critique / 音楽批評
2010.09.03

北里義之「現代即興論 ~20世紀末に即興演奏のパラダイムシフトは存在したのか〜」 vol.11

第一章:触覚 第三節:声の現象学(2)

 そこで思い当たったのが、私たちが音楽を聴くときには、ある程度響きから離れた距離を必要とするという、あまりにも自明のことだった。これもまた馬鹿みたいな指摘に思えるだろうが、おそらくは誰にでも直感的に理解できる話ではないかと思う。あらためて言うまでもなく、通常の音楽は公的空間において聴かれるように演奏され、公的空間を創出するものとして聴かれる。すでに自己触発のところで触れたように、これとは対照的に、レコードという記録メディアは、20世紀の音楽聴取において、近代読者の成立と深くかかわる黙読のような個人的領域と内面、あるいはパーソナルな鑑賞を可能にする音響空間を創出してきた。思い切って単純化すれば、そのようにして組み換えられた私たちの感覚にあって、生演奏はパーソナルな結界を解くように働き、レコード演奏はパーソナルな結界を張るように働くといっても間違いではないだろう。一晩のライヴ演奏が、たとえどんなに観客数を集められなくても、こうした感覚のアレンジメントそのものは変わらない。つまり、私たちは現在でも、(そのようなものが一般的かどうか保証のかぎりではないにしても)家族コンサートというようなもの以外、パーソナルな空間を創出する生演奏といったものをイメージできないはずなのである。それはたぶん言辞矛盾なのだ。
 ここに私たちにとって声がいったいどのようなサウンドであるのか、あるいは、「ヴォイス・パフォーマンスを音楽と考えるから理解できなくなる」という主張の意味が那辺にあるのかを、想像することができるのではないだろうか。声というのは、他人と共有することのできる歌とともにあったり、器楽演奏とともに(楽器のひとつとして)あったりすることがないならば、つねにすでに私たちの身近にあって、生身の身体に、あるいは皮膚に、直接触れるように働きかけてくるものとして聴かれるサウンドなのである。というのも、私たちの身体は声をそのようなものとして受けとめるよう、赤ん坊のころから教育されてきたからだ。それは言ってみるなら、レコード・メディアによって形成された20世紀的な公/私の聴取圏をふたつならがらに通り抜けてしまうような──あるいは廃棄してしまうような──サウンドだといえるだろう。スタジアムのような大空間で演説するヒトラーのような独裁者の声もまた、音響システムによってひとたび聴き手に届けられるならば、たとえ総統の姿がはるかかなたの点にしか見えないような遠方からでも、聴き手の生身の身体に、あるいは皮膚に、直接触れるように感じとられるのである。音楽であるためには、声はあまりにも身近すぎるというわけである。受け手に拒否をする余裕さえ与えないその絶対的近接性が、親密圏を形作るだけでなく、ときには反対に人々を嫌悪させたり、恐怖させたりする。
 以上のような分析を前提にして、あらためて<Festival Neo Voice #1>の初日(2010年3月29日)に出演した即興ヴォイスの単独者たち──出演順に、吉田アミ、蜂谷真紀、灰野敬二、さがゆき、巻上公一、天鼓──を見てみることにしよう。個々の演奏家についていちいち触れることはしない。言葉が使われていなくても、口腔によって作ることのできるサウンド断片を、言葉に代わるフレーズとしてコラージュしたり、ひとつの声を多声的に扱ったり、あるいは(あたかも音楽公演をするように、あたかもおしゃべりをするように)公的な場で声をパフォーマンスするスタイルを採用して、観客との間に距離を作りながら演奏する声使いたち。そのなかにあって、トリを務めた天鼓だけは、例外的に、身体に根を生やした声を持ち運んでいたように思われる。もちろん身体を意識しない声使いなどひとりもいない。ただ彼女の場合、即興演奏という行為は、声が言葉を失い、言葉に代わるものも失い、声がそのまま剥き出しの皮膚になるようなところから出発することを意味していたように思われる。天鼓が声を発しながら歩きまわるステージが、水を張った池の面のように感じられるということは、彼女のパフォーマンスにおいて、痛みであるとか、震えであるとかいう感覚を、観客にダイレクトなものとして想像させる、皮膚的なるものの出現を証していた。言語的なるものを踏み外して。
 さらに吉田アミの声もまた、他の演奏家とは違う、特異なあらわれかたをしていた。というのも、吉田アミがしていたことは、彼女の喉を通り抜けるものを即興的に再構成していくといった器楽演奏的なものではなく、できるだけマイクに口を近づけ、かすかなかすれ声として発せられる “あの声” ──彼女自身が「ハウリング・ヴォイス」と呼ぶ即物的なサウンド──に触れることで、ちょうど Sachiko M がそうしたように、はじめて触れるべき自己を発見するという自己触発の行為になっているからである。その声は、観客の誰にもむかってはいないのだが、そうであるがゆえになおいっそう、絶対的近接性を持った声として、客席にいる人々に、ある強烈な感情を──喜怒哀楽の感情を一色に煮つめたような原初的な感情を──感じさせるのではないだろうか。しかし吉田アミは、新世代のパフォーマーとして例外的な存在かというと、決してそうではないように思われる。彼女のような声をもつ表現者たちが、すでに他にも登場している。例えば、“非常階段” のヴォーカリストとして長い活動歴を持つ JUNKO とか、杉本拓と “さりとて” を結成している佳村萠などは、音楽性の違いを越えて、実は吉田アミととても近いところにいる声使いではないだろうか。
2010.08.31

