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    <title>com-post</title>
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      <title>com-post</title>
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    <item>
 <title>The Thirteenth Assembly: (un)sentimental</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=386</link>
<description><![CDATA[「ジャズ批評」誌 2010年3月号の特集「マイ・ベスト・ジャズ・アルバム2009」において、私は本作を推薦した。実際大変気に入っていて、一時期はこればかり聞いていたものである。<br />
<br />
せっかくなので何か気の利いた紹介文でも書きたいところなのだが、なかなか思うようにいかない。どうやら、私はこの音楽の微妙な良さをうまく表現するだけの語彙を持っていないようだ。そもそもこの手のものは百聞は一見に如かずというところがあるので、とりあえずYouTubeに上がっているライヴ映像を見ていただきたい。この曲は本作にも収録されている(2曲目)。<br />
<br />
<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/J1VzHqt6C0k&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/J1VzHqt6C0k&hl=ja_JP&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br />
<br />
映像中でコルネットをむやみに吹きまくっていたおっさんが、リーダー格の<a href="http://www.improvisedcommunications.com/taylor-ho-bynum/">テイラー・ホー・バイナム</a>である。彼に、ヴィオラの<a href="http://www.jessicapavone.com/">ジェシカ・パヴォン</a>、ギターの<a href="http://www.maryhalvorson.com/">メアリー・ハルヴァーソン</a>、ドラムスの<a href="www.tomasfujiwara.com">トーマス・フジワラ</a>を加えた4人が、このカルテット、<a href="http://www.myspace.com/thethirteenthassembly">ザ・サーティーンス・アッセンブリー</a>の構成員だ。彼らはニューヨーク・ブルックリンを拠点とするインプロヴァイザー、作曲家で、元々ばらばらにデュオやトリオで組むことの多かった友人同士のようなのだが、どうせツアーするならと一緒に行動するようになったのがグループ結成の経緯らしい。彼らには、全員がコネチカットの名門ウェズリヤン大学におけるアンソニー・ブラクストンの教え子という共通点もある。<br />
<br />
ジャズにロック、ファンク、果ては現代音楽と様々な音楽領域を軽々と越境する彼らは、その異様な楽器編成も相まって、他の誰にも似ていない個性を獲得している。「非センチメンタル」というアルバム名の通り、ベタベタした浪花節風味のないカラカラに乾いた音響が耳に心地よい。確かに、師匠のブラクストン的に頭でっかちな部分はなきにしもあらずなのだが、かといってまるで血の気が感じられないポストモダン風スタイル陳列大会かというとそんなこともなく、何か得体の知れない強い感情が漂っているところに不思議な魅力を感じるのだ。そして、知らず知らずのうちに中毒になる。<br />
<br />
きっちりと構成された、しかし全体としてはなんだかわけのわからない、安易なカテゴリ分けを拒否するようなストレンジな音楽には、個人的に強く惹かれるものがある。このグループは、今後もそうした音楽を私たちに送り出し続けてくれるに違いない。<div style="text-align:right">（八田真行）</div><br />
<br />
The Thirteenth Assembly ＜<a href="http://www.myspace.com/thethirteenthassembly">http://www.myspace.com/thethirteenthassembly</a>＞<br />
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<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=compost0a-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&asins=B001PPLK1C" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />
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]]></description>
