靴で、手ぶらですいすいこの山を登り歩き、涼しい顔。こちらはゴアテックのトレッキングシューズを履きながらも、ズボンの裾は泥だらけ。途中何回もぬかるみがあったのに、靴が濡れている様子がない。なんなんだろうな。この違いは。あきらかにホーメイの出来に関係があると思う。
山を歩く筋力と知恵が育てた声に違いない。
そういえば3年前、この山の姿を一望する峠の草むらで、熊が唸っているのを聞いた。どうもクルマに轢かれたらしいのだが、その声は人間の声のようだった。いまでも耳を離れないよ。熊のそんな声聞いたことある人あまりいないよね。
だから、それを再現することができるけど、怖い。
声は耳の記憶とも言えるんだろうな。
よく外国語の習得の時、聞く話だけど、人は聞き取れる音しか発音できないらしい。それが正しければ、自分が出している声は、自分が聞いている音そのものであるとも言える。
旅の後半には、首都クズルの小高い山にロシア製の小型バスで登った。その山には、チベット仏教のマントラ、「オン・マニ・ペメ・フム」が書かれていて、そこに到着すると、やけに羽の大きなバッタが、ツクツクツクと機械音のような音をたてて、一斉にこちらに向かってきた。そのノイズの塊のような音。妙に心地よくもあった。これは歓迎されているのか、いないのか。
もっとも都会と違って、そこにはそれ以外の音はなく、バッタが去った後は、静かな風が吹いているだけだった。
だけど、こうやってトゥバに来ると、大抵の人は本当にホーメイが飛躍的に上達するよ。まあ、その気になっている人しか、こんな遠くまで来るわけないからだろうけど。その気じゃない人まで出来たりするのをみていると、なにかあるなと思わざるを得ない。
ぼくだって、1995年にトゥバに到着した次の日に、ホーメイ、カルグラ、スグットが突然上達したんだもの。移動による習得というのは確実にあると思う。
もっと歩いて歩いて、いろいろ声の遊行をするのもたのしいなぁ。
天鼓×巻上公一 往復書簡「ヴォイスの挑戦」 vol.05
言葉とヴォイスの近くて遠い関係
北沢タウンホールでピアノの前に座って演奏するふりをしたのは、観ている人には視覚情報だけでも何かが聴こえるだろうと思ったからです。人それぞれに違った何かが。
私は歌をうたうときには、もうすでに自分の知っているイメージをできるだけしっかり表現することに集中しているけど、即興のときは音を紡いでいくことに集中していて、イメージを持つことはオーディエンスに任せてしまう。例えばアートで抽象と具象というものがあるけど、抽象性の高いもののほうが受け手の想像力を、より自由にさせるような特性を持っている気がする。これはもちろん良い悪いの話ではなくて。言葉や構成のある曲をやること(具象)はイメージを自分が創りあげる面白さだし、即興演奏(抽象)はイメージを観る側に創ってもらう面白さがあると思う。これは即興者によっては全然違う考え方があるだろうから一概には言えないかもしれないけれど、私はそう感じています。
「楽器と声の違いは、やはり言語」という意見はどうかなあ。
私にも(昔のことだけど)巻上君のシドニーでの逸話に似た体験はあるけれど、人間の「これが何であるか知りたい」「わかりたい」という、あくなき欲望は侮りがたい。それに、声を言葉を使うための道具としてしか意識してこなかった人には、意味を持たない声を出すこと自体、理解の範疇を超えているのかもしれない。そこで、脳の”思い込み””整合性のバランスを取るための方便”みたいなかたちで声の中に意味や自分の知っている言葉を捉えようとするというのは、当然の帰結かもしれない。
ヴォイスをやっている最中にひとつ言葉を入れると、皆それに飛びつきます。ああ、自分の知っている世界があった!という安心。もしくは、この言葉が何かの鍵かもしれない!という期待。「考える」の基本は「言葉」だから、言葉をとりあげられると動揺するのよね。聖書の最初のセンテンスは確か「始めに言葉ありき」だったっけ。