北里義之「現代即興論 ~20世紀末に即興演奏のパラダイムシフトは存在したのか〜」 vol.10

第一章:触覚 第三節:声の現象学(1)

 皮膚に触れるほどの近さにあるもの、触覚を働かせることが響きを聴くことにつながる音への触れかたというものがあるということを、私はこれまで、楽音/雑音(ノイズ)の二項対立をはみだす響きである「声」の存在様式を分析することによって考えようとしてきた。触覚をテーマにしている本章の最終節で、そのことを響きを受けとるための絶対的距離の問題としてとらえなおし、もう少し考えを先に進められたらと思う。誰もがふだんは意識していないことなので、いざ言葉で説明しようとすると、どうしてもまわりくどい表現になってしまうが、ここでしようとしていることは、私たちが意味や認識によって──すなわち音楽理論や音楽批評のような言語的なるものによって──サウンドを理解したり鑑賞したりする次元から、響きを皮膚感覚によって受けとめている次元に視点をずらすという、ごくシンプルな作業に他ならない(※)。今年の三月に開催された記念すべき日本初の声の音楽祭<Festival Neo Voice #1>に関連して、主催者の天鼓や巻上公一とおこなったフォーラムの直後、彼らが「即興ヴォイスを音楽と思うからわからなくなる」と述べた主張を、私なりに「声と恋人距離」の問題として考えたことがある。そこからはじめることにしたい。
 あまりにもあたりまえすぎてかえってとらえにくいという声の原初性を理解するのに、音楽や言葉、歌やメッセージといった制度的なるものを学習する以前にある赤ん坊の声を引きあいに出して語ることは、理論というようなものではなく、人の経験に訴えるごく一般的な説明方法である。たしかに一般的ではあるのだけれど、「宇宙語」と呼ばれる巻上公一の即興ヴォイスが、どうして幼児語に聴こえるのかという年来の疑問が、そんなところから納得されたりもする。成長の過程で、私たちは自分の産声をすっかり忘れてしまうが、それでも記憶のどこかになにかがひっかかっているのだろう、歌ともメッセージともいえない声のありようを開いてみせる即興ヴォイス、あるいはヴォイス・パフォーマンスに触れることで、かつて世界にあるために自分が発し、自分にふりかかっていた声という響きの原初性に立ちあっていたときの記憶が、瞬間的に舞い戻ってくるのではないかと思われる。すべての声は、即興ヴォイスのみならず、日常的なメッセージのやりとりをしている瞬間にも、その声を発した人の記憶の古層、あるいはその声を受けた人の記憶の古層に働きかけながら聴きとられているはずだ。言った覚えのない言外の意味が伝わり、顔つきから、目配せから、隠すつもりもない隠しごとが漏れ出てしまう。人の複雑さとは、つきあいの長さより、そんなささいなところから瞬間瞬間に感じとられるようなものではないかと思う。