 <category>disc review</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=386</comments>
 <pubDate>Mon, 8 Mar 2010 16:10:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>「現代ジャズのわかりにくさ」を「感覚の変容」として捉える必要はないのではないか</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=385</link>
<description><![CDATA[<b>後藤：</b>問題は、「ジャズ」という概念が、一応枠組みの決まっているクラシック音楽やさまざまな民族音楽のように、それなりに「価値を決定」された、「閉じ」られた音楽ではなく、今現在も変化し（すなわち内包自体が変化し、当然外延は広がりつつある）続けているというところにあるように思えます。<br />
<br />
西欧クラシック音楽や民族音楽は、それを支える共同体の構成員の世代交代はあっても、とりあえず彼らの「共同主観性」は一定の同一性を備えているであろうことがある程度予想できますが、ジャズの場合は、その歴史の端緒の頃こそ「黒人（アフリカン・アメリカン）共同体」という一定の「枠」が共同体の構成員にあったとしても、早くも1920年代辺りからは一部の白人層にもファン、ミュージシャンが広がり、とうてい「集合」を構成する人間の枠組みを人種や居住地域等で規定することが難しくなってしまいました。<br />
<br />
加えて厄介なのは、音楽自体も、ご存知のようにやれニューオルリンズだスイングだバップだモードだと、それこそ数年ごとにスタイルを変えてしまい、つぶさに観察すればそれらに一定の連続性を認めることが出来るとは言え、とうてい固定したスタイルなど抽出しようがありません。とりわけ、スタイルの大きな変革期にあってはジャズの定義自体が大きく揺らぎ、「これはジャズではない」という批判がジャズファン内部からも提起されました。<br />
<br />
驚くことに、そうした時期においては、チャーリー・パーカーも、マイルス・ディヴィスも、オーネット・コールマンも「ジャズではない」と批判されたのです。つまり、そうしたジャズスタイルの端境期においては、当然ジャズファンの共同主観性（間身体性）に亀裂が生じ、結果としてジャズファンの外延（構成員の範囲）も揺らぎます。とは言え、ジャズはそうした価値の揺籃期を1940年代半ば（ビバップ革命）、1950年代末（フリージャズ論争）、1960年代末（エレクトリック・マイルス批判）と何度も乗り越え、結局パーカーも、オーネットも、マイルスの音楽も、すべて「ジャズ」として飲み込む度量の広さというか柔軟性を備えているのです。<br />
<br />
私が示したかったのは、こうした柔軟で幅広いが、しかし他の音楽ジャンルとは異なった「ジャズ的価値観」こそがジャズ批評の判断基準となるべきであり、当然クラシック音楽の即興観や、ポピュラー音楽の価値基準（多くのファンから支持されること自体が価値）からのジャズ批判は、公平さを欠いた異文化批判の無意味さと同じように無意味であるという、極めて常識的な話だったのです。<br />
<br />
しかしそうした、（私のやり方があまり手際よく行かなかったのは認めますが）ある意味常識的な話が、ちょっとしたほころびを見せ始めたのがthinkの中断期に当たるのです。つまり、「ジャズ耳」自体が揺らいでいるのではないか。また、揺らぎの意味、理由、原因が「感覚自体の変容」ではないのか？　という疑問が私の内部で生じたところで、ようやく相澤さん益子さんはじめ、com-postで問題となっている「ポストモダンジャズ論議＝認識の切断面＝感覚自体の変容の可能性」に繋がるのです。<br />
<br />
ところで、ここまでの話をお読みの方は、何も「ポストモダン問題」などと大仰に構えることは無く「ジャズ耳」の揺らぎは、ビバップ期にもフリージャズに対しても、またエレクトリック・マイルス批判においてもあったのではないか、と当然の疑問をお持ちのことと思います。それに対して私は、過去の揺籃期においては、たとえばビバップ容認派も批判派も「同じ音」を聴いた上での対立（知覚は同じだがそれに対する価値観が異なる）であったのが、ポストモダン期（その開始年代については諸説ありますが）においては「音の受容自体」が変容（知覚自体が異なっている）しているのではないか、という疑問を持ったのです。<br />
<br />
実に長い長い前置きでしたが、こうした疑問を持っていたからこそ、相澤さんのすべてを「世代論」に還元するような論調（たとえばエレクトリック・マイルスに対する世代によるスタンスの違い）に対し、「ちょっと話が違うのでは」という気分があったのです。<br />
<br />
それが変化したのです。私は感覚と言語の関係を、（相互に独立したものと捉えた上で）重層的なものと考えており、だからこそ「身分け構造が基礎で、その上に言分け構造が乗っている」と理解していました。またそういうことがあったので身の程知らずにも、果たしてフーコーの言う「認識の切断面」は「身体感覚の変容」をも伴っているのだろうか、などと大昔に読んだ「言葉と物」（新潮社）などを引っ張り出し、活字が細かすぎるなどと嘯いていたのです（情けないことにまだ再読し切れておりません）。<br />
