column / コラム
2010.08.31

林 建紀のハーレム五十七士 vol.50

モダン・ジャズ|イースト・コースト・ジャズ    ミルト・ヒントン:Milt Hinton(b)当時48歳

 ミルト・ヒントンの活動歴は70年に及ぶ。超える者がいるのか即座に思い当たらない。しかも、何十年も活動していないのに女優を名乗り続ける某国の老嬢たちとちがって生涯現役を貫いた。その活動がスウィング期で終わっていたとしてもジャズ・ベース史に名を残す大物だが、モダン期に参加した夥しい録音を通じて一般のファンにも知られている。モダン派への転身に成功したことを含めて、この世代には希なことだ。手持ちのイースト・コースト・ジャズや中間派の諸作を手にとれば、多かれ少なかれその名を見出せるだろう。またハンク・ジョーンズ(p)、バリー・ガルブレイス(g)、オシー・ジョンソン(ds)と組んだクァルテットは「ザ・リズム・セクション」の名を欲しいままにした。それ以上に、新しいファンに存在を知らしめたのはブランフォード・マルサリス(ts)のピアノレス・トリオ作『トリオ・ジーピー』(1988年1月/コロンビア)だろう。77歳ものオールド・ベースマンが見せたフレキシビリティと豪腕には多くのファンが感嘆したにちがいない。一般のファンがヒントンに抱くイメージは同作で形成されたと言っていいのではないか。

 1910年6月23日、ミルトン・ジョン・ヒントン:Milton John Hintonとしてミシシッピ州ヴィックスバーグに生まれる。奇しくもハンクと同郷だ。11歳でシカゴに移り、13歳でヴァイオリンを始め、高校~短大でベース・ホーン、チューバ、チェロ、ベースを学ぶ。当時の黒人で高等音楽教育を受けた者は希だ。1920年代の終わりにプロ入り、フレディ・ケパード、ジャボ・スミス(tp)、タイニー・パラム(p)、エディ・サウス(vln)ほかと共演した。1936年にキャブ・キャロウェイ楽団に入団し、40年前後の全盛期から衰退期の51年までその屋台骨を務める。退団後はジョー・ブッシュキン(p)とクラブに出演し、カウント・ベイシー楽団やルイ・アームストロング(tp)のオールスターズ(1953年7月‐54年2月)に在籍したが、退団するとCBSのスタジオ・ミュージシャンに転身した。黒人第一号で、譜面に強く録音のメカに詳しかったことが買われたのだ。以降はジャズに限らず無数の録音に参加、1970年代以降は中間派を中心に多くの録音に参加しつつ各地のジャズ祭にも出演、最晩年まで第一線にあった。2000年12月19日、ニューヨークで逝去。

 参加録音は未発表を含め5500曲を超える。音楽界全体でも一、二を争うのではないか。ハンクに倣って表にした。数値は曲数、(  )内はリーダーおよびコ・リーダー録音だ。

 ModernSwingVocalPops...total
comboorch.comboorch.comboorch.inst.vocal
1930s  54946   154
1940s  87
(12)
247   2336
(12)
1950s594
(10)
236
(4)
718281221198911822521
(14)
1960s135196312
(4)
129166116801321266
(4)
1970s63
(8)
14395
(15)
1049 1170612
(23)
1980s37
(2)
10278
(50)
1030 929403
(52)
1990s48
(8)
3128
(18)
 59  8246
(26)
total877
(28)
459
(4)
1972
(99)
7715313141914235538
(131)

 録音歴は1930年に始まる。最多はスウィング~中間派(49.5%)だがモダン(24%)とジャズ・ヴォーカル(15.3%)もかなりある。編成面ではハンクと同様にビッグバンドやオーケストラが少なくない。ポップスの大編成と合わせると全体の3分の1近くに及ぶ。1930~40年代は名門のキャロウェイ楽団に在籍していたことが、50~60年代はスタジオ・ミュージシャンだったことが効いている。それにしても1950年代は凄まじい。連日参加や同日の掛け持ちもまま見られた。ジャズ不況に見舞われた1960年代に録音は半減するが、それでも並みのジャズマンの一生分はある。当然のことながら、ポップスはそれほど落ち込んでいない。それまでの録音数がハンパじゃないので、70年以降は録音が激減したかのように映るが、これとて並みのジャズマンの及ぶところではないし、還暦を過ぎた年齢に照らせばなおのことだ。1970年代以降は中間派コンボをメーンに活動したことがわかる。もはやスウィング・ビッグバンドの時代ではなかったし、様変わりしたモダン・ジャズにオールド・ベースマンが活躍できる機会は乏しかったのだろう。順を追って見ていこう。

 初録音は1930年11月、タイニー・パラム楽団のビクター・セッションだ。存在が確認できたのは1曲で、スラップ・ベースが部分的に聴こえる。3曲では識別できず、4曲はチューバと聴いた。同月のセッション(同)でも1曲はチューバと見られ、2曲では所在不明だ。2年後、エディ・サウスの放送音源(1933年1-3月/セロニ)の2曲でも安否不明だが、あとの3曲(5月/ビクター)では4ビートの、4曲(6月/同)では2&4ビートのスラップ奏法が聴きとれる。パーカッシヴな奏法だから聴こえただけで、とくに言うこともない。このあとにキャロウェイ楽団での録音が続く。公式録音(1936年5月‐39年11月/ブランズウィック、ヴァラエティ、ヴォカリオン)では概ねアンサンブルに埋没、存在が確認できるのはやはりスラップ奏法のときだ。比較的クリアなものに《マンハッタン・ジャム》(1937年3月/ヴァラエティ)、《ビューグル・ブルース》(12月/以下ヴォカリオン)、《ミスター・パガニーニ、スウィング・フォー・ミニー》(38年8月)と、ベース史に残るスラップ・ソロをとった《プラッキン・ザ・ベース》(39年8月)がある。

 同時期にヒントンはスウィング期を代表するテディ・ウィルソン(p)のオールスター・セッション(1936年10月・38年11月・39年1月/ブランズウィック)と、ライオネル・ハンプトン(vib)のオールスター・セッション(39年4月・6月・9月/ビクター)に参加している。比較的時代の新しいコンボ編成とあって少しは聴きとれるかと思ったが、期待外れだった。キャロウェイ楽団の同僚でコールマン・ホーキンス派の三羽烏の一人、チュー・ベリー(ts)のリーダー・セッション(1937年9月/コロンビア他)でも同様だ。レーベルや編成の違いにかかわらず一貫して聴きとれない。意地悪な疑念が湧いてくる。そもそも音量が小さく音圧が低いのではないかと。これではスタイルの変遷を追うことは覚束ない。わずかに聴けるスラップ奏法はニューオリンズ伝来のコーニーな奏法とあってその役に立たないのだ。それが歴史的な演奏であったとしても、このまま聴こえもしない録音を並べたてても意味はない。このあとは多少ともヒントンが識別できた演奏を中心に見ていくことにする。もちろん、それらが必ずしも好演や快演ということにはならないが。

 1940年代に移る。キャロウェイ楽団の公式録音(40年3月‐49年9月/ヴォカリオン、オーケー、コロンビア、Vディスク、ビクター)は30年代と大差ないが、ウォーキングと見られるもの(40年5月‐41年3月/オーケー)が数例、そうと特定できるもの(47年2月・5月/コロンビア)が数例あった。前者は判然としないが、後者と録音バランスの違いが幸いした実況放送録音(1944年8月‐47年初め)に聴くドライなトーンと高音域の多用はバップ・ベースの影響と見られる。同時期にソロをとったものにランニングによる《バイ・バイ・ブルース》(1940年6月/以下オーケー)と、アルコとピチカートによる《エボニー・シルエット》(41年1月)がある。全編ヒントンをフィーチャーした後者は革命児ジミー・ブラントン出現の余波というべきだが、ベース史上の名演にちがいない。同時期ならコンボ演奏のほうが資料的には有用だ。クリアとまではいかないが、どうにか聴きとれる。1944年6月の「キーノーターズ」・セッション(キーノート)を皮切りに、ヒントンはキャロウェイ楽団の同僚が率いた中間派セッションに数多く参加していく。

 比較的聴きとりやすいのは前述したキーノーターズ名義、エメット・ベリー(tp)名義(8月/ナショナル)、ウォルター・トーマス(ts)名義(10月/ジョー・デイヴィス)、アイク・ケベック(ts)名義(45年4月・46年9月/ブルーノート)くらいで、ほかではまるで聴きとれないか、自己名義(45年7月/キーノート)ですらかなり聴きとりづらい。前段でも述べたが、前者に共通するのはドライなトーンとファスト・テンポでの高音域の多用だ。スタイルとしてはバップの影響を受けた進歩的なスウィンガーといったところ。肝心の出来だが、注目すべきものはなかった。1930年代から40年代の演奏を追ってきたわけだが、ジャズ・ベース史を、スウィング期を代表する巨人という定評は実感しづらい。それは、第一に拙劣な録音以上に音量の乏しさとタッチの弱さに、第二にビートの供給を旨とする姿勢に由来するのでは。また後者の眼目は正確なタイムと音程のキープにあり、演奏をグイグイ推進することに向けられていないように思う。実際、ヒントンが参加した演奏では「走る」ことなどまず見られないのだ。こうした見立てが見当違いならいいが。

 1950年にはキャロウェイ・セクステットの5曲(9月/放送録音)しかない。この前年、かつての名門もコンボへの縮小を余儀なくされていた。退団した1951年に録音はない。1952年にはB~C級の中間派セッション、初期R&B、ブルース・シンガーの歌伴が並ぶ。資料面でも演奏面でも、これでは見るべきものはない。糊口を凌いでいたという印象だ。1953年に移って、ベン・ウェブスター(ts)のエマーシー・セッションでは一拍の長音化(ボン、ボンからボーン、ボーンへ)、中低音域主体といったモダン化が窺える。前後してヒントンはモダン・クラリネットの二大巨頭、バディ・デフランコとトニー・スコットのセッションに参加、モダンへの進出を果たす。これらではそうしたモダン化は見られず、それまでのスタイルで通している。バピッシュなコンセプトに合わせたのかもしれない。なかではスコットのライヴ・セッション(2月/ブランズウィック、『イン・ハイ・ファイ』収録)と、デフランコの『ミスター・クラリネット』(4月/ノーグラン)が一聴に値する。前者の全4曲と後者の1曲に聴くロング・ソロはオスカー・ペティフォードに近いようだ。