 声が音楽以前であり以後であるということ、言葉以前であり以後であるということを、一般的に説明するための手段がもうひとつある。それをここでは恋人距離といっておこう。<Festival Neo Voice #1>とは別に、巻上公一が関わったもうひとつの市民音楽祭<JAZZ ART せんがわ>のユニークな宣伝方法のひとつに、仙川の街のいたるところに出現する<CLUB JAZZ 屏風>なるものがあった。巻上の発案になるこの<CLUB JAZZ 屏風>は、屏風に見立てた板で囲った畳一条ほどの移動小部屋を、駅前や街頭などに置き、そのなかに数人のミュージシャンと観客が入って演奏を聴くというもので、異様ともいえる箱のなかでのライヴ演奏は、音楽祭が小規模のローカルなイヴェントであることを象徴させたものということだった。屏風に邪魔されてなかの様子が見えないため、街ゆく人はそこでいったいなにが起こっているのか想像がつかず、好奇心をそそられるというしくみだ。しかしながら、スーパー前の広場などで、箱を開いて集まった観客に演奏を見せる小ステージになっていたところをみると、実際には、ハーレムの夏の風物詩であるジャズ・モービルのような移動ステージとしても使われていたようだ。
 相手の身体に触れてしまうような至近距離であるにもかかわらず、小さい音しか出ない楽器だけでなく、サックスの坂田明なども、<CLUB JAZZ 屏風>のなかで演奏したそうである。この箱のなかの音楽という、ありえないものどうしを結びつける話を聞いて思ったのは、もしかすると恋人距離と音楽というのは、もともとあいいれないものではないか?ということであった。恋人距離というのは、私が仮にそう呼んだもので、人が自分の周囲に張りめぐらしている社会的テリトリーのうち、“肌を許す” 恋人しか入れないような最も狭いサークルのことをいったものである。他者との絶対的近接性ともいいかえられるだろうか。普通なら、この距離で聴かれる音楽は、恋人のささやきとか、母親の子守唄といったようなものしかないはずである。つまり、恋人距離には声しか入ることができないということである。


※写真家・評論家の港千尋が、カフカの『流刑地にて』に登場する有名な処刑機械を論じた以下のテクスト参照。「流刑地の囚人が、その物語を皮膚において理解することは、いくら強調しても足りないくらい重要である。情報は、感覚器官から脳に伝えられるのではなく、皮膚という表面において理解される。[囚人の皮膚に文字を刻みこむ処刑機械のペン先にあたる]まぐわの下の裸体は、まさしく脳のひろがりとしての皮膚であり、それは深さを持たない。カフカの処刑機械のなかで、すでに囚人は解剖学的身体から位相学的身体へと変換させられているのである。」(港千尋『考える皮膚──触覚文化論』青土社、1993年8月、47頁)
2010.08.26

北里義之「現代即興論 ~20世紀末に即興演奏のパラダイムシフトは存在したのか〜」 vol.09

第一章:触覚 第二節:皮膚に触れる(3)