<br />
しかし、前回書いたとおり、野矢茂樹氏の文章を読んで、そのあたりの考えに微妙な変化が生じたのです。もちろん浅学菲才の身であり、とうてい「正解」に到達したなどという実感もないし、果たして野矢氏の論旨を正確に理解しているという自信も無いのですが、少なくとも今私たちが問題にしている「現代ジャズのわかりにくさ」を、私が考えていた意味での「感覚の変容」として捉える必要はないのではないか、という感触を持ちつつあるのです。<br />
<br />
さて、まだ肝心な話の中心には到達せず、ようやく議論の入り口にたどり着いたところですが、あまり相澤さんや益子さん、そして他の読者の方々をお待たせするのもいかがなものかと思い、とりあえず一旦ここで筆を置きます。ただし、まだ話には続きがあるので、お二方の返事は、これに続く私の回答をお読みになってからでけっこうです。「続編」はなるべく早くお書きいたしますのでご容赦を。]]></description>
 <category>critique</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=385</comments>
 <pubDate>Thu, 4 Mar 2010 18:03:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>ジャズに対する誤解の大部分は「ジャズファンではない人たち」からなされている</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=384</link>
<description><![CDATA[<b>後藤：</b>なぜこうした提言の必要性を訴えたかというと、ジャズに対する無理解、批判、誤解の大部分が「ジャズファンではない人たち＝後述する“ジャズ耳”を持たない人たち」からなされているように思えるからです。具体的に言えば、（バップ以前の大衆芸能音楽の残滓を引きずった時代のジャズについてではありますが）アドルノなどという人のあまりにクラシック音楽寄りの立場からなされたとしか思えないジャズ批判を散見する限り、とうてい彼がジャズファンであるとは思えない。<br />
<br />
また、恐らくはバップ以降の即興演奏についてでしょうが、ジョン・ケージも、ジャズの即興が即興本来のあり方から問題があるという趣旨の発言をしていますが、これもまたジャズの即興の意味を理解していないところから来る誤解のように思えます。当然彼もまた良い「ジャズ耳」の持ち主とは思えない。<br />
<br />
話を元に戻すと、前者の「感覚」については、ある程度「現象学」について理解のある方にとっては常識的なことばかりで、特に問題は無かったように思います。難しいのは後者の「ジャズ的価値」で、まず、「世界中のジャズファンの集合」という概念が、当然循環論法とならざるを得ない。ジャズの概念がはっきりしなければ、ジャズファンの集合というカテゴリーだって決定できない。しかしこうした事物、事象の概念を人々が把握する過程（砕いて言えば、子供が“ことば”の意味、用法を理解する過程）で見出される「循環」（内包がわからなければ外延は決定できない、また、多くの内包はとりあえず知られている外延から帰納的にしか抽出できない）は、私たちの周りにはいくらでもあって（幼児が「犬」の概念を把握する過程をご想像ください）、現実は、その循環の中に入りつつ私たちは対象の概念（言葉の意味）を少しずつ掴んでいるのが実態でしょう。<br />
<br />
ですから、この部分については私の能力の限界ゆえにあまりうまく説明が出来ていないことは認めますが、別にそれほど見当はずれな話だったとは思っておりません。つい最近も私の経営するジャズ喫茶「いーぐる」で行われた連続講演において、明らかに「ジャズファン特有の感性の傾向（私はこれを便宜的に「ジャズ耳」と呼んでいるのですが）」の存在を予想させる出来事がありました。要するに「ジャズファン共同体の共同主観性」である「ジャズ耳」の持ち主たちが、他の音楽ジャンルの価値観とは少し異なった固有の「ジャズ的価値」を支えているという、私の主張を裏付けるような事象が見聞されたのです。<br />
<br />
それは、いわゆる「実験音楽」に区分される、ジャズとは言えない音楽に対するジャズファンの嗜好性に、明らかな同一傾向が見られたことです。ちなみに、このとき問題のケージの音楽が一番「ジャズ耳」の持ち主たちからは評判が悪かったことは、何かしらケージの音楽観を暗示しているようにも思えます（詳しくは<a href="http://d.hatena.ne.jp/eaglegoto/20100228">私の個人ブログ2月27日の記述</a>をお読みください）。この件は、同じ文化圏内の人間は「内部の差異」に眼が行きがちで、したがって「自分たち全体」が、実は他の文化圏から見れば「似たようなもの」として見られていることに気が付きにくいという、よく知られた事例に結びつくように思われます。]]></description>
 <category>critique</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=384</comments>