 1954年、ヒントンはスタジオに職を得て、やがて膨大な録音を残すことになる。多くは演奏の実態が判然としないか月並みだ。ここでは実態の知れる出来のいいものに絞ろう。中間派ではルー・スタイン(p)の『ハウス・ホップ』(1954年8月/エピック)で上々の好演が、レックス・スチュワート(cor)とクーティ・ウィリアムス(tp)の競演盤『ザ・ビッグ・チャレンジ』(1957年4月・5月/ジャズトーン)でまずまずの好演が聴ける。低重心か
つ的確な音選びが好ましく、高音域を多用した後者も音は重く耳障りではない。モダン系に移って、リーダー作『イースト・コースト・ジャズ・シリーズ第5集:ミルト・ヒントン』(1955年1月/ベツレヘム)はトニー・スコット・クァルテットの名義貸しだ。ここでもオスカー似のバップ・ベースで通している。《ピック・ン・ナット》と名演の再演《エボニー・シルエット》は生涯屈指のソロだろう。好盤どまりだが一聴の価値はある。ハンク、ガルブレイス、オシーと共演したなかでは『ザ・リズム・セクション』(1956年4月・5月/エピック)が上々だ。やはりバップ流だが弦より胴が鳴っていて好ましい。

 最良のものはジョージ・ラッセル(comp)の『ジャズ・ワークショップ』(1956年3月・10月/以下RCA)だ。重く低く、対位法的な音選びも申し分ない。ラッセルも関わったハル・マクシック(as)の『ジャズ・ワークショップ』(1956年3月・4月/RCA)も、実態はつかみづらいが似た節がある。ほかでこれほどモダンな奏法は見かけないだけに、書かれたものと見るべきかも。確かに、当時の写真では彼らは常に譜面を前にしている。少しあとのラッセルの『ジャズ・イン・ザ・スペース・エイジ』(1959年12月・60年1月、デッカ)でも同様で、それゆえ好ましい。2500曲余りを残した1950年代だが、どうにか薦められるのは上記にとどまった。前述した意地悪な見立てが当たりそうで妙に寂しい。多くを聴いてヴァーサタリティぶりはよくわかった。ジャズの新旧に応じて奏法を変え、○○一本槍ではない。ディキシーではスタッカート調、主要3和音の分散、高音域を多用、中間派とバップではスタッカート調、ウォーキング(スケールの順次進行)、高音域を多用、よりモダンな楽想ではレガート調、ウォーキング、低音域を主体にするといった按配だ。

 1960年代、ジャズ不況に照らせば仕事量は上々だが、質的にはお寒いかぎりだ。ジョー・ジョーンズ(ds)と渡り合った『パーカッション・アンド・ベース』(同年5月/エヴェレスト)は大奮闘盤だが退屈でもある。インタープレイなるものは両者には向かなかったのだろう。及第点はタイリー・グレン(tb, vib)の『アット・ザ・ロンドン・ハウス』(1961年/ルーレット)、ハンプトンの『ユー・ベター・ノウ・イット』(64年10月/インパルス)、ジョニー・ホッジス(as)の『トリプル・プレイ』(67年1月/RCA)あたりだ。

 1970年代に入ると新興レーベル、キアロスキュロ(ディキシー・中間派)、フェイマス・ドア(中間派・モダン)が設立され、ヒントンも活躍の場を得る。とくに後者ではハウス・ベーシストとして数多くのセッションに参加した。それと好演や快演の発生率が比例するわけではないが。なかでは、ビル・ワトラス(tb)の『ボーン・ストレート・アヘッド』(1972年12月・73年1月/以下フェイマス・ドア)が準快演だった。ドライなトーンに中高音域主体など、奏法は旧式だが、珍しく躍動感がある。《レスター・レープス・イン》《スナフ》のソロは立派なものだ。ズート・シムズ(ts, ss)の人気盤『ズート・アット・イーズ』(1973年5月・8月)は水準どまりだと思う。1975年の半ばからトーンに変化が見られるようになる。板バネを弾いたような金属音で、弦は鳴っても胴は鳴っていない。時に65歳、体力の衰えからブースターでも導入したのか? ベースの魅力を欠いた悪しき変貌だと思う。ハンクと組んだ『ザ・トリオ』(1977年10月/キアロスキュロ)は悪例の最たるものだ。ハンクがいいだけに惜しい。やがて月並みな演奏が支配的になっていく。

 1980年代も例のトーンに変化はない。そんななかではラルフ・サットン(p)の『パートナーズ・イン・クライム』(1983年8月/アヴァンギャルド)が中低音域主体の奏法で好ましかった。1988年1月、奇跡(失礼!)が起きる。ヒントンはブランフォード・マルサリス(ts)のピアノレス・トリオ作『トリオ・ジーピー』(コロンビア)のセッションに招かれた。これほどヒントンの実態をとらえた録音はない。実によく聴こえるばかりか、トーンはそのままに胴が鳴り、音選びは的確、さらにいつになく演奏を推進する力がある。ブランフォードとジェフ・ワッツ(ds)の力量もあって、冗長に堕しかねないトリオ作が緊張と寛ぎが見事に均衡した傑作に仕上がった。半数でロング・ソロが聴けるが、目玉はスラップ・ベースによる《スリー・リトル・ワーズ》だ。その気迫には古いなんて寝言は一蹴されよう。礼を尽くして御大を招き、実力を遺憾なく発揮させたブランフォードには頭が下がる。そんなわけで好漢リッキー・フォード(ts)の『マンハッタン・ブルース』(1989年3月/キャンディド)にも少なからず期待したが、こちらは水準にとどまった。

 このあとヒントンは、デュオからセプテットまで様々な編成による2枚組『オールド・マン・タイム』(1989年3月‐90年3月/キアロスキュロ)をものしている。ディジー・ガレスピー(tp)ほかのキャロウェイ楽団時代の同僚、長らく共演を重ねてきたラルフ・サットンやハンプトン、当時組んでいたトリオのデレク・スミス(p)など、新旧の仲間を招いた「音楽自叙伝」とも言える一作だ。ブースター・ライクなトーンに変わりはないし音量も音圧も低いが、半数は準快演ないし快演、残りも水準と言えよう。和気藹々とした好セッションが並ぶなかではディジーとのクァルテットが最上で、これに次いではスミスとのトリオ、ダニー・バーカー(g)とのデュオがよかった。《ミルツ・ラップ》を筆頭に5曲で披露するスラップ・ソロも力感に溢れて立派だ。大作に見えて、13分は仲間との、43分は単独の昔話になっている。同時期ではマリアン・マクパートランド(p)の『ピアノ・ジャズ』(1991年8月/ジャズ・アライアンス)もかなりいい。味わい深い逸品だ。このあとは聴きとりづらさが進行、出来もせいぜい水準どまりで見るべきものはない。

 65年にも及ぶ膨大な録音を追ってきたが、ジャズ・ベース史上の巨人どころか、名手を実感させるものすら数少なかった。前述した、音量と音圧が低く、タイムと音程の正確なキープを旨とし、演奏の推進に意を払っていないのではないかという見たてを撤回するに至らない。そうした正確性と堅実さが白人イースト・コースト・ジャズや無数のスタジオ・セッションに合ったのだろう。逆にドライヴ感やグルーヴ感のなさがハードバッパーにはお呼びじゃなかったとしても無理はない。推薦した『オールド・マン・タイム』に22人のベーシストが賛辞を寄せている。その顔ぶれが興味深い。大向こうを唸らせる一枚看板と呼べるのはリチャード・デイヴィス、チャーリー・ヘイデン、エディ・ゴメスあたりで、あとはビル・クロウをはじめ、地味で堅実なリズムマンばかりなのだ。思うに、ジャズ・ベース史上の巨人なる定評は間近でプレイに接した(それなら聴こえる)ベーシストにより作られたのではないか。異口同音に称賛される正確なタイム感覚や音程、美しい音色はワザにすぎまい。その正確性から“ザ・ジャッジ”と呼ばれたが、音楽でジャッジすべきかと思う。

 推薦盤は何の迷いもなくブランフォードの『トリオ・ジーピー』(コロンビア)に決定だ。膨大かつその多くが役に立たない録音を聴き進むうちに、そうなりそうな予感はあった。勘ぐりが当たって、安堵とも落胆ともつかない妙な心持ちだ。これに次いではリーダー作『オールド・マン・タイム』(キアロスキュロ)がいいだろう。文中で評価したサイドマン録音や参加作については「絶対に!」というほどのものでもない。それぞれのリーダーの代表作として聴くついでにヒントンのプレイにも耳を傾けていただければ十分だと思う。

 録音数の最多はスタジオ稼業2年目の1956年で、55年が続く。「その時」の1958年は50年代の3位だ。ヒントンにとっても“最も”多忙な時期だったかどうかはわからない。まあ400曲を超えているから多忙だったにちがいない。この年に目ぼしいものはないが、「その時」に前後して参加した名盤にミシェル・ルグラン(arr)の『ルグラン・ジャズ』(6月/フィリップス)、ラッセルの『ニューヨーク、N.Y.』(9月/デッカ)がある。7月にはマクパートランドと組んでニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演した。
 「その時」は前列右端、カウント・ベイシー(p)の後ろでセロニアス・モンク(p)の右側に立っている。恰幅はともかく、大男ではない。予想外の非豪腕はそのせいか。「その時」、写真家としても高名なヒントンはムービーを携え、自らも集合写真撮影の一部始終を記録する一方で、スコーヴィル・ブラウン(reed)にも録らせた。36年後、映像は記録映画『ハーレムの素晴らしき1日』で甦りジャズ・ファンを狂喜させることになる。相変わらず意地の悪い言い方だが、こればかりは文句なしの偉業と言っていいだろう。

