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    <title>com-post</title>
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 <title>「新しいジャズ」のニュアンス、聴き所を概念化する適切な批評のことばが生まれていないことが問題</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=378</link>
<description><![CDATA[<b>後藤：</b>なにかジャズにまったく関係ない話のようですが、私にとってこれはかなり重要な問題で、仮に前者、つまりほんとうに３色にしか見えないとしたら、これを聴覚に置き換えれば、さまざまな楽器の醸し出す複雑な空気の疎密波のうち、特定の周波数しか感じていないような事態に当たり、こうした人たちと音楽について意見を交換するのはきわめて難しい（ジャズ評論が成立しない）。立場を変えれば、自分より複雑な音響要素を感知している人たちの音楽を理解することは、原理的に不可能ということになる。<br />
<br />
しかし、単に文化の差で同一の音響現象に対する分節の仕方（どういう音響要素[リズムだとかメロディだとか、あるいは音色といった]を重要と感じ取るのか）が異なるだけなら、「学習」あるいは適切な言語的示唆によって、その差を乗り越えることはいくらでも可能なわけです。つまり今私たちが話題にしている「最近のジャズのわかりにくさ」の背景に「音の聴こえ方の違い」があるとして、その「違いの質、内容」がどうなのかによって話はまったく変わってくる。<br />
<br />
野矢さんの連載はこうした疑問に直接答えているわけではありませんが、「知覚には概念的な知覚も非概念的な知覚もある」という言い方で、この世に存在するすべての色彩（りんごの肌の微妙な色合いなど）を赤や青、そして萌黄色などといった色名で表示することなど不可能だが、かといって色名の無い色をわれわれは感じていないわけでもない。また、そうした多様で「微妙な色」は、必要が生じれば概念化されうる。つまり、新たな色名＝ことばが生まれると論じています。<br />
<br />
これをジャズの場面に置き換えれば、新たに生まれつつある多様な「新しいジャズ（音楽）」の「微妙なニュアンス」に対して、私たちは、それを説明することばはまだ持っていないが、そのサウンドを感じていないわけではない。従って、しかるべき適切なことば（まさにここに批評の存在意義があるのですね）を用いれば、そのニュアンス、聴き所は概念化＝言語化され、それに対する（肯定するにしろ批判するにしろ）共通の評価軸が成立する可能性が生じるだろうということです。つまり、このところcom-post上で話題となっているポストモダンジャズ問題の難しさといわれているものは、新たな対象に対する適切な批評のことばが生まれていないがゆえに生じている、ということになるわけです。<br />
<br />
そうした視点で考えれば、昨年から続いている益子さんによる21世紀ジャズについての連続講演は、こうしたジャズ評論のための新たな評価軸を立ち上げるための非常に重要な作業として浮かび上がってくると思います。]]></description>
 <category>critique</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=378</comments>
 <pubDate>Mon, 1 Feb 2010 18:15:54 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>このところの音楽体験と読書によって生じた考えの変化の道筋を少し詳しく説明すると...</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=377</link>
<description><![CDATA[<b>後藤：</b>ご返事が大幅に遅れてしまったのは、私事にかまけていたこともあるのですが、このところの音楽体験（いーぐるにおけるおおしまゆたかさんの講演）や、たまたま目にした文章（講談社の雑誌『本』掲載、野矢茂樹氏の連載記事『何を見ているのか』22）などによって、少々思い直すところがあり、そのため、ほとんど発表する直前まで書きあがっていたご回答を大幅に書き換えることとなったためです。<br />