 <pubDate>Thu, 4 Mar 2010 18:02:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>「ジャズ批評の妥当性の条件」あるいは「音楽批評の公準」を示したい</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=383</link>
<description><![CDATA[<b>後藤：</b>確かに「肩すかし」したみたいで「物足らない」と感じられた方は相澤さんだけでなく、読者の中にもおられたと思いますので、そのあたりの事情をご説明しようと思います。言うまでもありませんが、相澤さんとの「思わぬ一致」は、無理に妥協、同調したということではなく、フト目に付いた記事で「眼からウロコ」だったというのが真相です。<br />
<br />
とは言え、相澤さんのおっしゃるように、当初は相澤さんのご意見に「反論」を書いたのも事実ですから、順序から言っても、その反論を書いたときに自分が考えていたことからご説明するのが順当でしょう。<br />
<br />
話は少々長くなりますが、そもそも私がthinkを書き始めた動機は、いささか大仰ですが「ジャズ批評の妥当性の条件」あるいは「音楽批評の公準」を示したいというところにありました。もちろん浅学菲才の私にそのような大それたことが出来るとは思っていませんが、かといって、どなたか他にそのような仕事をお見かけすることがない以上、誰かが「最初の一歩」を踏み出すしかないという「捨石」的気分で始めたというのが本当のところです。ですから、私の書いたものを読んで、「言いたいことはわかるけれど、ここが違う、あそこが見当外れ」と、より力のある方が先に進んでいただければと、ある意味で気軽に書き始めたというところもあるのです。<br />
<br />
ポイントは二つで、まず、私たちが音楽を聴くときに起こる最初の出来事は「感覚器官」において起こるという事実。この、あまりにも当然のことが音楽評論において見逃され、また、「感覚」なるものの性質が皆様方に余りよく理解されていないようなので、まずそこのところの共通理解を作っておくということ。この部分に関しては、いわゆる「現象学」なかんずく、モーリス・メルロ=ポンティの『知覚の現象学』（みすず書房）に大きく負っています（詳しくは<a href="http://d.hatena.ne.jp/eaglegoto/searchdiary?word=%2A%5Bthink%5D">私の個人ブログの『think』</a>をご覧ください）。<br />
<br />
ちなみに「理解されていない」というのは、「感覚」は個人の主観であるという根深い思い込みのことです。つい最近com-post掲示板で交わされた「めひかり」さんとの意見交換でも、「理屈抜きにいいなあ、かっこいいなあという感情を起こさせる“自分の耳”に従った判断」は、もっとも根源的かつ個人の主観的価値観に属する事象であるという、極めて“常識的な”ご意見が開陳されておりましたが、私が問題にしているのは、その「個人の感覚」自体が、すでに固有の文化によって「色付け」られている（すなわち「個人的」ではありえない）という、ご存知の方にとっては当たり前の事実がご理解いただけていないという歯がゆさです。<br />
<br />
もちろんそうした（“感覚”について理解していない）立場であっても、音楽を楽しむには何の不都合もありません（現に私自身、公に論じる必要の無いクラシック、ロック、ポップスなどを楽しむときは、取り立てて自分自身の感覚のありようを相対視したり客観視したりはしておりません）。しかしながら、それを自覚しない（つまり感覚は主観の問題だと信じておられる）ままの音楽評論は「夜郎自大」以外の何者でもないのではないでしょうか。もっともそういうお立場の方は、「ジャズについていろいろ言ってみても、所詮は好みの問題」と高を括っておられがちで、評論とか批評行為自体を内心無意味と考えておられるようです。<br />
<br />
次いで、その「感覚」を基盤として成立しているさまざまな文化現象を分析し、具体的なジャズのケースについて考えてみるということ。そして、「ジャズ評論」が何に準拠していれば、それなりの妥当性を備えることができるか、というのが、私の当初の目論見だったのです。この部分に関しては、「世界中のジャズファンの集合（平たく言えば集まりのこと）」の「共同主観性（間身体性）」が「ジャズ的価値」の基準となるであろう、というのが私の主張でした。]]></description>
 <category>critique</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=383</comments>
 <pubDate>Thu, 4 Mar 2010 18:01:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>後藤さんの考え方の転回の内実、その思考の過程を詳しく知りたい</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=382</link>
