福島恵一音盤レクチャー「耳の枠はずし−不定形の聴取に向けて」 第3回:アンフォルム 空間の侵食2010年4月25日(日) 吉祥寺 サウンド・カフェ・ズミ |
音楽とか、演奏といった概念自体に揺さぶりをかける、
音そのものが喚起するさまざまな心象、想念の数々。
4月25日、日曜日午後3時から吉祥寺の『サウンドカフェ・ズミ』で行われた、福島恵一氏の講演『耳の枠はずし』シリーズ、第3回『アンフォルム 空間の侵食』を聞きに行った。今回はその「報告」、というより、紹介された音源、お話を聞きながら心によぎったさまざまなことごとを、そのときにとったメモを参照しつつ書き記してみたい。『耳の枠はずし』第2回『野生の耳がとらえる音景』は所用で欠席してしまったので、今回の講演のテーマ「第1回のデレク・ベイリーと、第2回のさまざまなトラッド音楽の二つの流れを、改めて『不定形の聴取』の視点からとらえなおす」を完全に消化できたわけではないが、それでも、今回の主要アーティスト、ミシェル・ドネダ周辺のミュージシャンが出す音からは、実に有益な思考の種を受け取った。
今回の「音」はすべて面白かった。「音楽」あるいは「演奏」ではなく「音」としたのは、福島さんが提示した音源は、音楽とか、演奏といった私たちが暗黙の前提としている概念自体に揺さぶりをかけるものだったからだ。また、「面白い」というのも、「名演に感動した」というようなことではなく、音そのものが喚起するさまざまな心象、想念の数々が非常に興味深いものであったということである。
福島さんの「話」もまた、実に多くの個人的関心事を喚起した。以下、メモ的に書き連ねる。最初にお断りしておけば、すべて福島さんのお話に導かれた私の感想だが、どの部分が福島さんの話で、どこからが私の感想なのかについては、境界が曖昧になっているところがあるかもしれないので、全部が福島さんの発言と誤解しないでいただきたい。
まず眼と耳の原理的違いについて。ドネダの音を聴いていて感じたのは「気配」だった。で、気配というとまず頭をよぎるのは「探る」「探索する」ということ。たとえば、樹木によって視界を遮られた森の茂みの中で得物を追う猟師が、「耳」で動物の気配を探るというような状況である。
この場合、「眼」はあまり役に立たない。そしてそういうときの「耳」は、単に音を受動的に聴くのではなく、能動的、積極的に森のざわめきの中から得物の発する音を探索しなければならない。つまり「気配」の「音楽」は、こちらから音のありか、形、意味を探索しなければ本来の姿を現さない。もちろん、「本来」などというのはことばの綾で、そこでは多様、かつ重層的な聴取がありうるだろう。そしてそれは「聴くこと」の可能性の拡大であり、まさに「耳の枠はずし」だ。
続いて「空間による侵食」という概念が提出され、それに絡んで美術評論家ロザリンド・クラウスの発言が引用される。また、形態に対する知覚に揺さぶりをかけるバタイユの「ドキュマン」からの写真を提示するなど、従来の「音楽評論」の枠を超える議論の展開は実に刺激的。
同じくドネダの『Montsegur』(Puffskydd, 2003)は、「音」「音楽」「聴く」といった、すでに知っているはずのことごとに対する概念の変更を迫るものだった。こうした「演奏」に寄り添うには、演奏者の「共犯者とならざるを得ない」という言い方を福島さんはしていたが、まさしく、当たり前に見えていたものが、突如見ず知らずの相貌を見せ始めたような戸惑いと驚きを聴き手に与える音だ。
これもドネダの『Salsigne』(Puffskydd, 2004)は、蒸気機関車のような機械音と息遣いの人為的な音が交錯する異様なサウンドだが、種明かしをするとなんと風力発電の風車の音と、ドネダの演奏だとのこと。こうした意表を突く「音の尻尾をどのようにして捉えるのか?(福島発言)」という問題提起は、私たちがcom-postで議論している「最近のジャズのわかりにくさ」を読み解く上でも重要なヒントになるように思える。
次はデレク・ベイリーと田中泯の雨中の録音『Music and Dance』(Revenant, 1980)。こういうものを聴くといやでも音について考えざるを得ない。ここでマクルーハンの聴覚と触覚についての話題が出る。これもまた益子さんのテーマに繋がる。
ジョン・ブッチャーが洞窟やオイルタンクの中で演奏した『Resonant Spaces』(Confront, 2006)を聴いて思ったこと。音体験の多様性、つまり私たちの日常の聴取体験には実にさまざまな位相があるのだが、それらの違いをおそらく私たちは意識していない。この音源もまた私に「聴くこと」「考えること」といった根源的な問題を指し示す。メモには「“身体の音”ではない、では何の音か? 空間それ自体の音? ノイズと音楽の境界、ノイズと音楽の接点、融合」などと書かれている。ともあれこれは空間を照らし出す演奏だ。
斉藤徹とドネダの『Spring Road』(Scissors, 2001)を聴いているときのメモ。「音楽? サウンド? 効果音? ノイズ? 視覚を奪われていること自体が想像力を喚起する。聴くことの意味のさまざまな位相」などなど。
もう、あまりにも刺激が多すぎたのでまだ頭の中がまったくまとまっていないのだが、とりあえずこれらの「音」が私に与えてくれた「思考」は、まず「五感の中で聴覚の占める位置、意味」ということ。これは視覚との対比、話題になっている触覚との関係なども含むが、要するに「音」とは何だろう、「聴く」とはどういうことだろうという根源的問題。
つまり、環境音(森の環境音、都市の環境音など)、人為的生活音(洗濯の音や足音など)、ことば(日本語、外国語)、音楽(楽器の音、それ以外の音)、ノイズといった多様な「音」を、私たちはそれぞれ日常的に意識的、あるいは無意識に「聴いて」いるのだが、そうした実に多様かつ重層的な聴取体験の意味はそれぞれ間違いなく異なるはずなのに、私たちはそうした問題についてまだほとんど掴みきれていないのではないだろうか。ここのところをもう少し明確にすれば、「音楽」に対する理解の幅も間違いなく豊かなものになるに違いない。
あまりに雑多でとうてい論理的とはいえない「感想」ですが、いずれこの体験がもう少し煮詰まれば「何か」が見えてくるように思えます。そうした知的刺激に満ちた機会を与えてくれた福島さんに感謝!
福島恵一ブログ「耳の枠はずし」
Sound Cafe dzumi