言葉を使ってヴォイスパフォーマンスという人もいますね。言葉を逆手に取ればかなり効果的なことができる。言葉の繰り返しや音としての言葉を展開させるやり方もある。面白いと思うんだけど、私はひとつのパフォーマンスの中で、言葉を使うことと言葉を使わずにパフォーマンスするのをまぜこぜにやるのが苦手だった。このふたつは、脳の全然違う部分の活動じゃないかと思う。最近は焦点の合わせ方がクリアになったのか、わりと瞬間的に切り替えられるようになったけど。
だけど「非言語は成立するのか」って、成立してない? ホーメイだって言語としてとらえている人は少ないと思うし、特に特殊な声については声そのものの興味で聴いているんじゃないでしょうか。私自身、ヒトの声というより機械音みたいな声を出していることもけっこうある。観客がヴォイスパフォーマンスにも慣れてきているし、言葉を期待されるというエポックは通り過ぎたと思っていますが。
それにしても、トゥバでのシャーマン体験の話は笑えたー。いまバンド用の曲を準備してるから、これヒントにして1曲つくってもいいですか?タイトルは『穢れの数値』というんだけど。近代化したシャーマンということ自体すごい矛盾ですけど、シャーマンが、消滅するのでなく計量器(なに測ってるの、ほんとのとこ!?)引っさげてのしのしと現れてくるなんて感動的。たいへんたくましいね。いまだ何が起こっても不思議ではない時空を持った国なんでしょう。解き明かされていない”ホーメイの謎”にもいっそう興味がわきますね。
「ホーメイは風の模倣、ボルバンナディルは水の流れの模倣........」という部分で思い出したのですが、以前読んだ本に中国の唐か随の時代だったかに芸能としてモノマネがあって、でもそれは日本で言うところの人や動物の真似ではなくて、例えば「秋の庭」だの「嵐の夜」だの、風景描写のモノマネだったらしい。風の音や木のざわめきなんかを声帯模写で表現していたとか。それはそのうち廃れてしまったらしいけど(どうしても何の本に書いてあったか思い出せない。見つけたら報告します)。これって案外、トゥバのほうから流れてきた人たちが稼ぐために始めたんだったりしてね。長安などはとんでもない国際都市だったから。
天鼓×巻上公一 往復書簡「ヴォイスの挑戦」 vol.04
声そしてイメージ
ホーメイの故郷でもあるトゥバに行くと、ことあるごとにシャーマンが登場する。ホーメイがシャーマンと関係あるというより、土地そのものがシャーマンと結びついてるようだよ。
トゥバの知り合いの家に、はじめて面倒になった時、夕方、アタッシュケースを持った人がやってきた。何かのセールスマンなのかと思ったら、そのケースから取り出したのは。熊の手だった。ぼくや妻や友人はイスに座らされて、熊の手でなでられたり、鉄の計測器のようなものをあてられて、回転させたり、どうも魂の状態を見ているようだけど、妙だった。鉄の計測器がくるくると回ればオーケー、くすぶればイマイチ、という判断。判定は全員イマイチ。からだのそこかしこに息を吹きかける。「くわぁ」なんて声を出しての祈祷のようなもの。そして、もう一度診断。今度はくるくる回った。外から人が穢れを持ってくると思っているんだろうな。それからもう何人シャーマンに会ったかわからないくらい。いったい何人いるんだろう。
シャーマンでホーメイをする人もいる。日常の中にない声は確かに異界と繋がっていると思うけど、ホーメイの歌手がシャーマンであることは少ない。チベット仏教の聲明と関連付ける人もいるけど、ホーメイの起源は仏教が伝来するより前であるという、トゥバの学者の意見に賛同したい。それはホーメイの基本の技法からもみてとれる。
ホーメイは風の模倣、ボルバンナディルは水の流れの模倣、エゼンギレールは馬の鐙の音、カルグラはヤクの声、スグットは口笛の響き。これらはトゥバ人の生活に根ざした音色であるからだ。
「ホーメイがどうやっても美しい」というのは、あの口笛のような音は、口の中の共鳴で作り出す風の音のようなものなので、外れようがないということです。音痴ゼロという感じかな。古い楽器がひとつの調しか演奏できないのと似ている感じ。
天鼓が突然ピアノの話をしたけれど、現代のピアノは、すべての調がなんとなく折り合えるように音程を微細にずらして調整してあるのとは、対極にある。だからなかなかピアノとはマッチしないんだよね。弾き方や音の取り方で音色をうまい具合に合わせてもらえば、なんとかなるんだけど・・。あるいは、調律を演奏する調に合わせるという方法かな。そうするときれいな共鳴が得られる。