<br />
相澤さんのおっしゃる<br />
【結論は「時代とともに音楽が変化する」で一向に構わない、重要なのは「どのように変化したか」ということが「どのように記述できるか」ということではないかと思っているのです。】<br />
というご意見、まったく同感です。これに続く<br />
【つまり、結果的にその記述に寄り添う形になったとしても批判する形になったとしても、今までピンとこない音楽でしかなかったものに、新たな向き合い方が出来る可能性が開ければそれでよい、と私は考えているようです。】<br />
という部分も、私の今の心境とほとんど同じです。<br />
<br />
また、そうした「記述によって音楽に対する新たな向き合い方」が出来るようになった体験の実例として、亡くなった軒口隆作さんの文章を引用されていますが、私も、相澤さんの挙げられたケースではありませんが、かつて『ジャズライフ』に掲載されていた軒口さんの記事によって、ジャズの聴き所が掴めた事が何度もあります。あの方はジャズ理論をシロウトにもわかりやすく説明し、そこからジャズの魅力を伝えることが出来る、実に優れたジャズ評論家でした。かえすがえすも残念な方を亡くしたものです。<br />
<br />
しかし、これでは相澤さんと私の見解の相違がまったく無くなってしまいますが、そうなってしまった理由は、冒頭に書いたとおりです。そこで、私の考えの変化の道筋を少し詳しくご説明する必要があると思いました。野矢さんの記事が決定的でした。その内容をご説明する前に、私が以前からわからなかったことの一つに、think第４回で触れた「虹の見え方」の問題があります。日本人は一般に７色という虹を、３色だという人たちはほんとうに３色しか感じていないのか？　それとも、彼らもわれわれと同じように連続した太陽光スペクトルを感じ取ってはいるが、単に色名が３つしかない（それ以上の色名は生活に必要が無い）だけのことなのか？<br />
<br />
think４を読み返してみると、<br />
【網膜上には6色なり7色なりが投影されているが、それを頭で2色なり3色なりに「翻訳」していると考えることも出来ようが、実はその「翻訳作業」自体を〈感覚〉と呼ぶべきなのである。】<br />
と書いていますが、野矢さんの記事を読み、この現象＝「翻訳作業」を、〈感覚〉＝知覚作用として捉えるべきでなく、むしろ「言語作用」＝概念化作用と考えるべきであると気が付いたのです。]]></description>
 <category>critique</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=377</comments>
 <pubDate>Mon, 1 Feb 2010 18:14:05 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>スウィング｜不明　　　　　　　ビル・クランプ：Bill Crump（as, ts）当時50～51歳（推定）</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=376</link>
<description><![CDATA[　アーリー・ジャズ編の最後はビル・クランプなる人物だ。「まえがき」でふれたように、連載のタイトルはクランプに由来する。いきさつはそちらに譲るが、正体不明では員数に入らないというコジツケだ。記録映画『ハーレムの素晴らしき１日』の制作時に関係者にあたったがクランプを知る者はいなかった。または亡くなっていた。公式ホームページの開設時にはそのプロフィール欄に「情報求む」とあったほどだ。今ではharlem.orgとall musicで少しは情報が得られるようになっている。それらを参考にまとめておこう。<br />
<br />
　生まれ年をharlem.orgでは1907年、all musicでは1919年としている。前者が妥当なように思う。スウィング派に括っていいだろう。ニューヨークに出る前はニューヨーク州バッファローでバンドを持っていて、集合写真が撮られた頃はアポロ劇場の専属バンドで演奏していた。その後、ジョニー・ホッジス（as）、サム・クック（vo）、ビリー・エクスタイン（vo）、パール・ベイリー（vo）とのロードを経てバッファローに戻り、やがて娘がダンサーとして働いていたラスベガスに移る。15年ほど主にホテルのラウンジ・バンドで演奏、しばしばトリオ編成でストリッパーの伴奏も務めた。1977年にロサンゼルスに移り同地のユニオンに加盟するが、そのあとの活動は今のところ不明だ。1979年、同地で逝去。<br />