 ほんの数例を示しただけであるが、自己触発と皮膚の関係、あるいは皮膚が聴き手の耳と結ぶ関係などをみていっただけでも、そこには一律に考えることのできない多様なありかたが見てとれるだろう。Sachiko M が杉本拓のように、自己触発に遅延する自己触発といったしかけを工夫することは考えられないし、大友良英が mori-shige のような「エロスとヴァイオレンス」(※)に走ることも考えられない。すなわち、触覚を働かせるところから生まれる皮膚的な響きの存在には、この皮膚をあの皮膚と交換するというような、フレーズを単位とする即興演奏にみられる互換性はないように思われる。たとえばモダンジャズのように、ソロ・オーダーによって順序よくアドリブをつないでいくといったような共演も、フリー・インプロヴィゼーションによる即興セッションの共演も、ここでは考えられない。それではたぶん、皮膚のような面や皮膜の存在によって働きはじめる触覚が、そのような演奏においては前面化しなくなってしまうからではないかと思われる。他流試合のような共演がおこなわれる場合、彼らは伝統的なアンサンブルのスタイルを採用することになる。
 ここがパラダイムシフトの存在を判断する重要なポイントのひとつで、演奏における触覚の優位性や皮膚の出現といったものは、たしかにそれ自体としては新たなものと評価できるのだが、Sachiko M や、外部入力をしないミキシングボードを使用する中村としまるのように、音響機器そのものが演奏の性格を決定している演奏家を数少ない例外として、ミュージシャンが活動の多様性を求めて演奏方法を変えていけば、容易に消失してしまうフラジャイルな響きのあらわれなのである。伝統楽器にとっては、もしかしたら数多ある演奏方法のひとつに過ぎないのではないかという疑問は容易に生じてくる。事実、出来事をそのようにとらえ、触覚的な演奏を、自己触発の有無にかかわりなく、演奏をさらに豊かなものにする即興語法の拡大として理解し、そのかぎりで受容するとした演奏家も多いだろう。多形式をその特徴とするポストモダンのただなかで、世界同時多発的にはじまった新たな即興演奏の試みは、まさに大友良英が Sachiko M を評した言葉──「はっきりとなにか独特の意志だけはあるあの感じ」(※※)──によって支えられたのである。すなわち、ポストモダンの多形式であるとか、即興演奏の現状に対する批判的意志があるところでなければ、もともと存在しえないものなのである。それというのも、Sachiko M や中村としまるがしたことというのは、たくさんの料理をテーブルにならべられ、さあ、どれでも好きなものを食べていいんだよと言われたときに、ぜんぶいらないといって、自分の箸をかじりだしたようなものだからである。それはテーブルをひっくり返すことに等しい。
 触覚的演奏どうしのアンサンブルということでは、二台のギターを使った大友のフィードバック・ソロのように、二枚の皮膚が触れあうような、あるいは二枚の皮膚を重ねあわせるような演奏は、現在のところ、実験的にしかおこなわれていない。あるいはミュージシャンの組みあわせが功を奏して、偶然のように生まれるだけである。新たに開けたこの感覚の側面を追究するインプロヴァイザーにとっては、それはいまもって即興演奏に残された大きな課題のひとつとなっている。そのひとつふたつを、次節「声の現象学」で取りあげることにしたい。
 もうひとつ、議論を進めるにあたって配慮すべきは、パラダイムシフトの問題を日本特殊論にすりかえないことだ。Sachiko M や吉田アミのように、論理の梯子を使うことなく、自己触発に結びつくサウンドにたどりつくことのできるミュージシャンの存在、また音を制限的に使用するマルファッティ以下の作品を出版してきたオーストリアのヴァンデルヴァイザー楽派と、これまで交流を重ねてきた杉本拓らの間にある彼我の演奏性の相違(どちらが本物かという正統性の問題ではなく、ラク・スギファッティによる “サイレンスの音楽” は、ふたりの差異を無視しうるような単色のものではないというような意味である)、さらにはミッシェル・ドネダやジョン・ブッチャーといった、サウンドをミニマルにあつかう現代のインプロヴァイザーたちと日本人プレイヤーの間にある感覚──やはり特に触覚ということになるだろう──の相違を指摘することなどが、しばしば海外で禅の境地をひきあいに出して語られるような日本特殊論に結びつきがちなことに注意することである。すなわち、西欧的なオリエンタリズムを内面化しないこと。即興演奏における自己触発と皮膚の存在は、果たして日本の演奏家だけに特徴的なものなのか? もしそうだとするなら、日本の音響と音響的即興── Sound Improvisation を翻訳したもので、同時多発的に起こってきた海外の演奏傾向を総称するもの──の間にどんな本質的な相違が横たわっているのか? といった重要なテーマを、あくまでも即興演奏のパラダイムシフトというテーマの延長線上で議論するということが重要である。


