天鼓×巻上公一 往復書簡「ヴォイスの挑戦」 vol.04
声そしてイメージ
ホーメイの故郷でもあるトゥバに行くと、ことあるごとにシャーマンが登場する。ホーメイがシャーマンと関係あるというより、土地そのものがシャーマンと結びついてるようだよ。
トゥバの知り合いの家に、はじめて面倒になった時、夕方、アタッシュケースを持った人がやってきた。何かのセールスマンなのかと思ったら、そのケースから取り出したのは。熊の手だった。ぼくや妻や友人はイスに座らされて、熊の手でなでられたり、鉄の計測器のようなものをあてられて、回転させたり、どうも魂の状態を見ているようだけど、妙だった。鉄の計測器がくるくると回ればオーケー、くすぶればイマイチ、という判断。判定は全員イマイチ。からだのそこかしこに息を吹きかける。「くわぁ」なんて声を出しての祈祷のようなもの。そして、もう一度診断。今度はくるくる回った。外から人が穢れを持ってくると思っているんだろうな。それからもう何人シャーマンに会ったかわからないくらい。いったい何人いるんだろう。
シャーマンでホーメイをする人もいる。日常の中にない声は確かに異界と繋がっていると思うけど、ホーメイの歌手がシャーマンであることは少ない。チベット仏教の聲明と関連付ける人もいるけど、ホーメイの起源は仏教が伝来するより前であるという、トゥバの学者の意見に賛同したい。それはホーメイの基本の技法からもみてとれる。
ホーメイは風の模倣、ボルバンナディルは水の流れの模倣、エゼンギレールは馬の鐙の音、カルグラはヤクの声、スグットは口笛の響き。これらはトゥバ人の生活に根ざした音色であるからだ。
「ホーメイがどうやっても美しい」というのは、あの口笛のような音は、口の中の共鳴で作り出す風の音のようなものなので、外れようがないということです。音痴ゼロという感じかな。古い楽器がひとつの調しか演奏できないのと似ている感じ。
天鼓が突然ピアノの話をしたけれど、現代のピアノは、すべての調がなんとなく折り合えるように音程を微細にずらして調整してあるのとは、対極にある。だからなかなかピアノとはマッチしないんだよね。弾き方や音の取り方で音色をうまい具合に合わせてもらえば、なんとかなるんだけど・・。あるいは、調律を演奏する調に合わせるという方法かな。そうするときれいな共鳴が得られる。
ホーメイはひとり合唱みたいなものだからね。合唱は、みんながそれぞれ平均律のピアノの音程に合わせたら濁ってしまうので、ひとりだけ合わせて、後は相対的に音程を取るでしょ。
楽器と声の違いは、やはり言語かなと思う。どんなに非言語的に発声したとしても、聞き手はどこかに言語のかけらを感じているのではないだろうか。それが英語であろうと、ギリシャ語であろうと、日本語であろうと、自分の耳にすり寄せて聞き取ってしまうに違いない。
シドニーで演奏した時、「ペニヨナラペー」だか「フンペコチン」だか忘れたけれど、何か突然オーストラリアの人たちの耳にぴたっとはまった音があったらしく、笑いが止まらないということあった。こちらが意識したわけではない。勝手に聞き取ってしまったのだ。そういう意味でも、声は音以上の意味を多くまとうことになる。
ヴォイスパフォーマンスにとって、言葉とは何か。非言語は成立するのか。これは考えなくてはならないね。
さて、どんなにがんばっても同じ声を出すことはできない、というけれど。楽器もぼくは同じことを感じていると思う。記憶できる電子楽器なら違うだろうけど、たいてい「どんなにがんばっても同じ音を出すことはできない」と思っている部分はあると思う。だから、管楽器は息のコントロール。弦楽器は指のコントロール。素晴らしい音を探求して、鍛練をする。声だって例外ではない。同じ声を出すためのコントロールがあると思う。理想の音があるように、理想の声があるはず。ただし、天鼓がいうように、有機体としての肉体はノイズに満ちている上に、フリーインプロだとさらに、油断すると音楽や表現から逸脱して「ただのヒト」になってしまう、というところはよくわかる。楽器だったら黙っていても音楽らしいたたずまいを保っていられるからね。
「ただのヒト」じゃないぞ! というオーラというか、イメージの持ち方というか。これはヴォイスパフォーマンスの根幹に関わるものだろうね。
そこでピアノ。
音楽だぞ! という時のピアノのあり方は、確かに凄い。大きいしね。まさに音楽の権威という感じだよね。それに比べて声のあやしげさといったら。
前に下北沢で、天鼓がピアノの前に座ってヴォイスパフォーマンスをしたよね。あれまったく弾かない演奏だけど、ピアノというイメージを使った作品だったね。


