ひどく懐かしいが実在したとは限らない過去の情景、
あるいはその再編成されたイメージを聞き手の心に喚起する
実家の近所には石神井公園という公園があって、そこには三宝寺池という大きな池がある。湧き水が出ているので冬も凍らず、白鳥が越冬のために飛んできたりもする。十数年前には、ワニだかワニガメだかが目撃されて大騒ぎになったこともあった。そして結局うやむやのまま終わった。いつものことだが。子供のころ、わたしは近所の友達とよく三宝寺池へザリガニを釣りに出かけたものだ。公園内の茶店でサキイカの切れ端をもらい、たこ糸に結びつけて池に垂らすのだ。ザリガニはあれで相当ずるがしこく、なかなか餌には食いついてくれない。隙あらばわたしたちを出し抜いて餌だけを奪いとり、さっさと池の縁のすみかに逃げ込んでしまう。釣れるのはわたしたちと同じくらいとんまで辛抱のない、ダボハゼという小魚ばかりだった。
そんなある日、相変わらずザリガニが釣れずにふてくされているわたしたちのところへ一人の男が歩み寄ってきた。おにいさんというにはとうが立ちすぎていたが、おじいさんというほどの歳ではなかったと思う。
その男はザリガニ釣りの天才だった。とにかくよく釣れた。あっという間に十匹は釣り上げたはずだ。そもそもそこに十匹もザリガニがいたこと自体驚くべきことだった。わたしたちは文字通り口をぽっかり開けて感心していた。彼はわたしたちにザリガニ釣りのこつを伝授して、颯爽と、来たときよりも心なしか肩をそびやかして去っていった。彼によれば、ザリガニが潜んでいる穴の前でイカに結んだ糸を引き、餌をぴょんぴょん上下させることが重要なのだと言う。言われた通りにやってみたが、どうしても彼のようにはうまく釣り上げることができなかった。
最近でも、こどもたちは三宝寺池でザリガニを釣っているのだろうか。ザリガニやダボハゼたちは、今もあそこで餌が下りてくるのを虎視眈々と狙っているのだろうか。それにしても、平日の真っ昼間、延々とこどもたちにザリガニの釣り方を教えていたあの人は、いったい何者だったのだろう。
市野元彦のアルバム、『Time Flows (Like Water)』には、「Sanpoji-Ike」という曲が収録されている。ライナーノーツによれば、彼も以前石神井公園の近所に住んでいて、そこからタイトルをつけたのだと言う。石神井公園ともザリガニとも、あるいは近所の友達とも縁遠くなってもう20年以上になるが、この曲を聴いて、唐突に、かつての三宝寺池でのザリガニ釣りの一部始終を思い出した。
わたしには、この音楽は、ビル・フリゼルやジョン・アバークロンビー、あるいはポール・モチアンといった人々がかつて80年代から90年代に展開したような、ある種の音楽と同質のものに聞こえる。静かな曲調、音色やテクスチャーへのこだわりといった表面的な類似もあるが、音楽によって描き出そうとしている表現の内実そのものがよく似ているように思われるのである。彼らの音楽には、かつてジャズと呼ばれていた音楽の最良の部分が持ち合わせていたような、聞き手を否応なしに作品世界へと引きずり込む暴力的な吸引力やシンプルな高揚は存在しない。その代わり、彼らの音楽はあたかも触媒のように、ひどく懐かしいが必ずしも実在したとは限らない過去の情景、あるいはその再編成されたイメージを、聞き手の心に喚起することができるのである。それだけに、リスナーに対しては通常以上に注意深い聴取を強いるところがあるのは否定できない。ようするに、これらはリスナーからの歩み寄りを必要とするタイプの音楽なのである。ややもするとこの種の音楽は平板で退屈なものになりがちだが、例によって外山明の瞬発力抜群のドラミングが起伏と緊張感を与え、押しつけがましくなることなく全体をきゅっと軽く引き締めている。
おそらく、これは好みが分かれるアルバムなのではないかと思う。わたしは、あまり新味は無いにせよ、現在の空気を反映した優れた音楽だと思った。