※シンガーソングライター時代の mori-shige がテーマにしていた歌の内容を一言でいったもの。演奏の底に一貫して流れる資質的なものとして、あえてこの常套句を使用した。演奏の激しさでは、現在のほうが数段まさっているとのこと。

※※佐々木敦『テクノイズ・マテリアリズム』(青土社、2001年12月、141頁)所収のフィラメント論における大友良英の言葉。

2010.08.24

北里義之「現代即興論 ~20世紀末に即興演奏のパラダイムシフトは存在したのか〜」 vol.08

第一章:触覚 第二節:皮膚に触れる(2)

 聴き手は Sachiko M のサイン波の響きに、まるで誰かの皮膚に触れるようにして触れると書いたが、それというのも、Sachiko M のサイン波は、その演奏の触覚性によって、ラインのような抽象的な図形を描き出すというより、むしろ皮膚的なるものを強く喚起させるからである。しかしながら、一口に皮膚といってもそこにはさまざまなものがあり、彼女のサイン波がもつ皮膚は、水滴をはじき返すような強度を備えたみずみずしいものであり、バリアーのように彼女の周囲に張りめぐらされて、容易に他人の侵入を許さないものとしてある。まるでサイン波で結界を張っているかのようなのである。こうした純粋なる皮膚のなかに聴き手を巻きこむため、Sachiko M のとっている手法が、パンポットでサイン波を音場の左右にふってみたり、スイッチにリズミカルに触れる指によって、サイン波を、細かく、不均等に切断したりする行為ではないかと思われる。それはたとえてみるなら、皮膚のしなりであり、傷口の裂開であり、痙攣のようなものといえるだろう。彼女の演奏のなかにそうした部分があることで、聴き手の耳は、結界のようなサイン波にはじかれながらも、しばらくの時間そこにとどまっていることができるようになる。
 フィラメントの盟友である大友良英の演奏にも、たとえば、フィードバックする電気回路を使った二台のギター・ソロにおいて、二枚の皮膚が出現する。二枚の皮膚は、Sachiko M のサイン波がもつ皮膚とは性質を異にするもので、大友がギターのピックアップ上に置く小道具によっておこなうフレッド・フリス風のプリペアドな演奏によって、つねに新たなノイズ成分が加えられ、次々に色を変化させていくような、あるいは皮膚の温度が少しずつ上昇/下降していくようなものとなっている。すでに述べたように、この皮膚は、大友の自己触発から生じたものではなく、あくまでも二台のギターがそれぞれの楽器のボディに触れることで生まれた二枚の皮膚である。聴き手の耳が巻きこまれていくのは、この二枚の皮膚が触れあい、もつれあいながら、あたかも感情が激していくかのようにサウンドが増殖をはじめ、やがて耳を聾するような大轟音になっていきながら、なおも存在をつづけている(はずの)二枚の皮膚の間にである。ダイアローグにならないダイアローグを構築するこのパフォーマンスでは、二枚の皮膚が偶然に触れあい、相互に触発しあっていく過程が、演奏としてさしだされるからである。