<br />
　harlem.orgにアースキン・ホーキンス楽団と録音したとあるが、ディスコグラフィーにその名前は見当たらない。アーネスティーナ（vo）のセッション（1955年２月、ジェイ-ディー）にビル・クランプ（ts）なる人物が参加している。これがそうかもしれないし、そうではないかもしれない。そうだとすれば、セッションに参加した集合写真の生存者、ミルト・ヒントン（b）が証言していてよさそうだが。まあ、記憶にないということもある。<br />
　「その時」のクランプは、厚かましくも！前から２列目のド真ん中、スタッフ・スミス（vln）とコールマン・ホーキンス（ts）の後ろに立っている。なぜクランプは「その時」、ジャズ写真史上で最高の１枚に加わることになったのだろう。all musicから引用すると「全くのミステリー」「完璧なまぐれ当たり」から「たまたまそこにいた」まで、好意的なものはない。確かに、集合写真への闖入こそクランプの唯一かつ最高の業績なのだから。<br />
<br />
<a href="http://www.a-great-day-in-harlem.com/index.html">A Great Day in Harlem</a><br />
<a href="http://www.harlem.org/people/crump.html">Bill Crump at harlem.org</a><br />
<a href="http://www.allmusic.com/cg/amg.dll?p=amg&sql=11:jvfoxq80ldte~T1">Bill Crump at all music</a>]]></description>
 <category>column</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=376</comments>
 <pubDate>Sun, 31 Jan 2010 20:55:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>スウィング｜中間派　　　　　エメット・ベリー：Emmett Berry（tp）当時43歳</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=375</link>
<description><![CDATA[　エメット・ベリー、巨漢である。身の丈はそれほどない。“ミスター・ファイヴ・バイ・ファイヴ”（縦も横も５フィート）ことジミー・ラッシング（vo）と好勝負ではなかったか。『ジョー・ジョーンズ・スペシャル』（1955年８月／ヴァンガード）をはじめ、中間派の数作を通じてスウィング・ファンにはお馴染みだろう。一般の認知度は無きに等しいが、仲間内では実力を高く買われていた。トーンはホットでもクールでもなく、音は大きくも小さくもなく、音域は高くも低くもなく、語り口は派手でも地味でもなく、中庸の良さを身上とした。実に趣味がいい。ロイ・エルドリッジはもちろん、バック・クレイトンより好ましいと思うことも度々だ。しかし、目隠しでそれとわかる個性はない。他者と並べば識別できるというほどのものだ。標準的な名手というほかないが、その演奏にはジャズの精髄が息づいている。こうした名手が輩出した時代こそジャズの黄金期にほかなるまい。<br />
<br />
　1915年７月23日、ジョージア州メーコンに生まれ、オハイオ州クリーヴランドで育つ。十代でクラシックのトランペットのレッスンを受け始める。およそエグミのない持ち味はその賜かもしれない。すぐにジャズに転向、地元で演奏活動に入り、1932年には「シカゴ・ナイチンゲールス」に加わって楽旅に出る。アイドルはルイ・アームストロングだった。1935年にニューヨークに進出し、翌年にロイの後釜でフレッチャー・ヘンダーソン楽団に迎えられ、解団する39年まで籍を置く。1940年はホレス・ヘンダーソン楽団とアール・ハインズ楽団で演奏し、41年から42年はテディ・ウィルソン・セクステットに在って、ビリー・ホリデイ（vo）とも共演した。その後はラッキー・ミリンダー楽団（1942年）、ライオネル・ハンプトン楽団（43-45年）、ベニー・カーター楽団（45-46年）などの一流バンドを転々とする。1946年にカウント・ベイシー楽団に迎えられ、解団する50年まで在籍した。一時的にエレベーター・ボーイで凌いでいたが、やがてバックとラッシングのバンドで活動を再開する。1951年にはジョニー・ホッジス楽団に参加、54年まで留まった。その後は中間派をメーンに多くのセッションに参加、55年から56年にかけてはサミー・プライス（p）とフランスや北アフリカを、59年と61年にはバックとヨーロッパを回っている。1960年代はフリーになりバディ・テイト（ts）らと活動した。1970年、健康状態の悪化から引退、故郷クリーヴランドで四半世紀近く隠遁し、93年６月22日、同地で逝去。<br />