A Great Day in Harlem

2010.07.22

林 建紀のハーレム五十七士 vol.49

モダン・ジャズ|イースト・コースト・ジャズ ハンク・ジョーンズ:Hank Jones(p)当時40歳 その2

 サヴォイのハウス・リズム・セクションを担ったハンク、ウェンデル・マーシャル(b)、ケニー・クラーク(ds)による『ザ・トリオ』(1955年8月)は趣味の良いトリオ作だ。三者協調型で、端正なシングル・トーンを主体にしたハンクのピアニズムが満喫できる。ドナルド・バードほか(tp)を迎えた『クァルテット‐クインテット』(11月)は屈指の快作になった。ハンクが快適なクッションを送るなか、バードがストレートに吹き進む。ここでのバードはイースト・コースト派に近い。ジェローム・リチャードソン(ts, fl)ほかと組んだワンホーン演奏を中心にした『ブルーバード』(11月・12月)がこれに次ぐ。サイドマン参加作ではミルト・ジャクソン(vib)のものがいい。ミルトとの相性は、より明晰で闊達なハンクのほうがジョン・ルイスに勝ると思う。サヴォイの名盤『オパス・デ・ファンク』(10月)は数あるサイドマン参加作のワン・オブ・ベストだ。絶妙のコンプに加えて、気品に溢れるブルース・ソロがタップリ楽しめる。爽快なスウィンガーと味わい深いバラードからなる『ザ・ジャズ・スカイライン』(1956年1月)も同レベルの快作だ。

 ハンクはサヴォイを中心にハードバップ派を支える一方で、ガルブレイス、ヒントン、オシーと組んでイースト・コースト派も支えた。数のうえではこちらのほうが断然多い。軽快で洗練された中間派の趣きのリズム・セクションで、クールにナチュラルに、快適なクッションを供給した。彼らだけによる『ザ・リズム・セクション』(1956年4月・5月/エピック)は燻し銀の職人技に浸れる準快作だ。同じ面々による『ザ・タレンテッド・タッチ』(1958年春か夏/キャピトル)でも歌心に溢れる溌剌としたタッチが愉しめる。同時期のサイドマン参加作では、ホーキンスの『ザ・ハイ・アンド・マイティ・ホーク』(1958年2月/フェルステッド)がずば抜けている。粋なファストに可憐なバラードと、文句なしの快演が並ぶ。キャノンボール・アダレイ(as)の『サムシン・エルス』(3月/ブルーノート)では総じて水準なのだが、 《枯葉》だけはそれを一蹴する強い印象を残す。ハンクには希な緊張感が漂い、それが「ご主人様、ほかにやり様はございません」とでも言いたげな引きずるような玉転がしソロを捻り出させた。マイルス効果というほかない。

 1959年にはCBSスタジオのスタッフに転身、ジャズ不況もあって録音は半減するが、それでも大物ジャズマンの一生分に相当する。ジャズ・ヴォーカルとオケものの比率増は職業柄、時代の要求が顕著に現れたようだ。総じて水準どまり、見るべきものに乏しい。3枚のリーダー作はハンク有数の凡作または怪作だ。心地よくも生温い『ヒアズ・ラヴ』(1963年10月/アーゴ)、なんでもできますに付け込まれた『ディス・イズ・ラグタイム・ナウ』(64年4月/ABC)、エレクトリック・ハープシコードなる下手物に挑んだ『ハプニングス』(66年10月/インパルス)は普通のファンに用はない。サイドマン参加作ではミルトの『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ゲイト』(1963年12月/リヴァーサイド)、ライオネル・ハンプトン(vib)の『ユー・ベター・ノウ・イット』(64年10月/インパルス)、ジョニー・スミス(g)の『カレイドスコープ』(67年12月/ヴァーヴ)で闊達なプレイが楽しめる。ソロはとらないが、ナンシー・ウィルソン(vo)の『バット・ビューティフル』(1969年11月/キャピトル)では絶妙のサポートを見せ、名盤誕生に貢献した。

 1970年代に入ってジャズを取り巻く状況は益々悪化する。1975年の半ばまでに参加した録音は180曲余りにすぎない。質のうえでもお寒いなかでは、レッド・ノーヴォ(vib)の『ヴァイブス・ア・ラ・レッド』(1974年/フェイマス・ドア)が上々だ。それにしてもハンクはヴァイブ奏者との相性がいい。明晰なタッチがヴァイブにマッチするのだろう。1975年、ハンクはスタジオ生活に終止符を打つ。独立後の第1作『ハンキー・パンキー』(7月/イースト・ウインド)は自然体のジャズ魂に溢れる好盤で、ファンの耳目を引く契機になったと記憶する。しかし、この先にはとてつもない衝撃作が待ちかまえていた。カーター、トニーと組んだ初代グレイト・ジャズ・トリオ(GJT)による『アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』『同Vol.2』(1977年2月/同)だ。ハンクは見たこともないアグレッシヴで斬新なプレイを繰り広げ、ファンを唖然から興奮、狂喜へと駆り立てた。ここにハンクの最盛期が幕開け、知る人ぞ知る名手からジャズ・グレイトにも列せられる存在に上りつめていく。しかし、それはそれで生温い作品を量産させることにもなった。

 初代GJTの諸作を当時のようには楽しめない。30年余りを経て色褪せたわけではなく、ハンクらしさに乏しいのだ。今なら言える。所詮はトニーのトリオで、ハンクの本質から逸れていたと。それを我々は新生面を開いたと絶賛したわけだが、実体はハンクのヴァーサタリティの産物だったと見るべきだろう。当初は若手の刺激を歓迎していたハンクも、アグレッシヴな行き方が半ば苦痛になっていったのではなかろうか。半苦ジョーンズだ。そのせいか、GJTは二代目から次第に無毒化していく。では、後続のGJTがハンクの理想とするユニットだったかと言えば、そうとは思えない。毒にも薬にもならない無数の凡作を前にしては、日本側の要求に応える手頃なパッケージ商品だったような気がする。概して、新旧を問わずGJTの諸作にハンクの本質は求めえないと思う。そんななかでは渡辺貞夫(as)の『アイム・オールド・ファッションド』(1976年5月/イースト・ウインド)が見逃せない。第1作とあってか比較的ストレートで、《コンファメーション》からラストのソロ・ナンバー《ワン・フォー・C》までハンクらしい好演と快演が目白押しだ。

 本当にやりたいことは自己名義でやったにちがいない。同時期のトリオの快作と傑作はハンク名義に集中しているのだ。『アリガト』(1976年10月/プログレッシヴ)、『バップ・リダックス』(77年1月/ミューズ)、『ジャスト・フォー・ファン』(6月/ギャラクシー)、『アイ・リメンバー・ユー』(7月/ブラック&ブルー)では本来の持ち味を発揮している。ソロ作『ティップトー・タップダンス』(1977年6月/ギャラクシー)は豊かな味わいの秀作になった。トミー・フラナガンと組んだデュオ作『アワ・ディライツ』(1978年1月/同)は絶好の顔合せだ。トミーはウィルソン、テイタム、ナット・コール、パウエルに加えてハンクの影響を受けた。こうして並ぶと個性の違いが知れてありがたい。ハンクがウィルソン‐ヘイグ系なら、トミーはコール‐パウエル系と言えようか。ハンクのほうがタッチが明晰ならアプローチも男性的で、吸引力に勝る。似て非なる個性の競演が楽しい快作だ。サイドマン参加作ではアーネスティン・アンダーソン(vo)の『ハロー・ライク・ビフォー』(1976年10月/コンコード)が伴奏よし、ソロよしのヴォーカル名盤になった。

 1980年代はGJT名義の量産に突き進んだ。リーダー録音の6割に及ぶ。企画の貧困というべきか枯渇というべきか、4割近くは他の奏者を迎えるか、女性歌手をサポートした録音になっている。圧巻?は5集に及んだ『グレイト・スタンダーズ』(第1集‐第4集:1988年4月・5月、第5集:90年3月/アルファ・ジャズ)だ。もう何も言うことはない。ナンシー(vo)を伴奏した『ホワッツ・ニュー』(1982年9月/イースト・ワールド)が、いつになく自然な歌唱もあって上々だった。見るべきものは、やはりハンク名義にある。GJT量産の煽りでトリオ作は1作しかないが、デュオ作が4作ある。なかでは、レッド・ミッチェル(b)と組んだ『デュオトーン』(1987年11月/タイムレス)が見逃せない。両者の名人技と対話の妙が堪能できる逸品だ。あとはほぼワン・ホーン作(奏者や歌手のサイドを含む)で、デイヴ・ホランド(b)らと組んだトリオ演奏とケン・ペプロウスキー(as,cl)を加えたクァルテット演奏を収めた『レイジー・アフターヌーン』(1989年7月/コンコード)が躍動感に富む快作だ。それにしてもホランドの巧さたるやどうだろう。

 1990年代のリーダー録音はGJT名義と、GJTに尾田悟(ts)らを加えたグレイト・ジャズ・クインテット名義が半数近くを占める。映画主題歌集『ギンマクVol.1』『同Vol.2』(1991年12月/キング)などがあるが、内容は推して知るべしだ。同じメンバーによるペギー葉山(vo)の『イッツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム』(同月/同)は上々だった。トリオ作に見るべきものはない。ハンク名義では『ハンク・ジョーンズ・トリオ・ウィズ・マッズ・ヴィンディグ&アル・フォスター』(1991年3月/ストリーヴィル)が一推しの傑作だ。活気に溢れるスウィンガーから美の極みのバラードまで、快演と名演が半ばする。『トミー・フラナガン&ハンク・ジョーンズ・ライヴ・イン・マルシアク1993』(1993年8月/グルーヴィン・ハイ)は旧作をはるかに凌ぐ。個々のトリオ演奏に競演に両者はパーフェクト、文句なしの傑作だ。アビー・リンカーン(vo)と組んだ『ホヘン・ゼア・イズ・ラヴ』(1992年10月/ヴァーヴ)は感動の、チャーリー・ヘイデン(b)と組んだトラッド集『スティール・アウェイ』(94年6月/同)は心温まるコラボになった。

 2000年代に入って、さしものハンクにも衰えは忍び寄ってくる。鋭いほどに明晰だったタッチが鈍化し、アイデアも冴えを欠いていく。厳しいことをいうようだが、緩い演奏を黙認することが敬意を払うことではないし、それをハンクが良しとするはずもなかろう。GJT名義とハンク名義は大差ない。トリオ演奏が8割強を占める前者では、エルヴィン(ds)と組んだ『枯葉』『いつか王子様が』『コラボレーション』(2002年5月/エイティ・エイツ)が目を引く。時にパワフル、時に繊細なエルヴィンには唸らされるが、ハンクはいいところ水準+αだ。後者はソロ、デュオ、トリオ、ワンホーン・クァルテットほかに分かれる。やはりこちらが勝るようだが、技量に差があるはずもない。違いは演奏に漲る活気だ。そういう点において、クリスチャン・マクブライド(b)、ジミー・コブ(ds)と組んだトリオ作『ウエスト・オブ・フィフス』(2006年1月/チェスキー)と、ジョー・ロヴァーノ(ts)と組んだデュオ作『キッズ:デュエッツ・ライヴ・アット・ディジーズ・クラブ・コカ‐コーラ』(同4月/ブルーノート)は最晩年の代表作としていいだろう。