ホーメイはひとり合唱みたいなものだからね。合唱は、みんながそれぞれ平均律のピアノの音程に合わせたら濁ってしまうので、ひとりだけ合わせて、後は相対的に音程を取るでしょ。
楽器と声の違いは、やはり言語かなと思う。どんなに非言語的に発声したとしても、聞き手はどこかに言語のかけらを感じているのではないだろうか。それが英語であろうと、ギリシャ語であろうと、日本語であろうと、自分の耳にすり寄せて聞き取ってしまうに違いない。
シドニーで演奏した時、「ペニヨナラペー」だか「フンペコチン」だか忘れたけれど、何か突然オーストラリアの人たちの耳にぴたっとはまった音があったらしく、笑いが止まらないということあった。こちらが意識したわけではない。勝手に聞き取ってしまったのだ。そういう意味でも、声は音以上の意味を多くまとうことになる。
ヴォイスパフォーマンスにとって、言葉とは何か。非言語は成立するのか。これは考えなくてはならないね。
さて、どんなにがんばっても同じ声を出すことはできない、というけれど。楽器もぼくは同じことを感じていると思う。記憶できる電子楽器なら違うだろうけど、たいてい「どんなにがんばっても同じ音を出すことはできない」と思っている部分はあると思う。だから、管楽器は息のコントロール。弦楽器は指のコントロール。素晴らしい音を探求して、鍛練をする。声だって例外ではない。同じ声を出すためのコントロールがあると思う。理想の音があるように、理想の声があるはず。ただし、天鼓がいうように、有機体としての肉体はノイズに満ちている上に、フリーインプロだとさらに、油断すると音楽や表現から逸脱して「ただのヒト」になってしまう、というところはよくわかる。楽器だったら黙っていても音楽らしいたたずまいを保っていられるからね。
「ただのヒト」じゃないぞ! というオーラというか、イメージの持ち方というか。これはヴォイスパフォーマンスの根幹に関わるものだろうね。
そこでピアノ。
音楽だぞ! という時のピアノのあり方は、確かに凄い。大きいしね。まさに音楽の権威という感じだよね。それに比べて声のあやしげさといったら。
前に下北沢で、天鼓がピアノの前に座ってヴォイスパフォーマンスをしたよね。あれまったく弾かない演奏だけど、ピアノというイメージを使った作品だったね。
天鼓×巻上公一 往復書簡「ヴォイスの挑戦」 vol.03
即興のきわどさ、ヴォイスのあやうさ、ソロのおそろしさ
坂田明さんが巻上君とホーメイを結んだわけですか。きっかけやつながりって、面白いところから生まれますね。
ホーメイのこと、私が知りたかったことのひとつは、起源。どうしてあんな非日常的な声を出すに至ったかということ。
数回しか演奏を見たことがないけど、いつも想起されるのは「仮面」。日本の古来の祭事などで仮面が使われることがあるでしょう? ホーメイで歌うことによって、個としてのヒトから離れていくように感じられるのだけれども。そこからの疑問は、この世ではないどこかの次元との交信を試みているのか、もしくは、神のような存在へ近づくための声なのだろうか、あるいは、神自身の声としてのホーメイなのだろうかというようなこと。世界には、まだ少数ながら不思議な声を使って歌う人たち(民族)がいますよね。呪術としてだけではなく言葉や声そのものが、古代には(多分、中世くらいまで)力があった。声を道具化した今日では考えられないような力が。ホーメイなどもその名残のような気がしたものだから、巻上君の話を聞いてみたかったのです。
あと、ホーメイの「美しさ」ということを言っていましたが(「自然倍音によるメロディなので、どうやっても美しい」)それはどういうことなんでしょうか。小林秀雄じゃないけれども「どうやっても美しい」というのはとても奇妙な表現ですね。巻上君にとってホーメイの美しさとは何なのかもう少し説明してくれませんか。
さて、私がこのところ考えているのは、なぜヴォイスの即興は巻上君の言うところの「危険なもの」なのかということです。