 あるいはチェロ奏者の mori-shige が、楽器を弾くというより、むしろ弦に弓をあてるだけにして、あるいは弦だけでなく、ブリッジやテールピースやエンドピンにまで弓をはわせながら、いわば楽器の全身をなでまわすように演奏していくところから、皮膚的なものが生まれてくる。mori-shige のソロ・インプロヴィゼーション集『fukashigi』(2009年)に収録された演奏は、例えば、ポールヴェクセル Polwechsel の活動で知られるウィーンのコントラバス奏者ヴェルナー・ダーフェルデッカーが、楽器の一音を延々と弾きつづけるリダクションの演奏とはまったく違って、触覚そのものが強い情動をともなってたちあらわれるものであり、実験音楽的というよりは、むしろ素朴なまでにダイレクトな自己触発にむかったものといえるだろう。そこに形作られる深い官能性を帯びたサウンドの皮膚は、ときに酷薄なまでに執拗な弓の攻撃にこたえなくてはならない。聴き手の耳は、弓が触れていく場所を追いかけて移動をつづけ、皮膚の湾曲面を動きまわり、やがてこれ以上なく深い襞の内側にまで導き入れられる。しかしながら、すべてはなおも一枚の皮膚のうえにあり──というのも、襞もまた一枚の皮膚の褶曲したものだからである──ただ情動の深浅が、皮膚の表面と深みをさぐりあてていく。mori-shige において、触覚の働きはひとつの凝視のようなものであり、響きはその強力な視線で混沌の手前ぎりぎりまで追いつめられることになる。
 あるいはまた、トロンボーン奏者ラドゥ・マルファッティとのデュオ “ラク・スギファッティ” で、演奏中ほとんど無音であったため、(音楽的な問題を投げかけたというより)物議を醸すことになったギタリストの杉本拓。その杉本のソロ公演のうち、ビルの七階にあって井の頭公園が一望できる極小スペースで、暴風が背後の窓ガラスにたえず激しくぶつかるような嵐の日、じっと身動きもせずに同じ姿勢を保ちながら、やはりほとんど演奏らしき演奏をすることもなく、手にした e-bow を、アンプにつながっていないギターの弦に、静かに近づけたり遠ざけたりすることで、いまとなっては幻聴だったとしか思えないような、あるかなしかの、ほんのかすかな響きをくゆらせてみせる不思議なライヴを聴いたことがある(※)。これは録音が環境的という点で似たようなものだろうとたかをくくっていた『Live in Australia』(2003年9月録音)を聴くのと、まるで別種の経験だった。このライヴについての詳細な議論は、第四章「環境」にゆずりたいと思うが、重要なのは、ここにも e-bow による皮膚的なサウンドが出現していたことである。これは少し前に杉本が多用していたフィードバック奏法の演奏性と、まるで違うなにかだった。もちろんそれが皮膚的なものを喚起する自己触発であることは、ここまで事態を検討してきた私たちには、よく理解できるのではないだろうか。ただその自己触発に、杉本はダイレクトにむかわない。自分で自分に何重にも障壁をもうけるのである。彼がそこで招き入れているのは、むしろ皮膚への触れがたさという事態なのである。杉本拓の音楽における、この自己触発に遅延する自己触発の選択という複雑なしかけを、私たちはどう理解したらいいのだろうか。