<br />
　エメットの参加録音は760曲余りある。決して少なくないし、ほとんどが一流どころの名義だ。にもかかわらず知名度は低い。在籍した時期がよくなかった。一流とはいっても、衰退期の演奏にも関心を寄せるファンはまずいない。ヘンダーソン楽団、ベイシー楽団、カーター楽団がこれだ。後二者では看板ソロイストがいてソロをとる機会も少なかった。バンドが録音の機会に恵まれなかった場合もある。ハインズ楽団、ミリンダー楽団、ハンプトン楽団がこれだ。運不運も器量のうちとはいえ、なんとも惜しい。順に見ていこう。<br />
<br />
　初録音は1937年３月、ヘンダーソン楽団のヴォカリオン・セッションだ。《リズム・オブ・ザ・タンバリン》でフル・コーラスのソロが聴ける。ロイ直系の直截なスタイルだがアクや激しさはない。スマートな語り口に個性が窺える、初期を代表する快演だ。ノリの良さが知れる《クリス・アンド・ヒズ・ギャング》（1937年６月／同）も同水準の快演で、《シング・ユア・シナーズ》（10月／同）がこれらに次ぐ。ホレス・ヘンダーソン楽団の演奏でエメットと見られるなかではロイ流のノリを見せた《ジンジャー・ベル》（1940年７月／オーケー）が好演で、《フリンギン・ア・ウィング-ディング》（８月／同）が快演だ。ここまではロイ流だが、翌年から変化が見られるようになる。カーター楽団の《バック・ベイ・ブギ》（10月／ブルーバード）では簡潔で軽やかな語り口を見せてロイ色が薄れ、ウィルソン・セクステットの《Ｂフラット・スウィング》（42年７月／コロンビア）での簡明な語り口はロイよりバックに近い。これで録音は途絶えて変貌の過程は追えないが、中庸の良さを身上としたスタイルは遅くとも翌年の秋には確立していたものと見られる。<br />
<br />
　スタイル確立直後のエメットはエドモンド・ホール（cl）のセッション（1943年12月／コモドア）で聴ける。《ダウンタウン・カフェ・ブギ》は輝かしく活気に満ちた快演で、《アップタウン・カフェ・ブルース》はブルースの巧さが知れる好演だ。これに続くロイ、ジョー・トーマスと共演したロイ名義のトランペット・アンサンブル（1944年１月／キーノート）にも《その手はないよ》《アイ・ウォント・トゥ・ビー・ハッピー》の快演が並ぶ。立て付けに優れたエメットが一番の出来と聴いた。また、一時期はモデルだったロイとの乖離が容易に見てとれる。ウォルター“フッツ”トーマス（ts）、コジー・コール（ds）のセッションでも悪くはないが、露出度が低く薦められない。ウィルソン・セクステットのセッション（1944年６月／放送音源）が優れた出来だ。《フライング・ホーム》《インディアナ》は快演、残りも半数は好演に値する。構成力と寛ぎと躍動感に富む自然な語り口はバックを想起させる。初リーダー・セッション（1944年８月／ナショナル）はどうということもない。控え目な様子からして実体はドン・バイアス（ts）のセッションだろう。<br />
<br />
　1944年の秋から冬にかけてベイシー楽団で演奏したようだが、当時の放送録音にソロは見当たらない。スターはハリー・エディソンだ。1945年の初めから１年ほど在籍したカーター楽団でも出番は少ない。カーターはトランペットのスターでもあった。それと思しき数曲では《フィッシュ・フライ》（1945年春／放送録音）がノリノリの快演だ。同時期のカービー・セクステット、スリム・ゲイラード（g）、イリノイ・ジャケー（ts）のセッションに見るべきものはない。1946年２月、ベイシー楽団に加わる。やはりスターはエディソンだ。エメットの出番は希で露出度も低く、大した出来ではない。コンボ・セッション（1947年５月／ビクター）ではエディソン流を見せて興味深いが、それだけだ。1948年にクラーク・テリーが入団、出番はエディソンを凌ぐようになる。エメットの出番が増えるはずもなく、数曲のソロも普通の出来だ。くさっていたのではないか。在団中のバディ・テイト（ts）のセッション（1947年12月／シュプリーム）では鬱憤晴らしか、力任せの吹奏でガッカリさせる。1950年１月、楽団は解散、エメットは成果を残せないまま去った。<br />