 好演や快演が交じる水準作は数え切れない。それらには目もくれないで粒揃いに絞って紹介してきたが、それでも結構な枚数になった。ここで改めて編成別に厳選しておこう。ソロ作では『ティップトー・タップダンス』(ギャラクシー)、デュオ作ではフラナガンと組んだ『ライヴ・イン・マルシアク1993』(グルーヴィン・ハイ)、トリオ作では『アイ・リメンバー・ユー』(ブラック&ブルー)、『ウィズ・マッズ・ヴィンディグ&アル・フォスター』(ストリーヴィル)、ワンホーン作では『クァルテット‐クインテット』(サヴォイ)、中間派ジャズでホーキンスの『ザ・ハイ・アンド・マイティ・ホーク』(フェルステッド)、ヴォーカル作ではアビーの『ホヘン・ゼア・イズ・ラヴ』(ヴァーヴ)をお薦めしておこう。まずはこれらから、次いで文中の諸作を聴かれるといいだろう。手を広げられるのなら、コンボ録音を優先してほしい。ビッグバンド/オケものでは総じてピアニストの露出度は低く、一作に一、二の好演や快演が見つかれば上出来だということになりかねないのだ。推薦盤は隠れ名盤の極み『ウィズ・マッズ・ヴィンディグ&アル・フォスター』に決めた。

 「その時」はスタジオ・ミュージシャンに転じる前年だ。五十七士の多くが生涯最多の録音に参加していた。ハンクも同様、1950年代の4分の1にあたる録音をこなしている。しかし、誰もが知る名盤は『ザ・ハイ・アンド・マイティ・ホーク』『サムシン・エルス』『ルグラン・ジャズ』だけで、多くは名もなきイースト・コースト・ジャズだ。それでも460曲余り、ジャズ黄金時代の感を深くする。16年のスタジオ稼業はハンクを第一線から退かせたが、大きな資産も残させた。「2000曲は軽い」と語った膨大なレパートリーだ。
 「その時」は前列の左から2番目にいて温和な笑みを浮かべている。意外に恰幅がよくスウィング派に通じる風格が漂う。ハンクの音楽性もとらえた好ショットと言えそうだ。「ミスター・スタンダード」ことハンクは曲に敬意を払い最良の翻訳者であろうと務めた。そんな姿勢と斬新な和声感覚はテイタムに、闊達にして優雅で気品に富む語り口はテディ‐ヘイグに通じる。決して我を張らず、曲と共演者に敬意をもって接し、いつしか無二のピアニズムを築きあげた。もはや一ピアニストを超えて、一ジャンルだったように思う。

A Great Day in Harlem

2010.07.22

林 建紀のハーレム五十七士 vol.48

モダン・ジャズ|イースト・コースト・ジャズ ハンク・ジョーンズ:Hank Jones(p)当時40歳 その1

 ビバップ以降、1950年代までの動きはと言えば、クール・ジャズ、ウエスト・コースト・ジャズ、ハードバップと推移し、前者と中者は白人ジャズ、後者は黒人ジャズというのがジャズ史の「常識」だ。しかし、これで括れない派がある。サージ・チャロフ(bs)ら、白人ボストニアンからなる東海岸のウエスト・コースト・ジャズ派、J.R.モンテローズ(ts)、フィル・ウッズ(as)ら、東海岸の白人ハードバップ派、テディ・エドワーズ(ts)、ハロルド・ランド(ts)ら、西海岸の黒人ハードバップ派だ。これらは少数派だから目をつぶるとしても、見過ごせない一大勢力がある。いちおうイースト・コースト・ジャズと呼ばれてきた。1950年代の白人ジャズメン中、レニー・トリスターノ(p)一門のクール・ジャズ派、ウエスト・コースト・ジャズ派、希少例のハードバップ派を除くほぼすべてがここに入ると言っていい。ジョン・アードレイ(tp)、アービー・グリーン(tb)、スタン・ゲッツ、アル・コーン、ズート・シムズ(ts)、ジェリー・マリガン(bs)と、枚挙に暇がないが、ハードバップに押されて日陰の身に甘んじてきた。呼び名も周知にはほど遠い。

 ゲッツらにしてもクール派で語られるのがいいところで、一般のファンにはウエスト・コースト・ジャズ派と誤認されている節すらある。確かに、スタジオ仕事に長けた連中が担った、編曲に意を用いた、軽快で洗練されているなど、それに通じる面も少なくない。しかし、決定的な違いがある。ウエストの能天気な明るさとは異質の、翳りや湿りのある音楽性だ。それは1920年代に始まる白人ニューヨーク派の特質で、今日も継承されているように思う。代表的レーベルはベツレヘム、コーラル、ドーン、ドットあたりで、ABC、RCAなどにもある。大多数は白人だったが、ジミー・クリーヴランド(tb)、セルダン・パウエル(ts)などの黒人もいて、アート・ファーマー(tp)、J.J.ジョンソン(tb)、ケニー・バレル(g)らはハードバップと行き来していた。白人のウッズ、ジーン・クイル(as)もその口だ。特筆すべきはリズム隊で、多くは黒人が担った。なかでも、ハンク・ジョーンズ、ミルト・ヒントン(b)、オシー・ジョンソン(ds)は数多くのセッションに参加、白人のバリー・ガルブレイス(g)を含めて「ザ・リズム・セクション」と称された。

 1918年7月31日、ヘンリー・ジョーンズ:Henry Jonesとしてミシシッピ州ヴィックスバーグに生まれる。ミシガン州ポンティアック生まれとされてきたが、幼い頃に移ったというのが正しい。父は木材の検査技師でバプティストの助祭、姉が2人に弟が5人いて、サド(tp)は次男、エルヴィン(ds)は五男だ。幼い頃から9年間、ピアノのレッスンを受け、1931年にはミシガンやオハイオのバンドで演奏していた。1944年、バッファローのジョージ・クラーク楽団に在籍していたときにラッキー・トンプソン(ts)と知り合い、ニューヨークの「オニックス・クラブ」を根城にするホット・リップス・ペイジ(tp)のコンボへの参加を薦められる。ニューヨーク進出後はペイジのコンボ、アンディ・カーク楽団、ジョン・カービー楽団に在籍、ハワード・マギー(tp)、コールマン・ホーキンス(ts)らとも共演し、その間にバップ・イディオムを吸収していく。1947年の春にはJATPに参加、それが縁で47年から53年はエラ・フィッツジェラルド(vo)の伴奏者を務める。その後は主に中間派セッションに参加、アーティ・ショウ(cl)のコンボに短期在籍した。

 1955年以降は数多くのセッションに参加、56年から58年はベニー・グッドマン楽団に在団している。1959年から75年はCBSのスタジオ・ミュージシャンを務めるかたわら、多くのセッションに参加した。しかし、スタジオ稼業を続けていたら知る人ぞ知る名手で終わっていたにちがいない。1975年、スタジオ暮らしにピリオドを打ったハンクはロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds)とグレイト・ジャズ・トリオを結成し、一躍脚光を浴びる。60歳を前にして快進撃に転じ、1990年代までクラブ・ギグにコンサートにレコーディングに精力的な活動を続けた。2000年代に入ってペースは落ちたが、それでも死の直前まで衰えを見せずに第一線で活躍する。2010年5月16日、ニューヨークで逝去。

 ハンクが参加した録音は5300曲近くもある。未発表および近々発売される数作を含む。正確ではない。参加の疑わしいもの、複数のピアニストが参加したセッションでハンクと特定できないものが含まれる。一方で、ポップス系はパーソネル不明が当り前で、結構な数が洩れているように思う。ともあれ、これだけあれば、全体および年代毎のおおまかな傾向はつかめる。表にした。数値は曲数、(  )内はリーダーおよびコ・リーダー録音だ。

 ModernSwingVocalPops...total
comboorch.comboorch.comboorch.inst.vocal
1940s42 87
(10)
26314  190
(10)
1950s645
(96)
15438025712620375741914
(96)
1960s257
(18)
234
(4)
135
(12)
845020749351051
(340)
1970s383
(240)
28206
(8)
13594133727
(248)
1980s391
(195)
8
(8)
67
(10)
 88
(43)
11 58623
(256)
1990s298
(256)
5
(5)
44 57
(33)
  29433
(294)
2000s271
(228)
   46
(14)
  29346
(242)
total2287
(1033)
429
(17)
919
(40)
380457
(90)
4291252585284
(1180)

 録音歴は1944年に始まる。スウィング末期でリアルタイムのスウィング演奏は少ない。多くは中間派だ。最多はモダン・ジャズ(51.4%)だが、スウィング(24.6%)とジャズ・ヴォーカル(16.8%)もかなりある。編成でもビッグバンドやオーケストラ(23.4%)の多さが目を引く。当然ながら、ポップスも3分の2はそうだ。スタイルや編成を問わないヴァーサタリティぶりがデータにも現れている。1940年代の録音は5年分しかないにせよ、50年代の激増は凄まじい。モダン・ジャズでは「ザ・リズム・セクション」の一員だったこと、スウィングではJATPと中間派の隆盛、ジャズ・ヴォーカルではエラの伴奏職が効いている。それもこれもジャズ黄金時代の賜物だ。1959年、ハンクはCBSスタジオのミュージシャンに転身した。案の定、1960年代の録音は半減している。モダン・ジャズとジャズ・ヴォーカルのオケものは増えているが、それもまたスタジオ・ミュージシャンの証しだ。「グレイト・ジャズ・トリオ」でブレイクしたあとは、もはやサイドマン扱いではなかったが、そうした名誉職は抑えてコンボ編成のリーダー録音に励んだことがわかる。

