後藤雅洋×益子博之 往復書簡「ジャズにおける身体感覚の変容と認識の切断面 再考」 vol.29
これまで曖昧に併記していた「認識の切断面」と「身体感覚の変容」とは異なる位相にある。
相澤さんは私の「パーカー体験」を、ご自身のアート・アンサンブル・オブ・シカゴ体験や、菊地さんや谷崎の短編内の描写などと同様の「体験」とお考えのようですが、どうなんでしょう。というのも、私自身もA.E.C.の初来日公演を見、大いに認識を新たにしましたが、その体験とパーカー体験は微妙に異なっているのです。
A.E.C.はライヴ以前からレコードを聴いて知っていましたが、レコードからは特に感銘は受けなかったものが、ライヴで目からウロコ的に彼らの凄さを実感しました。それに対し、パーカーは最初から最後まで(当然ですが)レコード体験ですが、当初何の感銘も受けなかった「同じトラックから」ある日「非連続的に」感銘を受けるように「身体感覚」が変容したのです。
つまり、A.E.C.体験は受容した感覚自体が別物(時間的に隔てられ、演奏内容も異なるレコードとライヴの体験)であるのに対し、パーカー体験は、受容した感覚自体は、理屈の上からは同様であるのです。つまりこれは、私自身の身体感覚が、せいぜい1~2週間の連続した聴取体験によって変容したとしか思えないのです。
他人の内面を想像するのは危険ですが、菊地さんのバカラック、谷崎のピアノ体験、そして相澤さんのA.E.C.体験に近いのではないかと思えるのは、私の場合ビートルズでしょうか。63年か64年ですから高校生の頃聴いた《ハード・デイズ・ナイト》は、私にとって「まったく違う(未聴のという意味)音楽の体験」であるにも関わらず、最初の一音でその中に入り込めました。つまり、私(たち)の「身体感覚」はすでに準備されていた。
要するに私が言いたいのは、(時代の音である)ビートルズ体験は世代論に還元できるかもしれないが、私のパーカー体験は少々意味が違うように思えるのです。「学習せず理解できた音楽」すなわち、ある世代の身体感覚がそれを受け入れる準備が整っていた音楽であるビートルズと、こちらの身体感覚をフィットさせるのに少しばかりエクササイズが必要な音楽であるパーカーとの違いです。
以上が前ふりで、これから本論に入ります。まず従来からの議論では「認識の切断面」「身体感覚の変容」と曖昧に併記していましたが、私の考えでは、両者は異なる位相にある。より本質的(より深層構造であるという意味)なのは「身体感覚の変容」で、それが「原因」で、「認識」が変化する、(のではないか)と私は考えています。以前話題になった「身分け」「言分け」という用語に従えば、より深層的である身分け構造の変化が、人間の言語的な外界把握をも変容させている、すなわち「認識」を変えているということです。
その「身体感覚」ですが、これは当然時代、文化によって変化すると考えられますが、今私たちが問題にしているのは時間軸に沿った変容なので、それが世代論的様相を見せることは不思議ではないでしょう。しかし、すべてを世代論としてしまうと、近頃では5年サイクルぐらいで小規模に「変容」が起きているようにも思え、それでは「時代とともに音楽が変化する」という、ごく当たり前の話になってしまいます。
私が問題にしているのはそうした小規模な変化ではなく、もっと大きな(というか本質的な)、その前後で「認識」にまで変化が起きてしまうような切断面のことを言っています。また、それは個人的な問題ではなく、ある時代層を境とした「世代」全体の変化についての話です。ただ、そこで難しいのは、当然その大きな時代、世代を貫く変化の内部で、それとは位相の異なる(と思える)個人的変容もまた起きているであろうからです。断言は出来ませんが、私のパーカー体験は大きな切断面の内部での、個人的身体感覚の変容ではないのだろうか。つまりこれは個人的な「学習」の問題であって、私たちが問題にしている「切断面」ではないのではないでしょうか。
あまりうまく話が展開できているとは思いませんが、要するに「学習の上で獲得する身体感覚」と「無意識のうちに身についている身体感覚」は、分けて考えなければいけないのではないか。そして、今私たちが問題にしている「認識の切断面」に繋がるのは、後者の「無意識のうちに獲得している身体感覚の変容」ではないのか、というのが私の今の感触なのです。このあたりについて、相澤さん、益子さんのお考えをお聞かせ願えればと思います。


