live review / ライブレビュー
2010.04.05
FESTIVAL NEO-VOICE #1 ヴォイスの挑戦

2010年3月29日(月) 青山円形劇場
ソロヴォイス・パフォーマンス:
天鼓 さがゆき 蜂谷真紀 巻上公一 灰野敬二 吉田アミ (映像:遠藤正典)
ヴォイス・ムーヴィー:
鈴木美紀子 徳久ウィリアム アキラサネマツ 檜山ゆうこ

「完全即興」の両面性、自然で圧倒的な高揚感と、
その反面の「息切れ」状況がともに見えたように思えた。

3月29日青山の円形劇場で開かれた『FESTIVAL NEO-VOICE #1』を見に行こうと思ったのは、先日このスペースでもご紹介した吉祥寺『サウンド・カフェ・ズミ』での北里義之さん主宰の講演会『日本初のヴォイス・フェスティヴァル』がきっかけだった。その日の巻上公一さん、天鼓さん、吉田アミさんのお話があまりに面白く、これは話を聞くだけで済ましたら後悔すると、急遽お三方を含めた6名の出演者による、各々のソロ・パフォーマンスを見に行こうと思いついたわけだ。

百聞は一見にしかずとはまさに的を射た言いようで、世間で「ヴォイス」とか、「ヴォイス・パフォーマンッス」と呼ばれているものの多様性が、この日の舞台で実感できた。もちろんこうした公演を数多く見ているわけではない私の感想なので、見当外れも多々あろうかと思うが、それはシロウトのご愛嬌とご容赦ください。

6名の出演者のうち、やはり華というか存在感のあるのは灰野敬二、巻上公一、天鼓の3人で、それぞれの立ち姿は、出身母体の違いを反映しつつも、出てきただけで聴衆の注意を惹きつける力がある。

灰野さんは歌というかシャウトというか、まあ大きく言えば「音楽」の延長上のようにも思える声の扱い方でヴォイス・パフォーマンスを行い、3本のおそらく特性の異なるマイクを、テクニックを駆使して使い分け、こんな声が良く出るものだと思わせる凄まじい声の技法の限りを披露してくれた。

巻上さんは歌謡的な声の使い方もするけれど、基本は「音の面白さ」を狙っているように思える。擬音語のような擬態語のようなものも、それらの「音」がもつ、即物的な面白さがジェスチャーを交え、ある意味で芸能的に披露される。とにかく巧い。ズミでの講演の際は「サービスはしない」と言っていたが、サービスと自己表現の巧みなバランスが巻上さんの身上ではなかろうか。というか、観客を面白がらせようというより、ご本人が「音の面白さ」にハマっているが故の、「面白さ」なのだろう。悪い意味ではなく、一番わかりやすく、かつ完成されているのが巻上さんのパフォーマンスであった。

最後のトリをとった天鼓さんのステージは、圧倒的だった。舞台に彼女が出てくるだけで一種のオーラが感じられる。まったく無根拠に思い出されたのが、何十年も前バルバラが来日したとき、たまたま彼女が風邪で声が出ず、舞台で歌えない旨を謝罪するという異例の場だったが、歌わずとも現れる存在感に驚いた記憶がある。それに近いものを感じたのだ。

天鼓さんはステージに上がるまで何をやるか事前に決めるようなことはしない、また、いわゆる感情移入も行わず、どういうヴォイスを出そうかという一点しか頭には無い、と『ズミ』の講演で語っていたが、完全即興であることは直ちに了解できた。ただ、ご本人は感情移入してはいないのだろうが、「声」というものの持つ抗い難い特質(いやでも何らかの「感情」のようなものが表出されてしまう)と、ダンスに近い身体表現が組み合わさったステージは、どうしてもある種の情動を喚起させられてしまう。というか、それ自体が彼女の表現なのだろう。

ただ、このステージでは、「完全即興」というものの両面性が現れたように思える。つまり、即興であるが故の自然で圧倒的な高揚感と、当然その反面の「息切れ」状況がともに見えたように思えるのだ。事前に何も考えず、あたかも「神が降りてくるのを待つようにして」ヴォイスを扱う天鼓さんの身体から発する、異様な集中力ゆえの吸引力が場を支配し、さして大きな声でなくとも聴衆の意識は彼女に集中する。これは凄かった。