ソロ演奏をするとしてステージに立ちます。そのとき、楽器を持っていると即興でもそれほど怖くない。声だけということでマイクの前に立つ緊張とは全然違います。観客としても楽器があれば視線や意識の方向に選択肢がある。ところが声だけとなると、そのヒトを見る(見なければならない)ことになる。どんな音も、呼吸やからだの動きも、意識のざわめきも、何から何まで隠しようがない。バンドでやったり、ほかの共演者がいるときはあまり感じませんが、ヴォイスソロの場合、私は自分が裸で立っているような気がすることがある。確かに、包み隠さず自分をさらけ出すというのは危険です。賢い動物ならそんなことは絶対にしない。でも即興でヴォイス、しかもソロとなると、そうならざるを得ない。
いつだか私のワークショップに来た人が「ステージに立って、5分も経たないうちに怖くなって降りてしまった」という話をしました。意を決しての告白、という感じで。30代終わりくらいの男の人。これはヒトゴトと笑えるようなものではなく、私もソロの場合、始める前に「逃げてしまいたい」という一瞬の恐怖にかられることなんて普通です。だけど、楽器の人はそこまでの恐怖感を持つことがあるんでしょうか。5分でやめて逃げ帰るなんてことがあるでしょうか【楽器と声の相違】。あるいは、クラシックの人がアカペラで歌うような場合に、そんな気持ちになるものでしょうか。少なくとも楽曲の場合は決まり事があるので、恐怖というより緊張というレベルなのでしょうか。つまり”即興演奏”というものが、そのようなきわどさを生むのでしょうか【即興と楽曲演奏の相違】。
楽器と声は違いますね。弾く、叩く、吹く。音が出るまでに何か(楽器)を介在するということは、相当意識的でなければ不可能だし、技術も必要になる。しかし、意識的であり技術が必要ということで言えば、譜面通りに歌うこともそうですね。これはつまり、楽曲の場合、ヒトがある意味で楽器化している状態であるとも言える。即興のヴォイスの場合を考えてみると、しばりがない分、”無意識”や”クセ”などが音としてどっと溢れてくる可能性がある。そのとき、声は音でなく「ヒト」に還ってしまう。楽器はある意味、御し易いように思えます。想定外のことは生まれてこないわけだから。
楽器と声は違う、再び。楽器は音を奏でるものとして作られ存在しているわけですが、声はそうじゃない。日常の中でも使われ、コンディションが常時変化している。歌手、声楽家と言われる人たちがなぜあんなにぴりぴりするかと言えば、常時変化するものである声を、同じコンディションに保つということに腐心するからですね。
どんなにがんばったところで、同じ声を出すことはできない。声はどこまでも有機的であやふやで再生不能です。だからこそ楽器が生まれてきたのでしょう。もちろん楽器も人が奏することを思えば、同じ演奏というのはありえないけれど、少なくとも声よりははるかに確かなものになりますね。
突然だけど、ピアノはすごい楽器です。メロディを奏でつつも打楽器であるというすごさは別にしても、ピアノの発明は、車やダイナマイトの発明などと並ぶほど飛び切りのものであろうと思えます。まれに調律師が仕事をしている現場に行き会うことがありますが、その繊細な仕事ぶりにうっとり見惚れてしまいます。調律があれほどシビアにできるということは、音の盤石な基盤が成立しているということ。いや反対か。音の基盤として、シビアな調律がなされなければならない。そして、ピアノにはそれが可能ということ。恐らく、ピアノの出現によって(西洋)音楽は世界制覇の”音楽”となった。
再生可能ということが最優先された場合、声は不利ですよね。有機体としての肉体はノイズに満ちている。だから、歌をうたうということは抑制と制御で成り立っている。ではフリーインプロの場合はその逆なのかというとそうではなくて、歌をうたうよりもさらに抑制と制御が要求される。抑制と制御を失った瞬間に、音楽や表現から離脱して”ただのヒト”になってしまうから。それが即興ヴォイスの最も危険なところではないかしら。
【リリース情報】
天鼓『energeia』(エネルゲイア) Shoh 201
7月6日全国発売(タワーレコードなど・アマゾンでも入手可)