<br />
　1950年の春、一時的失業を経て本業に戻る。1951年の２月までラッシングやＲ＆Ｂ系の歌伴が続き、ソロは聴かれない。同月、ホッジス楽団に参加する。デューク・エリントン楽団のコピーにすぎない同楽団はアンサンブルも重視、目玉はもちろんホッジスだった。半数弱で概ね１コーラス程度のソロを許されている。なかでは《スウィート・ジョージア・ブラウン》（1952年３月／クレフ）がいいが、ロイのリックが飛びだすとあっては好演がいいところだ。同水準なら、弾むようなノリがバックを想わせる《ホッジ・ポッジ》（７月／ノーグラン）のほうが“らしくて”買える。総じてソロの大半はバック風で好ましいが、ロイがチラつくものはつまらない。ちなみに、ジョン･コルトレーン（ts）が参加した放送録音（1954年６月頃）のトランペッターはハロルド“ショーティ”ベイカーのように思う。1954年８月、サー・チャールズ・トンプソン（p）のヴァンガード・セッションに参加、しばらく中間派セッションへの参加が続く。立て付けに優れ、歌心と活気と躍動感に富む持ち味を発揮して喜ばしい。《フォア》が一推しの快演で、《ダイナフロー》がこれに次ぐ。<br />
<br />
　1955年８月、『ジョー・ジョーンズ・スペシャル』（ヴァンガード）の録音に参加する。最も知られた参加作でエメットの代表作とされてきたが、さてどうだろうか。いつになく華やかでエディソンを想わせるスタイルで通している。『世界ジャズ人名辞典』（スイングジャーナル社）に「エディソンに影響された」とあるが、本作がその拠り所ではないか。これを含めてエディソン風の演奏がないわけではないが、決して支配的ではない。むしろその対極にある端正なスタイルだ。「カンザス・シティ・セヴン」の再編というべき本作ではエディソン風に演奏しただけかもしれない。《シュー・シャイン・ボーイ》《リンカーン・ハイツ》《ジョージア・メー》は快演にちがいなく、らしからぬところがなければ代表作の資格は十分にあるのだが。この５日後と同日に録られたラッシングの『リッスン・トゥ・ザ・ブルース』では元の抑えの効いたスタイルに戻っている。９曲中６曲でとるソロにはドロ臭さのないニートなブルース感覚が漂う。《エヴリデイ・アイ・ハヴ・ザ・ブルース》《グッド・モーニング・ブルース》《イヴニン》が屈指の快演で、残りも水準以上の出来だ。<br />
<br />
　1955年12月、プライスとフランス～北アフリカへのツアーに出た。プライスの諸作を中心としたパリ録音が翌年の５月まで続く。聴けた範囲にこれといったものはなかった。やはり端正でよく歌っているが、あとに何も残らない。盤が未着のアーニー・ウィルキンスの『トランペッツ・オール・アウト』（1957年１月／サヴォイ）は後日に譲るとして、帰米後の録音に一聴に値するものは乏しい。ボビー・ドナルドソン（ds）の２作（1958年５月／サヴォイ系）に期待したが、ディキシー系の一作はリードが中心、スウィング系の一作は出番が少なく不満が残る。好調に見えるだけに惜しい。バックの『コペンハーゲン・コンサート』（1959年９月／スティープルチェイス）も好調だが、より構成力と躍動感に富むバックに一歩を譲っている。《スウィンギング・アロング・オン・ブロードウェイ》が好演だ。バックの『バーゼル1961』（1961年５月／ＴＣＢ）では派手なプレイに終始し、いただけない。このあとにハインズのライヴ作（1967年５月／ジャズ＆ジャズ）があるが、おそらくセクション・ワークだろう。録音で追う限り、1955年で終わった人のように思う。<br />
<br />
　推薦盤はラッシングの『リッスン・トゥ・ザ・ブルース』（ヴァンガード）にした。単なる歌伴ではなくてラッシングを中心としたジャム・セッションなので敬遠しないでほしい。これに次いでは、らしからぬ快演という但し書つきで『ジョー・ジョーンズ・スペシャル』（ヴァンガード）をお薦めする。戦前のものではウィルソンの『ザ・コンプリート・アソシエイテッド・トランスクリプションズ1944』（ストリーヴィル）が最上だ。これ以外の好演や快演についてはそれを集めた選集はなく、個々のリーダーの作品で聴くしかない。<br />