※2009年3月22日(日)。東京/吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」。第四回<フリー・インプロヴィゼーション、もうひとつの展望>公演に出演したときのソロ演奏。

2010.08.19

北里義之「現代即興論 ~20世紀末に即興演奏のパラダイムシフトは存在したのか〜」 vol.07

第一章:触覚 第二節:皮膚に触れる(1)

 Sachiko M の演奏は、一般に思われているように電子的で、コンセプチュアルで、アブストラクトなものではなく、触覚的であるがゆえの身体的強度を備えたものなのだが、CDを聴いていただけでは、そのあたりの音のあつみだとか、フラジャイルなゆれなどを聴きとるのはむずかしいかもしれない。聴き手が五感を働かせ、結果的にでも新しい感覚のアレンジメントがもたらされるには、ライヴという演奏現場のほうが有利なように思われる。それはおそらく触覚の働きが、触れようとする対象との絶対的な近さにおいて出現するからだろう。もちろんオーディオ装置は、ジャズ喫茶のような場所で聴かれる場合でも、つねにパーソナルな空間を囲いこむ装置として機能するので、そこで生々しい触覚的なサウンドが体験されれば、聴き手はそれらの響きを自分の耳や肌に触れるものとして感じることになる。それだけでなく、聴取環境のパーソナル性が、触覚経験に固有の情感を付与することになるだろう。暗闇で肌を求めあうように、視覚を奪われた触覚は隠微でさえある。考えてみれば、オーディオ装置の発展、レコード聴取の積み重ねそのものが、20世紀に起こった私たちの感覚の再編成だった。それはここで議論している即興のパラダイムシフトより、はるかに規模の大きいものだったはずである。それだけではない。その都度ただ一度きりしか起こらないと思われている即興演奏ですら、おそらく複製技術が可能にした演奏の反復聴取なくしては、ひとつのジャンルとして成立することなどありえなかったに違いない。
 それにもかかわらず、私たちが注意すべきは、オーディオ装置によってもたらされるパーソナルな触覚経験は、ちょうど Sachiko M とサイン波の関係のように、音響機器を介して聴き手が自己触発するところに発生するものだということであろう。もしそうでないとするなら、視覚を奪われた暗闇で、私たちはいったいなにに触れているというのだろうか? もちろんライヴ演奏の現場にも音響装置がある。完全アコースティックの極小スペースでもなければ、中規模程度のハコでは、ほぼ例外なく音響装置を前提にした演奏がおこなわれる。ましてや Sachiko M の演奏は、サイン波はもとより、コンタクトマイクと指先の接触音をアンプ増幅して聴かせるものだったりするので、音響装置なくしては成立しないものである。それにもかかわらず、ライヴ演奏の場で私たちが聴くのは、Sachiko M が自己触発して出すサウンド以外のなにものでもない。聴き手は Sachiko M が自己触発するサイン波の響きに、まるで誰かの皮膚に触れるようにして触れるのである。Sachiko M の演奏を “聴く” とはそのようなことだ。このような違いは、おそらく音響機器の存在そのものではなく、それが置かれる環境の特性によって発生するのだろう。すなわち、ライヴでは視界も開けるからという単純な理由ではなく、実際にそこに居あわす演奏者の存在や他の観客の存在が、(あえていうならば)すでに囲いこまれたパーソナルな音楽鑑賞の結界を解き放つことになるからだと思われる。
 いずれにせよ、当然のことながら、どちらのケースにおいても、触れようとする対象との絶対的な近さにおいて触覚が出現する点に変わりはない。たとえば、子守唄のようなものは、母親が赤ん坊をあやすような伝統的な場面における、絶対的な距離の近さから生まれてきたもの──第三節では、これを唄ということではなく、声のやってくる根源的な場所の問題として考えたいと思う。即興ヴォイスが音楽以前のもの、あるいは音楽未満のものであると同時に、聴き手が適切な距離を確保することのできない、つねに揺れ動きつつある特殊なサウンドだということが議論されるだろう──であるが、私たちが知っている音楽評論は、こうした絶対的な近さにあるサウンドをこれまであつかってこなかっただけではなく、それとして記述する方法も知らないし、そもそもあまり重要には思っていないのではないかと思われる。もしかしてそれは、20世紀における日本人の音楽経験が、ロックであれジャズであれ、もの珍しい欧米の文物に触れる異文化体験とセットになっていたせいかもしれない。現代の音楽経験では、遠方からやってくる非日常の響きにではなく、そのようにして絶対的な近さから出現する日常的な響きにむしろリアリティーが感じられている。というのも、そのような響きこそが、私たちの耳を支えている感覚のアレンジメントを、大きく組み換えるものだからである。即興演奏の領域でも、触覚と深くかかわる皮膚的なるものの出現によって、私たちはその存在をさまざまに感じとっている。電気的な振動によって接近した弦を共振させ、薄い皮膜のようなサウンドを生みだす e-bow という音響機器などは、そうした時代のリアルが生んだ現代的グッズといえるだろう。そのような薄い皮膜こそが、存在のへりを確かめようとするような触覚の欲望を、激しくかきたてるのある。皮膚を求める指や唇のように。
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