これは音楽か? 水玉消防団、ハネムーンズ、ドラゴン・ブルーなどのバンド活動から、即興のヴォイス・パフォーマーとしてヨーロッパやアメリカの数多くのフェスに招聘されている天鼓による、初のヴォイスソロCD。80年代から今日まで、アバンギャルドな姿勢を崩すことなく挑戦を続ける”ヴォイス”のパイオニアが放つ、ワントラック48分14秒の衝撃。おそらくこれは耳からの映像。1本の声が綴る新しいカタチの映画かもしれない。
天鼓×巻上公一 往復書簡「ヴォイスの挑戦」 vol.02
口腔に風が吹き、川が流れ、馬が走り、歌が響く。
さて、どう返事を書こうかな。
とりあえず、NEO-VOICEお疲れさま。
凄かった。いろんな意味で。
無謀ともいえる企画、参加してくれたパフォーマーに感謝。
たったひとりでのヴォイス。無伴奏な裸の声が劇場に響くことの素晴らしさは、綱渡りのようでもあり、瞬時のバランス力が必要だったと思う。
ではそのバランスとは何か。これはひとことでは、言えないが、人間が舞台に登場する時に総合的に働く力が関係していると思う。
声そのものをどのように探求して行くのか。意識の流れのような即興の時間に身を置くのか。観客には些細な心の動きも察知されてしまうような環境である故、すべてが武器になると同時に、すべてが危うさの中にある。
よって表現者としては、この上もない魅力のスタイルであると言える。危険好きって言うのかな、物好きとも言うかもしれないが、はまるとやめられなくなる。正解も不正解もあるようでないのが舞台なので、そこはもう感覚を駆使して自分でなにからなにまで決めなきゃならない。そして、決めても何かが出来るかというと、そう簡単にできない。
なんだかややこしいこと言ってるようだけど、簡単に立つということだけでも、地球が生まれて、人間が誕生し、進化があって、重力が存在してと・・説明したら長くなるという道理である。
ともあれ、この危険さを知っている者だけが、真のヴォイスパフォーマーになれるとも考える。
それで、ぼくがなんでホーメイに興味を持ったのかだけど、たまたまとしか言い様がない。はじまりは、20年前に坂田明さんがモンゴルでホーミーの達人に会いに行くテレビドキュメンタリーがあって、それを観た次の日にピットインの楽屋で、坂田さんが、「おまえみたいな奴はホーミーをやるといいよ」なんて言うもんだから、単純に真に受けて、「やりますやります」なんて。
「で、どうやるんですか?」って訊くと、
「俺はあまりうまくないけど」と前置きし、舌をれろれろれろしながら唸り声をだした。
「こうですか?」とぼくもれろれろれろ。
「そうそう、できるじゃないか。それだよ」って。
まあ、全然できてなかったんだけど・・・。
それからだいぶたって1994年に、アートキャンプ白州でボイスサーカスというグループで参加した時、トゥバ共和国からホーメイの達人ゲナディ・トゥマットとバレリー・モングーシュ、オトクン・ドスタイが来ていた。なにしろ宿泊先も同じで、隣の部屋のホーメイの音色で目が覚めるという贅沢な経験。ワークショップも栗林の中でしてもらい、彼らがどんなふうにこの特別な声のことを考えているのか、おぼろげながらわかってきた。彼らはホーメイを歌の中にとても自然に取り込んでいて、民族と自然の贈り物のように思っているんだよね。つまり口そして喉の奥で起こる自然現象そのものなんだ。口腔に風が吹き、川が流れ、馬が走り、歌が響く。
ホーメイはひじょうに難易度の高い歌唱法なので、たいていの人はあきらめてしまうけど、彼らの顔はまさにアジアの顔で、日本人とほとんど同じといっていいわけでしょ。顔が似ていれば似た声がでると思っているので、やる気になったんだろうな。
でもね。ヴォイスパフォーマンスにホーメイを取り入れるのは、至難の業だね。喉はとてもデリケートなところがあって、過酷につかったり、がんばったりすると、喉はかたくなる。かたくなるとホーメイはとてもむずかしい。上音部の音程のコントロールがうまくいかないので、メロディが紡げなくなってしまう。それに自然倍音によるメロディなので、どうやっても美しいわけで、表現はおのずと限定される。
ところで、ぼくが天鼓とはじめて共演したのはいつなんだろ。水玉消防団? ハネムーンズ?
