ゆらぎ、ふるえつつ耳を撫でさする音楽。
外山明のドラミングがすばらしい
この作品については「スイングジャーナル」2008年12月号でレビューを書いた。というわけで、この文章はそのロング・ヴァージョンになってしまうのだが、そこはお許しを。まるで蜘蛛が体内から紡ぎ出す糸のように輝きつつ長く伸び、あるいは寡黙な少年がやっとのことで愛を告げるようにもぞもぞと口ごもり、ある局面では時空のキャンバスに半透明の絵の具で幻想的な光景を描き出すギター。
ジャズ・ギターが「線」ではなく「面」を十全に表現できるようになったのは、ビル・フリゼール以降のことではないかと思うのだが、そういう意味では、市野の演奏は明らかに「フリゼール以後」のものだ。もちろん、ジム・ホール、さらに遡るとエディ・ラングから市野に至るまで綿々と続く「もうひとつのジャズ・ギターの系譜」というものはあるのだが、ゆらぎ、ふるえつつ、かたちを次々に変化させ、ソロとバッキング(それを「地と図」と呼んでもいい)の区別を曖昧にする演奏を自覚的に実践する市野の試みは、たとえばベン・モンダーがそうであるように、フリゼールが切り開いた感覚と技術を、さらに発展させようという意図を強く感じさせる。
ギターが描く「音の絵」に、さまざまなかたちで切れ込みを入れ、触発するドラムス。鋭さと柔らかさが同居する音色で、ギターに寄り添い、あるいは突き放すクラリネット。重厚なトーンで演奏の重心を下げ、水底に沈む巨岩のような存在感を感じさせるベース。市野を中心としたこのカルテットの演奏は、たとえばブルックリンやビレッジのクラブで日々行われている「今のニューヨーク・ジャズ」にきわめて類似したテイストを持っている。
誤解を恐れずに言えば、ここで市野たちが演奏している音楽は、ポール・モチアンのトリオ(ビル・フリゼール、ジョー・ロバーノ)が80年代から演奏し、いつのまにか少なくない数のミュージシャンたちが共有するようになった、触覚的に耳を撫でさすり、リズムや音のテクスチュアが可塑的に変型し、アメーバ状にゆっくりと拡がっていくサウンドの系譜に繋がるものだ。
個人的な驚きのひとつは、こうしたサウンドの中で聴く外山明のドラミングが、ポール・モチアンの演奏と共通の発想を感じさせたこと。外山の演奏は、どんなバンドにあっても、新鮮な驚きと喜びを聴き手に与えてくれるのだが、ここでの彼のプレイは、いつにも増してフレッシュであり、それでいてこのグループの音楽にとてもつきづきしくフィットしている。ドラムスという楽器の可能性を更新する、すばらしい演奏だと思う。