 初録音は1944年11月、ペイジのコンチネンタル・セッションだ。既に26歳、13年のキャリアがあった。ソロが聴けるのは8小節にすぎず、あとは専らバックだが、安定していて、ほぼ出来上がっているとすら思える。アート・テイタム流のアルペジオに加えて、モダンなコンプを見せて興味深い。2回目のセッション(1945年9月/メルローズ)では、曲によってテイタム流だったりテディ・ウィルソン流だったりするが、流麗の度を増し、コンプはさらにモダンになっている。2曲でソロをとっていて、両者折衷型の《ブラッドハウンド》が上々だ。カーク楽団のセッション(1945年11月・46年1月・5月・12月/デッカ)に見るべきものはない。没落期とあってすべてヴォーカル入りだ。テイタム流のソロが1曲と可憐なオブリガートが聴けるが必聴というものでもない。同時期にハンクは立て続けにバップ・セッションに参加した。スタン・ゲッツ(ts)のセッション(1946年7月/サヴォイ)ではバピッシュだが、バド・パウエル色は感じられず優雅にすら響く。スウィングの香り漂う《ドント・ウォリー・バウト・ミー》がハンクらしくて好ましい。

 レイ・ブラウン(b)のセッション(1946年9月/サヴォイ)でも基本的には同様だが、こじんまりしていて印象に欠ける。ホーキンスのバップ&スウィング・セッション(12月/ソノラ)では、《ビーン・アンド・ザ・ボーイズ》で一段とバピッシュでよく歌うソロを、《カクテルズ・フォー・トゥー》でテディ流の引き締まったバラード解釈を見せて立派だ。ともに初期を代表する好演と言えよう。ホーキンスの同趣向のセッション(1947年6月/アラジン)ではイントロ以外に出番はなく、言うべきことはない。1947年9月、ハンクは初リーダー録音(クレフ)に臨んだ。ソロによる自選のスタンダード集で、テイタム流のモダン・ストライドで通している。折角の機会になんでまた?と言いたくなるが、ソロのモダン奏法が確立されていなかった以上に、スウィング期にデビューしたハンクにすれば“ビバップ命”ではなかったということだろう。ともあれ、さほど面白いものではない。JATPの《パーディド》(同月/クレフ)は初期を代表する快演になった。粋でよく歌うモダン・スウィングの鑑というべきソロを4コーラスにわたって繰り広げて遺憾がない。

 チャーリー・パーカー(as)の《ザ・バード》(1947年12月/クレフ)では平均点だが、マギーのセッション(同月/ダイアル)では水準以上だ。好バッキングに加えて、幻想的バラード《ナイト・ミュージック》はエレガントな持ち味が光る快演に、ブギ・ブルース《スリープウォーカー・ブギ》は軽妙な語り口が楽しい好演になった。出来は普通だが、《ストップ・タイム・ブルース》ではアル・ヘイグを髣髴させる感覚を見せて興味深い。続くホーキンスのセッション(同月/ビクター)では総じて大型アンサンブルに埋没し、出番もわずかだ。《アイ・ラヴ・ユー》でとる半コーラスのソロはプリティな好演だと思う。この直後から1953年2月まで量産されたエラの録音はハンク目当てに聴くものではない。ヘイグの影はJ.J.ジョンソン(tb)のセッション(同月/サヴォイ)でより明瞭になる。それに伴って迷いが生じたのか、以降のプレイは精彩を欠いていく。マギーのセッション(1948年2月/サヴォイ)、レスター・ヤング(ts)の放送録音(11月)、JATPの記録(1949年2月/パブロ、9月/ヴァーヴ)では概して出番は少なく、出来も水準どまりだ。

 1947年の暮から53年の春までは贔屓目に見ても雌伏期だったようだ。エラの伴奏者を務めた時期と重なる。この間の録音を見ると、フリップ・フィリップス(ts)をはじめ、JATPの大物名義とエラ名義の録音がともに4割を、JATPの記録が1割を超える。見るべきものが乏しいなかでは、JATP/ジーン・クルーパ・トリオの《ソフィスティケイテッド・レディ》(1952年9月/クレフ)がピアニスティックな佳演だ。純モダン・セッションはわずかしかない。パーカーの『ナウズ・ザ・タイム』の4曲(1952年12月/同)はハンクの楽歴で必ずふれられるが、弾き流しただけだ。端正と明晰の度を増し、独自のスタイルをものしつつあるとは思う。1953年の春から54年は雑多なセッションに参加した。自己のトリオの4曲(1953年9月/同)が上々だ。ジョージ・シアリング風にカクテル・ピアノ風にオスカー・ピーターソン風にと忙しいが、優雅な雰囲気に浸れる。ショウの「グラマシー・ファイヴ」のセッション(1954年2‐6月/クレフ)では腕利きサイドマンの力量を発揮、端正なタッチも好ましく、総じて水準以上の出来と言えよう。

 この頃にはスタイルを確立している。それは1953年と見ていいのではないか。前年には端正と明晰の度を増していたが、コンプはバップ流にマッシヴで、優雅なラインを妨げる感もあった。それが1953年には持ち味に適うスッキリしたものになり、ハンクそのものと言える姿を見せているのだ。ハンクの影響源はファッツ・ウォーラー、アール・ハインズ、テディ、テイタム、パウエル、ヘイグだが、そもそもハインズ‐パウエルのラインは弱く、最終的にはテディ‐ヘイグのラインでモダン右派というべきスタイルを築きあげている。明晰と優雅はテディ、端正と論理性はヘイグ譲りと言えよう。このあとスタイルが変わることはない。1955年、ハンクはサヴォイのハウス・ピアニストの座につき、無数の録音に参加していく。一般のファンが追うのはここからでいいだろう。安易な企画による駄作や凡作はあるが、演奏そのものは水準以上と言える。いいと思えばすべていいということになりかねないが、可もなく不可もないものも少なくないし、スタイルが変貌するわけでもないから、すべてにふれるまでもなかろう。好演や快演、注目された演奏に絞っていく。
2010.06.08

林 建紀のハーレム五十七士 vol.47

モダン・ジャズ|ウエスト・コースト・ジャズ  ジェリー・マリガン:Gerry Mulligan(bs, comp/arr)当時31歳 その2

 1960年5月、マリガンは念願のビッグバンドを旗揚げする。コンサート・ホールで聴く鑑賞音楽を目指し「コンサート・ジャズ・バンド」と名付けた。入念なリハーサルを繰り返し、7月にはニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演、11月にはヨーロッパを巡演している。『ザ・コンサート・ジャズ・バンド』(7月/ヴァーヴ)はデビューを飾る快作になった。注目すべきはマリガンが自らの作編曲にこだわらずに、右腕のブルックや外部の才能にも委ねていることだ。マリガンの拡大コンボ風の作品だけでは斬新なビッグバンド・サウンドや醍醐味を味わうことは難しかったのではなかろうか。ブルックによる痛快至極の『ユー・トゥック・アドヴァンテージ・オブ・ミー』、デューク風の精妙なブレンドが美しい『ジャンゴズ・キャッスル』はバンドの最上の成果に数えていい。ツアーの記録には第2作『オン・ツアー』(11月/同、12月?の西海岸でのライヴも併録)、『1960チューリヒ』(同/TCB)、『ライヴ・アット・ジ・オランピア、パリ1960』(同/ギャンビット)がある。ようやくエンジンのかかる『オランピア』が半数は準快演の好ライヴだ。

 帰米後の第3作『アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』(12月/ヴァーヴ)は旬の勢いが伝わる興奮のライヴ作になった。ハード・ドライヴィングなアンサンブルと闊達なソロに血が沸く《レディ・チャタレイズ・マザー》、各人のソロを大きくフィーチャーしたスリリングな《ブルーポート》、拡大コンボ風ながら要所でホーンが炸裂する《ブラック・ナイトガウン》と、好演と快演の大行列だ。ソロが延々と続く《ブルーポート》は後年のサド‐メル楽団を髣髴させる。第4作『ア・コンサート・イン・ジャズ』(1961年7月/同)は野心作になった。マリガンはまったくペンをとらず、ブルックのほかにジョージ・ラッセル、ゲイリー・マクファーランド、ジョン・キャリシといった異才に委ね、斬新で異色あるサウンドの創造に成功している。手が込んだ作品も躍動感に溢れ、「コンサート・ジャズ・バンド」の名に恥じない芸術性と娯楽性をそなえた傑作だ。しかし、早くも経営危機は訪れていた。勢いが失われていくなかでの第5作『ジェリー・マリガン’63』(12月/同)は《ビッグ・シティ・ブルース》《バラード》の快演を生んだが粒揃いではない。

 サド‐メル楽団の原形と目される(注)傑出したモダン・ビッグバンドではあったが、もはやレギュラーで維持することは困難になり、実質的には解散、断続的な活動を続けたあと、1964年末に解散した。1962年の春、マリガンはコンボ活動を再開する。ブルックと組んだ『ザ・ジェリー・マリガン・クァルテット』(5月/ヴァーヴ)はまとまりが良くてスウィンギーだが、それだけのことだ。デスモンドとの再会セッション『トゥー・オブ・ア・カインド』(6月‐8月/RCA)では前回にもまして精彩を欠いている。10月にはクァルテットでパリを訪れていて、同日のコンサートの記録が『ザ・ジェリー・マリガン・クァルテッツ』(パブロ)、『ライヴ・アット・ジ・オランピア、パリ1960』(ギャンビット)に併録されている。マリガンの長ったらしいピアノが満喫できる?後者より前者のほうが断然いい。といっても準快演級だが。クァルテットの『スプリング・イズ・スプラング』(12月/フィリップス)は上記コンサートのプログラムに準じている。やはりマリガンのピアノが堪能できるというわけで、どう贔屓目に見てもスウィンギーなだけの水準作だ。

 1963年9月にはズートに替えてジム・ホール(g)を入れた第二次セクステットのセッションが始まる。人気盤『ナイト・ライツ』(9月・10月/フィリップス)はこの時期に珍しい快作になった。タイトル曲をはじめ、夜のしじまの空気が伝わる名バラード集だ。セクステット&クァルテットの『バタフライ・ウィズ・ヒカップス』(9月・10月・1964年6月/以下ライムライト)には「なんでこんな詰まらないものを?」と言いたくなる。前作と同日および前後して録られているだけに不思議でならない。ゴチャマゼにされずに済んでよかった。1965年にはギターを入れたワンホーン・クインテットを編成している。『イフ・ユー・キャント・ビート・エム、ジョイン・エム』(7月)、クインテットにストリングスが加わった『フィーリン・グッド』(10月)、ズートと組んだ2管クインテットの『サムシング・ボロウド、サムシング・ブルー』(1966年7月)について言うことはない。かりに呑気なお方だったとしても、ビッグバンド破綻のショックが小さくなかったことは創造性が鈍磨した長期のスランプが物語っている。いい加減リフレッシュが必要だった。