もっと後だったのかな。
デビッド・モスと六本木で演奏したのはいつだったろうか?
天鼓が、欧米に行き、ヴォイスをはじめた最初の頃をもっと知りたいな。
【プロフィール】
巻上公一(MAKIGAMI Koichi)
1956年 静岡県熱海市生まれ、在住。 ヒカシューのリーダーとして1978年から現在に至るまで作詩作曲はもちろん 声の音響やテルミン、口琴(こうきん)を使ったソロワークやコラボレーションを国内外で精力的に行っている。声の音響による即興は、立体派、ダダ、フリーの系譜を継ぐ宇宙派を標榜。スキャット、オノマトペ、楽器の模倣を越えた、抽象的なアバンギャルドを貫いている。 またトゥバ共和国の喉歌ホーメイは日本の第一人者として多くの歌手を育てているばかりでなく、1997年から毎年トゥバやアルタイから名歌手を招聘、国際交流を組織し、日本トゥバホーメイ協会の代表を務めている。歌らしい歌から歌にもならないものまで歌う。自在な歌唱力には定評がある。また、それらの音楽要素を駆使する演劇パフォーマンスのクリエーターとしても活躍している。最近はいくつかのシアターピース(代表は宇宙語「チャクルパ」シリーズ)にも着手している。また、世界のさまざまフェスティバルに招聘されている。
http://www.makigami.com/
【ライヴ情報】
6月8日(火)
humcrush JAPAN TOUR in Maebashi
開場;19:00 開演;19:30
会場 シネマまえばし / シアター0
入場料 前売り;2.000円 当日;3.000円
Humcrush Thomas Stronen (ドラム・エレクトロニクス) / Stale Storlokken
(キーボード)
特別ゲスト 巻上公一(ヒカシュー / ヴォイス)
シネマまえばし
〒371-0023 群馬県前橋市千代田町5丁目1番1 前橋プラザ元気21・別館3F
tel. 027-231-8000 fax. 027-231-8006
6月10日(木)
humcrush JAPAN TOUR in TOKYO
OPEN PM6:30 START PM7:00
前売2500円(w/1d) 当日3000円(w/1d)
六本木スーパーデラックス
Humcrush
Thomas Stronen(drums,electronics)とStale Storlokken(synthesizer)、
巻上公一、FANTASTIC EXPLOSION、yudayajazz、CARRE
6月11日(金)
大阪 nu-things
Humcrush
Thomas Stronen(drums,electronics)とStale Storlokken(synthesizer)
巻上公一(voice,theremin)
開場 18:30 開演 19:30
予約4000円 +drink 当日 4500円 +drink
nu things
大阪市中央区西心斎橋2-18-18 TOPORO 51 - B1
電話 予約06-6211-8711
メール rollcall@i.softbank.jp
6月13日(日) 湯河原現代音楽祭2010
特集 voice & electronics
Humcrush
Thomas Stronen(drums,electronics)とStale Storlokken(piano,synthesizer)
Jim O'Rourke(serge synthesizer),モリイクエ(electronics) ,巻上公一(voice,theremin)
曲目 ロバート・アシュリー、ジョン・ケージほか
午後3時開演 午後6時終演
問い合わせ 前売り 巻上公一オフィス
前売り 4000円 学生 2500円
当日 4500円 学生 3000円
主催 湯河原現代音楽フェスティバル実行委員会(実行委員長 巻上公一)
企画 巻上公一オフィス TEL:0465-63-0578 FAX:0465-62-0427
チケット取り扱い 文昭堂 eplusほか