　「その時」の1958年、エメットは何か事業を始めたようだが、50年代では最多となる11セッションに参加している。前述したように目ぼしいものはないが、やはり多忙だったのだろう。「その時」は写真右側、前から２列目、メアリー・ルー・ウィリアムス（p）とセロニアス・モンク（p）の後ろに立っている。虫の居所が悪かったのか、ふだんからこうだったのか、無愛想だ。ヤクザ映画に登場する新興勢力側の親分を連想した。健康悪化が頷ける体形だが、音域といい音量といい、ストレスのない吹奏を許したのもこれだろう。<br />
<br />
<a href="http://www.a-great-day-in-harlem.com/index.html">A Great Day in Harlem</a><br />
<br />
<a href="http://www.cleveland.oh.us/wmv_news/jazz106.htm">Jazzed in Cleveland</a><br />
<br />
Jimmy Rushing/Complete Goin’ to Chicago and Listen to the Blues<br />
Lonehill (Vanguard)<br />
Recorded on August 16, 1955.<br />
<br />
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_top&bc1=000000&IS2=1&npa=1&bg1=FFFFFF&fc1=606060&lc1=0000FF&t=compost0a-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&asins=B000E3L6Z6" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>]]></description>
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<comments>http://com-post.jp/?itemid=375</comments>
 <pubDate>Fri, 29 Jan 2010 07:37:17 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>スウィング｜中間派　　　　　バック・クレイトン：Buck Clayton（tp）当時46歳</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=374</link>
<description><![CDATA[　バック・クレイトンは黄金期のカウント・ベイシー楽団で名をあげ、1950年代の半ばに再興した中間派の雄となる。苦みばしった男前、均整のとれた体、りゅうとした身なりの好漢だった。上海に行ったのは差別を避けるためだったと聞くが、そこでも海兵隊の輩に酷い目にあわされている。アンクル・トムらしからぬ風体が反感を煽ったのではないか。プレイも然り、人は見かけによる。トーンは堅く渋く、フレーズはかっちり引き締まり、高級紳士服をまとうようだった。ルイ・アームストロングの簡明な語法をジョー・スミス（黒人には希なビックス・バイダーベック系）流に洗練したと言えよう。ただ、こうした地味で律儀な行き方は人気者はもちろん、巨人への道も阻んだようだ。好悪を別にして、ロイ・エルドリッジの傑作を即答するのは容易いが、バックは難しい。ロイは正真正銘の巨人だ。バックは巨人ではないが名手で済ますには大物すぎて、その位置付けは難しい。似たタイプにアート・ファーマーがいる。アートはバックの延長線上で一城を築き上げたのだと思う。バックは早く生まれすぎたのか、ロイにもアートにもなりえなかったのか。<br />
<br />
　1911年11月12日、ウィルバー・ドーシー・クレイトン：Wilbur Dorsey Claytonとしてカンザス州パーソンズに生まれる。６歳でピアノを始め17歳でトランペットに替えた。高校卒業後にロサンゼルスに移り、当地のバンドを転々とする。1934年にビッグバンドを編成したが、ほどなく上海に渡り、フランス租界のボールルームで専属バンドを率いた。1936年に帰米するとロサンゼルスでバンドを結成するが、同年の秋、ウィリー・ブライアント楽団に請われニューヨークに向かう。その途上のカンザス・シティでベイシー楽団に勧誘され、やがて看板ソロイストになる。在団中にはテディ・ウィルソン（p）やビリー・ホリデイ（vo）らのセッションにも加わった。1943年11月に兵役に就くが、その合間に数々のセッションに参加している。1946年に除隊するとＪＡＴＰの一員になり、47年にはコンボを結成、48年にはジミー・ラッシング（vo）と活動、49年９月にはコンボを率いてヨーロッパに渡り、50年６月まで単身で同地に留まった。1951年から52年まではジョー・ブッシュキン（p）と組み、53年にはメズ・メズロウ（cl）とヨーロッパを回っている。<br />