<description><![CDATA[<b>相澤：</b>後藤さんの返信を読み、結果的にほとんど同じ考え方に至ってしまったような印象をもっております。しかしながら、もともとわたしは後藤さんを説得しようと思っていたわけではなく、考え方にどのような違いがあるのか、その差異を知りたかったので、その意味では正直にいうと若干物足りないとも感じております。<br />
<br />
おおしまゆたかさんの講演および野矢茂樹さんの文章が、後藤さんにある種の転回を促したことは伝わってきますが、後藤さんが今までどのように考えていらっしゃったのか腑に落ちていなかった身としては、その転回の内実がいまひとつ伝わってきません。<br />
<br />
後藤さんご自身にとっては後ろ向きな話かもしれないのですが、もしよろしければ、当初わたしの考えにどのような反論なり批判なりをされようとしていたのか、そしてそれがどのような点で有効ではないと考えるに至ったのか、というご説明を頂けないでしょうか。読者の中にもわたしと同じような思いを抱かれている方がいらっしゃるかもしれないと推測致します。<br />
<br />
その上で、後藤さんがキーワードとされていた「身体感覚の変容」および「認識の切断面」という概念の捉え方・位置づけに変化があったのかどうかという点も伺ってみたいです。<br />
<br />
わたし自身は引き続き、80年代に登場した若手ミュージシャンと90年代に登場した若手ミュージシャンの音楽の違いが「認識の切断面」につながる、という問題の立て方はそんなに悪くないのではないかと思っております。たとえばジョシュアの「フニャフニャしたサウンド」の「フニャフニャ感」がもし分節できれば、面白く聴こえてくるのかもしれませんし、もしかしたらある世代の人たちにはさほど学習せずともそれができてしまっているのかもしれません。仮定の上に仮定を重ねた推論に過ぎませんけれども。<br />
<br />
もっともこの先に、楽理を使わずにどう音楽を（上記の例では「フニャフニャ」を）分節し記述するか、という難問が控えていますから、仮に上記のように問題を立ててみたとして、何か一気に視界を開くようなことができるわけでもないとは思っております。]]></description>
 <category>critique</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=382</comments>
 <pubDate>Tue, 16 Feb 2010 18:01:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>益子博之の見解</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=381</link>
<description><![CDATA[まだ、やってたんだ。と、まず感じたのは、世評の高かった2002年の『Nu Bop』（Thirsty Ear Blue Series）以降、このプロジェクトに関する情報が全くなかったからだ。音響派的、と言って良いのだろうか、グリッチ・ノイズやデジタル・ノイズ、サンプリング音の導入と、ダンス・フロアを意識した定型ビート。発表当時、ドラムン・ベースからフューチュア・ジャズに至る、主にヨーロッパの白人たちから発信されたムーヴメントに対してアフリカン・アメリカンはスピリチュアル・ジャズ派によってなされた遅すぎた回答、というニュアンスで受け取っていた。だが、そのサウンドの意匠は身体感覚の奥底から湧き出てきたものとは言い難く、まるで取って付けたような、遅ればせながら流行に便乗したもののように筆者には感じられた。<br />
<br />
さて、スタジオ録音から2年あまり後のライヴ録音、ポスト・プロダクションで違和感を解消する余地のないセッティングで行われた演奏はどうか？　その結果は、取って付けた感がさらに増大したものだった。エレクトロニクスを扱っているのは主にギジェルモ・ブラウンだろう。ドラム・マシンによる定型ビートや、サンプラーを用いた電子音やノイズをリアルタイムで織り重ねていくのだが、音響派的なサウンド・テクスチュアやグリッチ的なギクシャクした訛るリズムをアクースティックな楽器演奏で描出する動きが拡がりつつある最近のNY勢を聴き慣れた現在の耳には、どうにもピンと来ないというか、時代遅れの感が否めない。それどころか、2曲目のドラム・ソロなど、キング・クリムゾン「Groon」（『Earthbound』収録 1972年録音）の衝撃や切迫感に比べたら...。<br />
<br />
ダニエル・カーターがやや小粒とはいえ、後半のスピリチュアル・ジャズ的な盛り上がりはまだまだ棄てたものではない。変にエレクトロニクスへの色気など見せずに、このユニットはストレートな演奏表現で勝負して欲しいものだ。<br />
<br />
<br />