 1968年、マリガンはブルーベックと組む。マリガンは長期低空飛行中、ブルーベックは前年にデスモンドとのコンビを解消し、トリオで活動していた。お互いに期するところがあったのだろう。まあ、マリガンのピアノを聴かされなくてすむ。第1作はメキシコでのコンサート録音『コンパドーレ』(1968年春/CBS)だ。グループ名はデイヴ・ブルーベック・トリオ・フィーチャリング・ジェリー・マリガンとされ、両者が同格と知れる。《ジャンピング・ビーン》を筆頭に気合いの入った快演が続く。こんなマリガンは滅多に聴けるものではない。それでいてリラックスしてもいる。ブルーベックのアグレッシヴな行き方が快演を引き出したものと思う。聴きかけにかかわらず曲の構成は手が込んでいてモーダルにすら響くが、頭デッカチに陥らずシリアスかつ理屈抜きに楽しめる小傑作だ。続く『ブルース・ルーツ』(10月・12月/同)は注目すべき意欲作になった。オーバー・ダブを多用したサウンド志向の実験作で、両者の演奏を云々する筋合いのものではない。これもシリアスかつ聴いて楽しい小傑作だが、その栄誉はブルーベックに与えるべきだ。

 実験作が祟ったのか、ブルーベックとCBSの蜜月は終わる。そのせいだろう、精力的活動にもかかわらず残された録音は意外に少ない。マリガンがデスモンドや学生バンドと共演したライヴ録音(1969年6月/スコッティ・ブラザース)は入手難だが、追うほどのこともなかろう。『ブルーベック‐マリガン‐シンシナティ(交響楽団)』(1970年5月/デッカ)は上々の好盤だが、聴くべきはブルーベックの作編曲手腕だ。『ライヴ・アット・ザ・ベルリン・フィルハーモニー』(11月/コロンビア)が素晴らしい。マリガンが吹っ切れたかのようなアグレッシヴな熱演を繰り広げる。ブルーベック時代の最高の1枚だ。『ザ・ラスト・セット・アット・ニューポート』(1971年7月/アトランティック)には感心しない。冗長が売り?の、悪しきライヴの典型だと思う。デスモンドを加えた『ウィアー・オール・トゥギャザー・アゲイン』(1972年11月/同)はまだいいが、マリガンもデスモンドも水準だ。これでブルーベックとのチームを解消する。コラボは格好の刺激になったようだ。創造性を取り戻し、上手いから美味いに変貌、音楽の幅も広がっていく。

 1973年には歌伴の2曲とアンサンブル要員の4曲しかないが、74年には驚きの?一作をものしている。タンゴ界のドン、アストル・ピアソラと組んだ『サミット』(9月・10月/ANS)だ。ムーディでゴージャス、快適な娯楽作に仕上がった。主導権をとったのはピアソラのようで、聴くべきもピアソラだが、一皮むけたマリガンがとらえられている。『カーネギー・ホール・コンサート』(11月/CTI)はチェットとの再会を看板にしたオール・スター・セッションだ。聴き物はチェット抜きの《フォー・アン・アンフィニッシュド・ウーマン》《ソング・フォー・ストレイホーン》などの新作で、作品も演奏も斬新、マリガンの進化が知れる。チェットが加わった懐メロは、チェットも今一つとあって聴き劣りするが、ハード・バピッシュな《イッツ・サンデイ・アット・ザ・ビーチ》は快演だ。好ライヴと言えよう。周りを若手のリズム隊で固めた第三次セクステットの『アイドル・ゴシップ』(1976年10月・11月/キアロスキュロ)は新生面を開く一作になった。ニュー・サウンドを得て、マリガンの良い意味での軽さが活きる。心地よい余韻の残る小傑作だ。

 1970年代の残りはリーダー録音に恵まれなかった。ライオネル・ハンプトン(vib)の『プレゼンツ・ジェリー・マリガン』(1977年10月/フーズ・フー・イン・ジャズ)、『プレゼンツ・ザ・ミュージック・オブ・チャールズ・ミンガス』(11月/同)、ミシェル・ルグラン(p)の『ル・ジャズ・グランド』(78年3月/グリフォン)は水準+αにとどまる。わずか2曲だが、『メル・トーメ・アンド・フレンズ』(1980年6月・8月/フィネス)に聴くトーメ(vo)とのコラボが素晴らしい。続いてマリガンは久々にビッグバンド録音に臨む。『ウォーク・オン・ザ・ウォーター』(1980年9月/DRG)は80年代の代表作になった。作曲面の進境著しく美曲満載だ。プレイもエモーショナルでテンダー、感動的ですらある。1981年の秋にはオーレックス・ジャズ・フェスティヴァルで来日、ゲッツらと各地を回った。ライヴ盤は未聴だが、聴衆としては並みだったと記憶する。『ラ・メナス』(1982年/DRG)は所詮は上々の出来のサントラで、デイヴ・グルーシン(p, syn)と組んだ『リトル・ビッグ・ホーン』(1983年/GRP)は美曲揃いだが快適にして生温い。

 極上の“ジャジーな”バラード集、バリー・マニロウ(vo)の『午前2時、パラダイス・カフェ』(1984年4月/アリスタ)では数曲で心温まるソロが聴ける。懐古派スコット・ハミルトン(ts)と組んだ『ソフト・ライツ&スウィート・ミュージック』(1986年1月/コンコード)にはなんの工夫もなく、ともに可もなく不可もない。なぜこんな手合いと組むのだろう。お仕事とはいえ無定見ではなかろうか。『シンフォニック・ドリーム“アンタンテ”』(1987年2月/プロ・アート)は交響楽団を従えた大作だ。自身がペンをとったシンフォニック作はまずまずだが、他人に委ねたマリガン・メドレーはクラシカルなパロディでしかない。話は遡るが、1960年代の半ばからマリガンは痩せ我慢せず?グループにピアニストを入れるようになる。晩年はピアノ入りのクァルテットを率い、ビル・チャーラップなどが去来した。クァルテットの『ロンサム・ブールヴァード』(1989年3月・9月/A&M)には相変わらず魅力的な自作が並ぶが気楽に吹き流しただけだ。1980年代は傑作『ウォーク・オン・ザ・ウォーター』で幕を開けたが、結局はそれどまりになった。

 1990年代はヴォーカル盤を中心にゲストで招かれる機会が増える。マリガンに限らず、こうなると先は長くない。なかではジム・ホールの『ライヴ・アット・タウン・ホール』の2曲(1990年6月/ミュージック・マスターズ)が水準以上だが、物足りなくもある。マイルス九重奏団の再現版『クールの再誕生』(1992年1月/GRP)は意外にも好評を博したが、裏を返せばオリジナルがロクに聴かれてこなかったということだろう。人生の最終段階に立った者が棚卸しに走る気持ちはわからなくもないが、純然たる再現ものにはいかなる価値も見い出せない。ブラジルの歌姫、ジェーン・ドゥボックと共演した『パライソ:ジャズ・ブラジル』(1993年7月/テラーク)は極上の娯楽作にして最後の傑作になった。ドゥボックが実に素晴らしくダイレクトに胸を打つ。マリガンについては、水準どまりのプレイより名唱を引き出した作編曲の手腕を評価すべきだろう。クァルテットの『ドリーム・ア・リトル・ドリーム』(1994年4月/同)は水準作、クァルテットと豪華ゲストで臨んだ『ドラゴン・フライ』(95年4月/同)は作り物臭く意外に湿気た演奏だ。

 推薦盤をあげる前に編成または内容毎のベスト盤を列記しておこう。クァルテットではチェットと組んだ第一次の『ジェリー・マリガン・クァルテット』(ファンタジー)、ブルックと組んだ第二次の『プレイエル・コンサート第1集』、セクステットではズートらと組んだ第一次の『ア・プロフィール・オブ・ジェリー・マリガン』(マーキュリー)、ファーマーらと組んだ第二次の『ナイト・ライツ』(フィリップス)、若手と組んだ第三次の『アイドル・ゴシップ』(キアロスキュロ)、ビッグバンドでは『ア・コンサート・イン・ジャズ』(ヴァーヴ)、『ウォーク・オン・ザ・ウォーター』(DRG)、大物顔合わせでは『マリガン・ミーツ・モンク』(リヴァーサイド)、ヴォーカルものでは『パライソ:ジャズ・ブラジル』(テラーク)、ブルーベック時代では『ライヴ・アット・ザ・ベルリン・フィルハーモニー』(コロンビア)だ。10作は多いと思われるかもしれないが、マリガンの楽歴と音楽性を俯瞰するには少なくともこれくらいは必要だ。推薦盤は悩ましい。『ウォーター』『パライソ』に後ろ髪引かれつつも、畢生の名演には勝てず『ミーツ・モンク』に決めた。

 1957年は生涯で最多のセッションに参加している。「その時」の1958年も西海岸時代に次ぐ数だ。『私は死にたくない』(5月)、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル(7月)、『アニー・ロスは歌う』(9月)、クルーパ楽団の『プレイズ・ジェリー・マリガン・アレンジメンツ』(10月)、『ホワット・イズ・ゼア・トゥ・セイ?』(12月)と続く。傑作こそないものの好調だった。「その時」は写真の右端、ロイ・エルドリッジ(tp)の後ろにいる。露出を黒人に合わせたのか、やけに生白く病的だ。『サイコ』の主役に抜擢されかねない。

 マリガンは白人屈指のインプロヴァイザーとされる。演奏を仔細に追った結果、それを実感させるのは推薦盤しかなく、無数の水準作を前にしては椿事にすら思える。軽やかにスウィングすることで良しとするなら、ズートだってそう呼ばれて然るべきだ。専従者が少ないうえにライバルのチャロフやボブ・ゴードンが早世し、過大にも映る評価を招いたのではないか。屈指のインプロヴァイザーとはゲッツ・クラスを言うのだと思う。次いで第一級の作編曲者とされる。編曲については新奇な手法がウエスト・コースト・ジャズの一規範になったが、同じく兼業のブルックやアル・コーンほどの力量はない。コンサート・ジャズ・バンドの諸作でわかることだ。作曲は評価できる。とりわけ1974年からの進境は立派だ。結局、マリガンの歩みを振り返ると、都度第一級のコンボを率い、優れたビッグバンドを組織したリーダーとしての才が一番ではないかと思う。後者が実質的に解散したあともメンバーはギグに馳せ参じた。人望なしには叶うまい。寛容な人だったのだろう。それは奏者マリガンに並みの演奏を量産させたが、リーダーには望ましい資質だったと。