<br />
　1953年12月、コロンビアで一連の「ジャム・セッション」がスタート、同シリーズとヴァンガードの諸作を通じてバックは中間派を代表する存在になる。1956年にはコンボを率いてニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演し、57年には再編されたベニー・グッドマン楽団に加わったあとヨーロッパを回り、58年にはブラッセルの万国博で演奏、59年にはニューポート・ジャズ・フェスティヴァルで渡欧した機会に再び同地に留まり、フランス、スイス、イギリスなどを転々とした。1964年の春にはオーストラリアを経て、エディ・コンドン・グループと来日している。1960年代も欧米各地のフェスティヴァルを中心に旺盛な活動を続けていたが、69年？に唇の手術を受け、72年には演奏を断念した。1973年に作／編曲者で復帰、自己名義を含む数作にスコアを提供している。1975年から80年代の初めまでハンター・カレッジで教鞭をとり、1983年にはベイシー楽団の出身者を率いてヨーロッパを回った。1986年にビッグバンドを旗揚げし、作／編曲にクラブ出演に海外ツアーに精魂をふりしぼっていたが、91年12月８日、就寝中にニューヨークで逝去。<br />
<br />
　初録音は1937年１月、ベイシー楽団のデッカ・セッションだ。既にキャリアは十分、出来あがっている。生涯を通じて大きな変化は見られない。時の経過とともに、緩やかにモダン化が進行したというほどのものだ。まして、その時々の動向や潮流に関心を寄せることもなかった。己の領分を弁え己の流儀を貫く、それもまた己の個性に忠実な生き方と言えよう。そんなわけで、研究者はともかく、一般のファンが変遷なるものを見出すべく1600曲に及ぶ録音を精査する必要はなかろう。とはいえ、数が数だけに、ガイドブックで紹介された演奏を聴けば間に合うとも言い切れない。取りこぼしがないのか気にかかる。ここからは各年代の好演や快演を中心にとりあげ、効率的なガイドを目指したいと思う。<br />
<br />
　バックがベイシー楽団および選抜コンボで残した録音は全録音の４分の１に及ぶ。その４分の１ほどで聴けるソロは総じて水準以上と言ってよく、好演と快演は20曲を超える。ベイシー楽団のものでは、簡潔でメロディアスな《スウィンギン・アット・ザ・デイジー・チェイン》（1937年１月／デッカ）、シャープでスウィンギーな《セントルイス・ブルース》（２月／放送録音）、《ビューグル・ブルース》（６月／同）、渋さの極みの《グッド・モーニング・ブルース》（８月／以下デッカ）、《ドント・ユー・ミス・ユア・ベイビー》（10月）、《ブルース・イン・ザ・ダーク》（38年１月）、タイトで立て付けのいい《スウィンギン・ザ・ブルース》（２月）、《ジャンピン・アット・ザ・ウッドサイド》（８月）、ブルージーな《ゴーイン・トゥ・シカゴ》（41年４月／オーケー）、珍しくファイトを漲らせた《フィエスタ・イン・ブルー》（９月／同）が文句なしの快演だ。1938年にハリー・エディソンが入団すると出番の減少にともなって快演も減るが、渋いバックと華麗なエディソンの二本立てはテナーのレスター・ヤングとハーシャル・エヴァンスのそれに並ぶ好対照となった。<br />
<br />
　選抜コンボのものでは、カンザス・シティ・ファイヴ：ＫＣ５の《アイ・ノウ・ザット・ユー・ノウ》（1938年３月／コモドア）、レスター名義でまとめられているＫＣ６の《ゼム・ゼア・アイズ》《アイ・ウォント・ア・リトル・ガール》（９月／同）、『レスター‐アマデウス』（フォンタスティック）に収録されているＫＣ６の《君去りし後》（12月／ライヴ）、『レスター・ヤング・メモリアル・アルバム』（エピック）ほかに収録されているＫＣ７の《ディッキーズ・ドリーム》（39年９月／ヴォカリオン）が代表作だ。ミディアム・バラードの《リトル・ガール》では繊細な、そのほかのファスト系ではタイトで均整のとれた持ち味を発揮している。このほか、同時期のコンボ録音ではビリー・ホリデイ（vo）との共演が聴き逃せない。大和明氏は『ベスト・ジャズ　ベスト・アルバム』（音楽之友社）でバックの一番にあげておられる。氏の肝識には頭が下がるが、テディ・ウィルソン楽団の《ホワイ・ワズ・アイ・ボーン》（1937年１月／ブランズウィック）、《キャント・ヘルプ・ラヴィン・ダット・マン》（11月／同）の味わい深い語り口には誰しも魅了されるだろう。<br />