その反面、即興であるがためにすでに表現しつくしてしまったとしても、ステージの時間枠でもう少しやらなければならないとしたら、それは緊張感が途切れはしないだろうか。まったくの憶測でしかないが、ステージの後半、ここで終えたら万雷の拍手、というところで終わらず、しばし「その先」があったが、明らかにそれ以降、観客の集中力が減退してしまったのだ。まあ、それも含めて「即興」というものだろう。

ところで、ある意味で一番過激かつアヴァンギャルドだと思えたのが、吉田アミさんだった。「ハウリング・ヴォイス」というのだろうか、子供の頃見た怪獣映画『ラドン』の絶叫のようでもあり、また、機械音のようにも思える、当然歌でもなければことばでもない「音響」を発する彼女のステージは、単調といえば単調なのだけど、「人声」が否応も無く喚起してしまう「人間性」を、どこまで排除して「音そのもの」に近づけるのかという実験を見る思いなのだ。これは壮絶だった。

蜂谷真紀さんの行き方は、明らかに「ことば」を意識していた。具体的に言えば、決してラテン系でもなくアジア圏でもなく、あたかも東欧域のどこかの言語「のように聞こえる」、しかし、完全に架空の言語「のようなもの」によるパフォーマンスは、シニフィアンなきシニフィエではないが、いやでも「この人の頭の中はどうなっているのだろう」と思わせる。即興には違いなかろうが、明らかに一貫性を感じさせる「偽言語」は、事前の周到な訓練が無ければ使いこなせるはずがなかろう。つまり、その「偽言語」としての「パーツ」を生み出す作業はそうとうに意識的な作業なのではなかろうか。

さがゆきさんのステージは、誤解を恐れずに言えば、少しばかり外界との関係に不整合を来たしてしまった方々を演じる典型例に似ていなくもない。言語的な、ともおもえる(失語症的)痙攣は、蜂谷さんのスタイルと共通項を感じさせたりもしたが、当然狙いは違うのだと思う。しかしその違いを巧く言い当てることは今の私には荷が重過ぎる。

最後にドシロウトの感想を述べると、この分野は表現というものの極致にあるように思った。つまりダンス、舞踏は身体表現という枠、歌は文字通り歌うことという枠があるので、逆に受け手も暗黙の理解の枠組みを作りやすいが、ヴォイス・パフォーマンスは何でもありなだけに、どのような受け取り方も出来る反面、「誤読」の可能性も高まるように思える。

それが露になったと思える一例を挙げると、灰野さんのステージの最中、まったく脈絡無く観客席の一部から笑いが起こったのだ。まあ、私の観察が鈍いのかもしれないが、少なくともその場面は笑うようなところではない。灰野さんも「はてな」と思ったのではなかろうか。

とは言え、「理解、受容の枠組み」の前提となると思われるパフォーマー自体の姿勢も、それぞれずいぶん違うように思えるのだ。つまり、人によって表現しようとしているものが大きく違うように思える。もちろんこれは個々のステージが異なるという意味ではない。

たとえば、声を音として聴かせたいのではないかと思える人には吉田さんがいる一方、蜂谷さんは架空ではあっても、どうしたって「ことば」との類似を連想される声の使い方をしている。この二人を同じ視点から論評することは難しいように思える。極論すれば同じ声という道具立てを使っていても「ジャンルが違う」ようにも思えるのだ。

また、灰野さんと巻上さんだって、どちらも声の究極の技法を駆使しているとは言っても、どちらかというと灰野さんのステージが音楽との隣接性を感じさせるのに対し、巻上さんの声使いは演劇空間に近いように思える。

また、蜂谷さん、さがゆきさんと天鼓さんだって、部分的には似たような印象を持つ瞬間もあるのだけど、どこか「表現の方向」自体が異質であるように思える。

つまりはこの「声」の表現ジャンルは、少なくともジャズのように「演奏の良し悪し」といったシンプルな基準軸でどうこう言うこと自体が難しい。要するに、その人がいったい何を、あるいはどういったものを表現しようということの見極め自体が、ジャズなどより難しいのだ。しかし、そのことを裏返せば、まだまだ未開拓の沃野が広がっている分野であると言えるように思えるし、観客にとっては、ありうべき多様な表現の枠組みを探索する面白さがある世界とも言えるわけだ。

まあ、シロウトの初体験だけに見当外れは多々あることかと思うが、平にご容赦。
(後藤雅洋)


FESTIVAL NEO-VOICE #1
青山円形劇場

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