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=compost0a-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B002RW69TA&fc1=606060&IS2=1&lt1=_top&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&npa=1&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=compost0a-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B00005UWLE&fc1=606060&IS2=1&lt1=_top&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&npa=1&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=compost0a-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B00065MDTA&fc1=606060&IS2=1&lt1=_top&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&npa=1&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>]]></description>
 <category>pick up disc</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=381</comments>
 <pubDate>Fri, 12 Feb 2010 18:03:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>原田和典の見解</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=380</link>
<description><![CDATA[ニューヨークは世界一のジャズ・シティである。<br />
と、断言するつもりはないが、あのテンションの高さ、身を切られるような緊張感はやはりニューヨークならではのものではないかと思う。<br />
<br />
が、同地で活動しているミュージシャンがすべて超一流、誰からも文句の言わせない名手ばかりであるとは、僕にはどうしても考えられない。<br />
<br />
このアルバムに参加しているダニエル・カーターがいかほどの人物なのかも、僕の頭の中ではクエスチョン・マークのままだ。彼のライヴは何回か体験している。昨年はエリ・ヤマモト（ピアノ）、ウィット・ディッキー（ドラムス）とのトリオを見た。が、見れば見るほど、聴けば聴くほど、クエスチョン・マークが浮かぶ。<br />
<br />
僕は多大な期待を持って本作を再生した。スタジオ録音の『ニュー・バップ』は傑作だった。ダニエルのプレイもフレームに収まっていた。レベルの高い作品が並ぶマシュー・シップの作品中でも、あの『マルチプリケイション・テーブル』の次ぐらいには位置しているだろう。そのライヴ・ヴァージョンが遂にCD化されたのだから、ファンとしてはいやがおうにも熱くなろうというものだ。<br />
<br />
しかし、どうだろう。少なくともダニエルの出てくる箇所は僕の心にまったく触れなかった。5曲目にさしかかってから、「ああ、でも、やっぱりそれなりにいいアルバムじゃないか」とようやく思い始めたけれど、これがマシュー、ウィリアム、ギジェルモのトリオ作品だったらなあ、という気持ちは最後まで捨て切れなかった。<br />
<br />
いつか僕にもダニエルのよさをわかる日が来るのだろうか？<br />
<br />
<br />
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=compost0a-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B002RW69TA&fc1=606060&IS2=1&lt1=_top&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&npa=1&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=compost0a-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B00005UWLE&fc1=606060&IS2=1&lt1=_top&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&npa=1&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>]]></description>
 <category>pick up disc</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=380</comments>
 <pubDate>Fri, 12 Feb 2010 18:02:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>後藤雅洋の見解</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=379</link>