注:最後のギグに駆けつけたサド・ジョーンズ(tp)とメンバーのメル・ルイス(ds)はいずれこんなバンドを持ちたいものだと語りあった。1965年の暮、2人の思いは「サド・ジョーンズ‐メル・ルイス・ジャズ・オーケストラ」として実を結ぶ。

A Great Day in Harlem

2010.06.08

林 建紀のハーレム五十七士 vol.46

モダン・ジャズ|ウエスト・コースト・ジャズ  ジェリー・マリガン:Gerry Mulligan(bs, comp/arr)当時31歳 その1

 第二次大戦終結後、アメリカは敗戦国や被災国に物資を供給する“世界の工場”として繁栄を享受していた。そうした国々が復興する1940年代末には景気に翳りが見え始める。ジャズ界ではビバップはピークを過ぎ、クール・ジャズの動きはあったが、新たな展開を見い出せずにいた。そんななか、1950年に巻き起こった赤狩り旋風は文化にも打撃を与え、東海岸のジャズ界を深刻な不況が襲う。6月に朝鮮戦争が勃発するとアメリカは参戦し、西海岸の軍需産業は活況を呈する。一方、国民の娯楽志向が高まり、テレビが普及、その制作も含めハリウッドの映画界は黄金期を迎えた。スタジオの仕事に事欠かず、好況下でクラブも林立、各地のミュージシャンが西を目指す。ただ、スタジオの仕事はほぼ白人で占められた。読譜力を求められたが、正規の音楽教育を受けた黒人はまだ希だったのだ。チャーリー・パーカー(as)からビバップの洗礼を受けた同地では1940年代の終わりからスタン・ケントン楽団の出身者らがジャムに興じていた。これに移住組が加わり、やがて編曲に意を用いた、同地の風土そのものの明るく軽やかなウエスト・コースト・ジャズに形を整えていく。やはり東海岸からの都落ちで、新鋭チェット・ベイカー(tp)を擁したピアノレス・クァルテットを率いて瞬く間に人気者になったのがジェリー・マリガンだ。

 1927年4月6日、ジェラルド・ジョセフ・マリガン: Gerald Joseph Mulliganとしてニューヨークで生まれ、フィラデルフィアで育った。ピアノを手始めに、クラリネット、各種サックスを学ぶ。十代で作曲を始め、1944年から地元ラジオ局の専属バンドに編曲を提供していた。そのリーダーがエリオット・ローレンスで、1945年、楽団のニューヨーク進出にマリガンもバリトン・サックス奏者として同道する。やがて編曲者としてジーン・クルーパの目にとまり、同楽団のモダン化に貢献した。1947年の秋にはクロード・ソーンヒル楽団の編曲者になり、48年には同楽団のスモール版というべきマイルス・デイヴィス九重奏団に奏者/作編曲者として参加する。その後はソーンヒル楽団に奏者として復帰、1949年の春から夏はカイ・ウィンディグ(tb)らと組んでクラブで働いていたが、景気の悪化に伴い秋にはローレンス楽団に奏者/作編曲者として復帰した。1952年の春、不況のニューヨークを見限って西海岸に向かい、大成功を収めることになる。レコーディングにクラブ出演など、多忙を極めていたが好事魔多し、1953年の夏にドラッグで収監された。

 1954年1月に復帰するが既にチェットは独り立ち、ボブ・ブルックマイヤー(vtb)と組んだ第二次クァルテットを始動し、6月にパリに赴き熱烈歓迎を受ける。次いで相棒をジョン・アードレイ(tp)に入替え、クァルテットにブルック、ズート・シムズ(ts)が加わった第一次セクステットも並行して率いた。1958年にはアート・ファーマー(tp)を迎えた第五次クァルテットを編成し、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演、ヨーロッパを回っている。1960年の春にはビッグバンドを旗揚げし、秋にはヨーロッパを巡演した。コンサート・ホールで聴く演奏を標榜したバンドはモダン・ビッグバンド史に不滅の足跡を残すが、経済的事由から1964年に解散する。前後して1966年?まで第六次クァルテットや第二次セクステットを率い、68年から72年はデイヴ・ブルーベック(p)と行動をともにした。1976年に若手を擁した第三次セクステットを編成、長きにわたった停滞から脱すると、ヴァラエティに富む、生涯を通じても屈指の傑作や注目作をものし、音楽家として円熟した姿を示す。1996年1月20日、コネティカット州ダリエンで逝去。

 バリトンの開祖は1920年代から30年代に活躍したニューヨーク派の白人、アドリアン・ロリーニ(bass sax)だ。ハリー・カーネイもマリガンも流れを汲む。さらにマリガンはレスター・ヤング(ts)、パーカー、サージ・チャロフ(bs)の楽想も消化して、軽やかにスウィングするスタイルを確立した。ソロが聴ける最古の記録はマイルス九重奏団の放送録音で、未熟だが基本形は出来ている。生涯を通じてトーンの変化や晩年にはモーダルなアプローチも見られるが大きな変化はない。本稿では専ら残した演奏について見ていく。

 初録音は1945年6月、ローレンス楽団の放送録音だ。バリトン・サックスでクレジットされている。未聴だが、ビッグバンドでバリトン・サックスと言えば縁の下の力持ちだ。ソロを許されたとは思えず、アンサンブルに埋没して存在すら確認できまい。このあとにクルーパ楽団での作編曲(放送録音、コロンビア)が続く。《ビギン・ザ・ビギン》などのスタンダード(1946年1月/放送録音)にはダンスバンド色が残るが、《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》(5月/コロンビア)ではバップじみた白人スウィング・バンドというべき楽想を示していて、サックス・ソリにベニー・カーターの影が窺える。《ディスク・ジョッキー・ジャンプ》(1947年1月/同)ではスウィング色を払拭、白人ビッグ・バップ・バンドの好見本というべき整然とした清新なサウンドを打ち出した。作編曲者としての代表作だ。これらコロンビアの録音は『マレニウム』(コロンビア)で聴ける。1947年の秋に移ったソーンヒル楽団では《バタフライ》(10月/放送音源)が注目に値しよう。ソーンヒルのピアノをソフトなハーモニーで彩る室内楽風の佳品が20歳の手になるものとは驚きだ。

 ここまで、奏者として参加した録音はローレンス楽団の12曲(1945年/放送録音)とソーンヒル楽団の1曲(48年5月/Vディスク)しかない。1948年9月、マリガンはマイルスの九重奏団に奏者/作編曲者として加わり、「ロイヤル・ルースト」に出演する。マリガンのバリトンが聴ける初録音と見ていいだろう。実況放送録音に聴くマリガンは概してアンサンブルに埋没、半数に聴くソロは未熟で凡庸だが、軽やかな“らしさ”が出ている。《バドゥ》にはチャロフの影響が窺えて興味深い。編曲にあたった《ゴッドチャイルド》《ダーン・ザット・ドリーム》では特異な編成を活かしきれていないようだ。九重奏団の高名な『クールの誕生』セッション(1949年1月・4月)でも個性的だが凡庸、《ジェル》《ゴッドチャイルド》《ミロのヴィーナス》での編曲手腕も大したものではない。春からはカイ、ブリュー・ムーア(ts)らと行動をともにした。カイ名義のスタジオ録音(4月/ルースト、8月/ニュー・ジャズ)、ジョージ・ウォーリントン(p)名義(5月/リーガル)、ムーア名義(同月/サヴォイ)に見るべきプレイはない。どうもリズム感に難がある。

 ソーンヒル楽団のスタジオ録音(1949年7月/放送音源)では2曲でソロが聴けるが、お粗末だ。4曲で担当した編曲も凝ったものではない。というよりか、ビッグ・バンドのコンボ化で、ローレンス楽団の《エレヴェーション》(10月/コロンビア)でも同様だ。コンボ概念の導入はソーンヒル楽団のスモール版『クールの誕生』を契機に進んでいる。1950年3月にはその最終セッションに臨んだ。《デセプション》《ロッカー》には対位法を導入、ソロの出番は乏しいものの安定感を増している。6日後にはチャビー・ジャクソン(b)のビッグバンド録音(ニュー・ジャズ)に参加した。編曲にあたった1曲がダンス・バンド風なら1曲はコンボ風、それほど面白いものではない。半数で聴けるソロも普通の出来だ。1951年8月、マリガンは九重奏団を率いた初リーダー作『マリガン・プレイズ・マリガン』(プレスティッジ)の録音に臨んだ。対位法に重きを置いた編曲といい、軽快でスムースなプレイといい、初期を代表する好盤になった。《ラウンドハウス》《ケイパー》、LP片面にわたって独走する《マリガンズ・トゥー》は初期の好演と言っていいだろう。

 このあとは録音に恵まれていない。1953年の春、ニューヨークに見切りをつけ西海岸に向かう。当地ではマイルス九重奏団とソーンヒル楽団での業績が評価されていて、早々に「ヘイグ」のジャム・セッションの主役に迎えられた。やがて店から専属クァルテットの結成を持ちかけられ、リハーサルを始める。ワン・ホーンでいくはずだったが、ジミー・ロウルズ(p)がすっぽかす。レッド・ミッチェル(b)、チコ・ハミルトン(ds)と組んだ録音(6月10日/以下パシフィック・ジャズ)はこの時のものだろう。吹き流しただけの、大したものではない。6日後、マリガンはチェットと出会って意気投合し、無名の新人を相棒に抜擢する。まだピアノ入りで考えていたらしくチェットとの初録音(7月9日)はドラムレスになっている。主役はロウルズで聴く必要はない。当時、店のピアノはレッド・ノーヴォのヴァイブに置き換えられていた。ピアノに置き換える計画はなくピアノ抜きでやってみたら、なかなかいけるぜ!というわけでマリガンの進取性をくすぐった。これが結成までの経緯だ。ピアノの束縛を嫌ったという述懐は多分に後付けと見ていいだろう。

 クァルテットの初セッション(1952年8月/パシフィック・ジャズ)は試作品に近いが、《木の葉の子守唄》が大ヒット、パシフィック・ジャズの基盤を固めた。2回目(9月/ファンタジー)は会心の出来ではないか。《ライン・フォー・ライオンズ》から《バック・フォー・バークスデイル》まで、創意と覇気に溢れた快演が並んだ。3回目(10月/パシフィック・ジャズ)はやや凝りすぎた。星半分ほど落ちる。4回目のライヴ録音(1953年初め/同)は上々そうで気が抜けている。5回目(1月9日/ファンタジー)は仕掛けがすぎた。『コニッツ・ミーツ・マリガン』(23日/パシフィック・ジャズ)の主役はリー・コニッツ(as)だ。ウォームへの変貌をとらえていて見逃せない。次いでマリガンはクァルテットを軸としたテンテットのセッション(29日/キャピトル、『モダン・サウンズ』に収録)に臨む。対位法が主体のクァルテットの音楽性と音域の広いハーモニーを狙ったマイルス九重奏団の楽想を融合した、初期の最良の成果だ。同盤に併録されたショーティ・ロジャース(tp)の演奏と並んで、ウエスト・コースト・ジャズの一つの規範になった。

 コニッツとの2回目(1953年1月30日/パシフィック・ジャズ)は芳しくなく、テンテットの2回目(31日/キャピトル)はクァルテットとマリガンのピアノが主役とあって感心しない。これに限らないが、下手なデイヴ・ブルーベックみたいなピアノをどうして誰もやめさせなかったのだろう。コニッツとの3回目(2月/以下パシフィック・ジャズ)、クァルテットの6回目(同月)、7回目(3月)、8回目(4月)は水準、9回目(同月)では演奏がパターン化されてなんのスリルもない。10回目(5月/GNP)は水準ないし好演、11回目のライヴ録音(同月/以下パシフィック・ジャズ)はまずまず、チェットが腕を上げている。翌6月、マリガンが収監され、クァルテットは消滅した。『オリジナル・ジェリー・マリガン・クァルテット』は未だにマリガンの代表作の筆頭にあげられるが、とっくに色褪せている。小編成でピアノレスとくればそれぞれの創造性がものを言うが、当時のチェットにはこれが精一杯で、早々にパターン化(陳腐化)に転じたのだと思う。歴史的な価値にとらわれず、そろそろ音楽そのものに目を向けるべきではないだろうか。

 マリガンをウエスト・コースト・ジャズで括る常識?にも不服だ。クァルテットがその第1頁を飾り、マリガンの手法が規範になったのは厳然たる事実なので混乱を避けてウエスト・コースト・ジャズに括ったが本音は違う。同地での実働が1年しかなく他人名義の録音がロジャースの4曲しかないという事実を持ち出さずとも、クァルテットの軽快だが湿りを帯びたほの暗いサウンドはカラッと爽快なウエスト・コースト・ジャズとは異質だ。東海岸の白人ジャズの系譜に連なるものだと思う。こうした音楽性はブルックマイヤーと組んだ第二次クァルテットでより明瞭になる。パリでのライヴ『プレイエル・コンサート第1集』(1954年6月/ヴォーグ)が初記録だ。聴衆の熱狂にウソはない。《モーテル》を筆頭に活気と寛ぎに満ち、自然なスウィング感が覆っている。功労者はブルックだ。マリガンやスタン・ゲッツ(ts)が好んで組んだことを疑問視する方があるが、ここでのグループの一体感と高い音楽性が秀でた楽才の持ち主だと教えてくれる。低音楽器の組合せを揶揄する声もあるが、ブルックが高音域にシフトしていることを見落としてはなるまい。

 プレイエルでの初日の残りと後日の模様を収めた『第2集』(同月)はやや落ちるようだ。『カリフォルニア・コンサート第1集』(1954年11月/以下パシフィック・ジャズ)には相棒がアードレイに替わる第三次クァルテットの演奏を収める。それほど凝った作りではなく、好ましい出来の水準作だ。『第2集』(1954年12月/同)は5曲がクァルテットの、8曲はブルック、ズートを加えた第一次セクステットの演奏(半数はピックアップ・メンバー)になっている。クァルテット演奏はかなり良く、セクステット演奏は快活な気分に溢れ、メンバーの闊達なソロに4管の織り成す暖かいブレンドなど、聴き所の多い快演が並ぶ。マリガンのピアノも苦にならない。ジョン・グラス(frh)の『ジャズ・スタジオ3』(同月/デッカ)でまあまあの演奏を残したあと、録音は途絶える。その間にローレンス楽団『プレイズ・ジェリー・マリガン』(1955年3月・7月/ファンタジー)にスコアを提供している。トゥッティ(全合奏)にソリに、ブラスに重きを置いているが、もとよりビッグバンドの醍醐味を満喫できるようなものではない。3月の4曲は上出来だと思う。

 マリガンの録音に戻ろう。1955年7月のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルでは久々にチェットと組んでいる。チェットの進境著しく、両者が組んだ中でも屈指の快演になった。同時期にはケントン楽団に《ライムライト》を提供している。ケントンはビッグバンドらしからぬ手法を好まなかった由だが、やはりブラスに重きを置き、のちに率いたビッグバンドを思わせる作風で興味深い。9月、第一次セクステットのスタジオ・セッションが始まる。初回が最上で快演級が並ぶ。入念な処理が施され、セクステットの進化が知れる。2回目(翌日)と3回目(10月)は好演、4回目(1956年1月)は水準、5回目(9月)は準快演だ。1回目の《デューク・エリントン・メドレー》や5回目の《ラ・プリュ・ク・ラント》の精妙なアンサンブルにはデュークやビリー・ストレイホーンの影が窺える。これらは『プリゼンティング・ジェリー・マリガン・セクステット』『メインストリーム・オブ・ジャズ』(エマーシー)、『ア・プロフィール・オブ・ジェリー・マリガン』(マーキュリー)に分散収録されて厄介だが、結果的に『プロフィール』の粒が揃った。

 クァルテットの『アット・ストーリーヴィル』(1956年12月/ワールド・パシフィック)ではブルックが返り咲く。悪かろうはずがない。まとまりがよく、スウィンギーで寛ぎに満ちた好ライヴだ。ブルックも光る。1957年は概して低調、気楽にスウィングするだけの演奏が支配的だ。マニー・アルバム(arr)の『ジャズ・グレーツ・オブ・アワ・タイム』(4月/コーラル)、臨時編成の大型コンボを率いた『ジ・アレンジャー』(同月/コロンビア、『マレニウム』に収録)はせいぜい水準で、『ライヴ・イン・ストックホルム1957』(5月/ムーン)ではブルックともども詰まらない。8月には大物顔合わせセッションが打ち続く。『ジャズ・ジャイアンツ’58』(1日/ヴァーヴ)では平凡で、『ブルース・イン・タイム』(2日/同)ではポール・デスモンド(as)の想像力に遠く及ばない。そんななか、『マリガン・ミーツ・モンク』(12日・13日/リヴァーサイド)は異例の、さらには生涯屈指の傑作になった。モンクの凄味に本気モードになったのだと見る。両者の張り詰めた気配が伝わる。インプロヴァイザーとしてのマリガンに本作での演奏を凌ぐものはない。

 同月のロスでのライヴ『イン・コンサート』(8月27日/パブロ)では少しましだが、デスモンドとの2回目(同日?/ヴァーヴ)では呑気者に戻ってしまう。『ゲッツ・ミーツ・マリガン』(10月/同)でもゲッツの創造性にはほど遠い。12月にやや持ち直す。『リユニオン・ウィズ・チェット・ベイカー』(パシフィック・ジャズ)での両者に往時の挑戦的な覇気はないが、ともに音楽的な成熟を見せる。半数は準快演ないし快演に値する好盤だ。『ジェリー・マリガン・ソングブック』(ワールド・パシフィック)は5サックスが主軸のオクテット作で、編曲はビル・ホルマンに委ねている。ホルマンはマリガンのコンボ風の編曲手法をウエスト・コースト・ジャズで花開かせた第一人者だ。結果的にややウエスト・コースト・ジャズ風に響くのは無理もない。アンサンブル良し、ソロ良し、聴いて楽しい準快作と言えよう。内緒だが、アル・コーンのバリトンはマリガンより好ましいと思う。『アニー・ロスは歌う』のチェットと組んだ1回目(同月/同)はインティメイトでありかったるくもある。伴奏がワン・パターンなら、マリガンもチェットもお仕事モードだ。

 1958年、ファーマーと組んだ第五次クァルテットが始動する。第一弾は映画『私は死にたくない』のサウンドトラック(5月/UA)だ。聴後の印象に乏しいがともに好調で、ジャズを使った映画音楽の成功例ではある。このあとは記録映画『真夏の夜のジャズ』で有名な1958年のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演、マリアン・マクパートランド・トリオと組んだ2曲と、クァルテットの8曲が残されている。マリガンは珍しくグルーヴィーでドライヴィング、なかなか快調だ。『コンプリート・アット・ニューポート1958』(RLR)で聴ける。続く『アニー・ロスは歌う』の2回目(9月/ワールド・パシフィック)は前回とは様変わり、歌に演奏に編曲と、三拍子揃った名セッションになった。次いでクルーパ楽団の『プレイズ・ジェリー・マリガン・アレンジメンツ』(10月/ヴァーヴ)のペンをとっている。モダンだがオーソドックスで古臭い面も見られるがモダン・ビッグバンドの快作だ。第五次クァルテットの代表作とされる『ホワット・イズ・ゼア・トゥ・セイ?』(12月・1959年1月/コロンビア)は手が込みすぎた。せいぜい秀作だ。

 1959年にはクァルテットを率いてヨーロッパを巡演している。コンサートの記録『アメリカンズ・イン・スウェーデン』(5月/タックス)、『ア・ナイト・イン・ローマ第1集&第2集』(6月/フィニ・ジャズ)では良くも悪くも手馴れた感が否めず、水準にとどまる。帰米後は聴く価値のないアンドレ・プレヴィン作編曲の『サブタラニアンズ』のサウンドトラック(夏/MGM)にファーマーと参加したあと、久々に大物顔合わせセッションが続いた。『ミーツ・ベン・ウェブスター』(11月・12月/ヴァーヴ)と『ミーツ・ジョニー・ホッジス』(11月/同)だ。先輩たちが悠々とマイペースなのは結構だ。彼らには無類の歌心もグルーヴもあった。マリガンはあわせたつもりなのだろうが、それらを欠いていてスウィンギーなだけに終わっている。お仕事モードだったのだろうか。これまで見てきたように、リーダー録音でも気の抜けた演奏はままあった。思うに、滅多に燃えない屈託のない人だったのではなかろうか。イージーなセッティングの大物顔合わせでそれが顕著に現れたと。ともあれ1950年代の後半は一進一退だったと言える。1960年代に進めよう。
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