<description><![CDATA[マシュー・シップ“Nu Bop”のライヴ盤という情報しか無い状態でアルバムを聴いてみる。1曲目からライヴらしい切迫感が伝わってくる。悪くない。このバンドの若干引っかかる点としてあった、「作りすぎ」の印象が無い。2曲目、CDプレイヤーが誤動作を起こしたような連続音がマシュー・シップらしさを思い出させる。<br />
<br />
どちらかというと神経に障るこの手の異音にどういう音楽的効果があるのか、なかなか難しいところだ。無機質な機械音によって聴き手の意識を常時覚醒させ、わかりやすい演奏の快楽に聴き手が埋没してしまうことを避けているようにも思える。だとしたらその効果は確かにあって、このカタカタ音と、それに合わせるようにして連続的に繰り返される水滴が落下するような異音が、フツウに音楽に浸る状況を「異化」している。<br />
<br />
しかしそれがプラスに作用しているのかというとなんとも言えず、個人的には単に「カンに障る」というネガティヴな印象しかなかった。だが、それを除けば、マシュー・シップのピアノは快調で、ライヴ空間ならではの闊達さが好ましい。<br />
<br />
後半に登場するサックスのフリークトーンは、いかにもといったカンジで昔ながらのフリージャズを思い出させるが、それに絡むシップのピアノがけっこうクールなので、その辺りはやはり現代的。通して聴いた感想は、ライヴ会場でならけっこう楽しめたろうが、「アルバム」としてのまとまり感はいまひとつと思う。こうしたところがこのバンドの問題点なのではないだろうか。<br />
<br />
<br />
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=compost0a-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B002RW69TA&fc1=606060&IS2=1&lt1=_top&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&npa=1&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=compost0a-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B00005UWLE&fc1=606060&IS2=1&lt1=_top&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&npa=1&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>]]></description>
 <category>pick up disc</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=379</comments>
 <pubDate>Fri, 12 Feb 2010 18:01:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>「新しいジャズ」のニュアンス、聴き所を概念化する適切な批評のことばが生まれていないことが問題</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=378</link>
<description><![CDATA[<b>後藤：</b>なにかジャズにまったく関係ない話のようですが、私にとってこれはかなり重要な問題で、仮に前者、つまりほんとうに３色にしか見えないとしたら、これを聴覚に置き換えれば、さまざまな楽器の醸し出す複雑な空気の疎密波のうち、特定の周波数しか感じていないような事態に当たり、こうした人たちと音楽について意見を交換するのはきわめて難しい（ジャズ評論が成立しない）。立場を変えれば、自分より複雑な音響要素を感知している人たちの音楽を理解することは、原理的に不可能ということになる。<br />
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しかし、単に文化の差で同一の音響現象に対する分節の仕方（どういう音響要素[リズムだとかメロディだとか、あるいは音色といった]を重要と感じ取るのか）が異なるだけなら、「学習」あるいは適切な言語的示唆によって、その差を乗り越えることはいくらでも可能なわけです。つまり今私たちが話題にしている「最近のジャズのわかりにくさ」の背景に「音の聴こえ方の違い」があるとして、その「違いの質、内容」がどうなのかによって話はまったく変わってくる。<br />
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野矢さんの連載はこうした疑問に直接答えているわけではありませんが、「知覚には概念的な知覚も非概念的な知覚もある」という言い方で、この世に存在するすべての色彩（りんごの肌の微妙な色合いなど）を赤や青、そして萌黄色などといった色名で表示することなど不可能だが、かといって色名の無い色をわれわれは感じていないわけでもない。また、そうした多様で「微妙な色」は、必要が生じれば概念化されうる。つまり、新たな色名＝ことばが生まれると論じています。<br />
<br />
これをジャズの場面に置き換えれば、新たに生まれつつある多様な「新しいジャズ（音楽）」の「微妙なニュアンス」に対して、私たちは、それを説明することばはまだ持っていないが、そのサウンドを感じていないわけではない。従って、しかるべき適切なことば（まさにここに批評の存在意義があるのですね）を用いれば、そのニュアンス、聴き所は概念化＝言語化され、それに対する（肯定するにしろ批判するにしろ）共通の評価軸が成立する可能性が生じるだろうということです。つまり、このところcom-post上で話題となっているポストモダンジャズ問題の難しさといわれているものは、新たな対象に対する適切な批評のことばが生まれていないがゆえに生じている、ということになるわけです。<br />
<br />
そうした視点で考えれば、昨年から続いている益子さんによる21世紀ジャズについての連続講演は、こうしたジャズ評論のための新たな評価軸を立ち上げるための非常に重要な作業として浮かび上がってくると思います。]]></description>
 <category>critique</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=378</comments>
 <pubDate>Mon, 1 Feb 2010 18:15:54 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>このところの音楽体験と読書によって生じた考えの変化の道筋を少し詳しく説明すると...</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=377</link>
<description><![CDATA[<b>後藤：</b>ご返事が大幅に遅れてしまったのは、私事にかまけていたこともあるのですが、このところの音楽体験（いーぐるにおけるおおしまゆたかさんの講演）や、たまたま目にした文章（講談社の雑誌『本』掲載、野矢茂樹氏の連載記事『何を見ているのか』22）などによって、少々思い直すところがあり、そのため、ほとんど発表する直前まで書きあがっていたご回答を大幅に書き換えることとなったためです。<br />
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相澤さんのおっしゃる<br />
【結論は「時代とともに音楽が変化する」で一向に構わない、重要なのは「どのように変化したか」ということが「どのように記述できるか」ということではないかと思っているのです。】<br />
というご意見、まったく同感です。これに続く<br />
【つまり、結果的にその記述に寄り添う形になったとしても批判する形になったとしても、今までピンとこない音楽でしかなかったものに、新たな向き合い方が出来る可能性が開ければそれでよい、と私は考えているようです。】<br />
という部分も、私の今の心境とほとんど同じです。<br />
<br />
また、そうした「記述によって音楽に対する新たな向き合い方」が出来るようになった体験の実例として、亡くなった軒口隆作さんの文章を引用されていますが、私も、相澤さんの挙げられたケースではありませんが、かつて『ジャズライフ』に掲載されていた軒口さんの記事によって、ジャズの聴き所が掴めた事が何度もあります。あの方はジャズ理論をシロウトにもわかりやすく説明し、そこからジャズの魅力を伝えることが出来る、実に優れたジャズ評論家でした。かえすがえすも残念な方を亡くしたものです。<br />
<br />
しかし、これでは相澤さんと私の見解の相違がまったく無くなってしまいますが、そうなってしまった理由は、冒頭に書いたとおりです。そこで、私の考えの変化の道筋を少し詳しくご説明する必要があると思いました。野矢さんの記事が決定的でした。その内容をご説明する前に、私が以前からわからなかったことの一つに、think第４回で触れた「虹の見え方」の問題があります。日本人は一般に７色という虹を、３色だという人たちはほんとうに３色しか感じていないのか？　それとも、彼らもわれわれと同じように連続した太陽光スペクトルを感じ取ってはいるが、単に色名が３つしかない（それ以上の色名は生活に必要が無い）だけのことなのか？<br />
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think４を読み返してみると、<br />
【網膜上には6色なり7色なりが投影されているが、それを頭で2色なり3色なりに「翻訳」していると考えることも出来ようが、実はその「翻訳作業」自体を〈感覚〉と呼ぶべきなのである。】<br />
と書いていますが、野矢さんの記事を読み、この現象＝「翻訳作業」を、〈感覚〉＝知覚作用として捉えるべきでなく、むしろ「言語作用」＝概念化作用と考えるべきであると気が付いたのです。]]></description>
 <category>critique</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=377</comments>
 <pubDate>Mon, 1 Feb 2010 18:14:05 +0900</pubDate>
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