<br />
　1943年11月に兵役に就く。コロンビアとビクターを除く各社が録音を再開、中間派が勃興した時期にあたる。普通ならその恩恵に浴することはできなかっただろう。幸いにも任地はニュージャージー州のキャンプ・キルマーだった。ニューヨークの近郊とあって、除隊するまでに17セッションに参加している。ただ、軍務の疲れからか、1945年以降は平凡とも水準ともつかない演奏が支配的になっていく。文句なしの快演は『ザ・コンプリート・レスター・ヤング』（マーキュリー）に収録されているＫＣ７の《デスティネイションＫ.Ｃ.》（1944年３月／キーノート）くらいだ。同セッションの《シックス・キャッツ・アンド・ア・プリンス》、コールマン・ホーキンス（ts）の《シャンティ・イン・オールド・シャンティ・タウン》（1944年10月／キーノート）ほか、テディの《ストンピン・アット・ザ・サヴォイ》（45年８月／ミュージクラフト）、チャーリー・ヴェンチュラ（ts）の《レッツ・ジャンプ・フォー・リタ》（同月／ブラック＆ホワイト）ほか、ホット・リップス・ペイジ（tp）の《コルシカーナ》（９月／コンチネンタル）も上々だが、やや落ちると思う。<br />
<br />
　1946年の春に除隊するとＪＡＴＰに加わった。４月のコンサートではドンチャン騒ぎのお膳立てにのってハイノートをヒット、らしからぬ面を見せるが、総じて持ち味に即した好ましい出来を示している。構成力に富み、乗りに乗った《アイ・ガット・リズム》ではロイ風のアプローチを見せて興味深い。同年中の各種セッションに見るべきものはない。持ち味こそ損なわれていないが通り一遍の出来だ。1947年もパッとしないなか、ＪＡＴＰ（録音日不明）の《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》《ベル・ボーイ・ブルース》は久々の快演になった。もっとも、ロイがちらほらするハイノートとレガート・スタイルを没個性的だと言われたらそれまでだが。第二次録音ストライキと重なる1948年はヘレン・ヒュームズとフランキー・レインの歌伴くらいしかない。ストライキがなかったとしても大したものは残せていないだろう。どうも演奏に迷いを生じていたように映る。1949年、ストライキが明けて参加セッションは増えるが、ダイナ・ワシントンやホリデイの歌伴、ルイやサイ・オリヴァー（ldrのサイドマン仕事が続く。<br />
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　1949年の秋、セクステットを率いて訪れたパリで本来の良さを取り戻す。実に快調で、好演と快演が目白押しとなる。リーダー・セッションの《ブルース・イン・ファースト》《ブルース・イン・セカンド》(10月／ロイヤル・ジャズ)、《ナイト・ライフ》（11月／同）、アール・ハインズ（p）の《ジャパニーズ・サンドマン》（11月／ヴォーグ）、ウィリー“ザ・ライオン”スミス（p）の《ナガサキ》（12月／ロイヤル・ジャズ）が何れ劣らぬ快演で、ハインズとスミスの残りも好演だ。転地療法というべきか、迷いが吹っ切れたのだろう、ロイ風のアプローチは見られない。引き締まったファスト系に味わい深いミディアム系、持ち味を遺憾なく発揮している。1950年６月まで同地に留まったが録音は残していない。帰米後は再び停滞に陥ったようだ。ペギー・リーやリー・ワイリーほかの歌伴、ベニー・グッドマン（cl）やポール・クイニシェット（ts）ほかのサイドマン仕事ではもちろん、ジョー・ブッシュキン（p）と組んだ双頭カルテット、バスター・ベイリー（cl）と組んだディキシー・バンドなどのリーダー・セッションに大したものはない。せいぜい水準だ。<br />
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　1953年の春、メズ・メズロウ（cl）とヨーロッパを回り、またしてもパリで気を吐いた。メズのライヴ（３月／ヴォーグ）では、準ディキシー系とあってアンサンブルのリードが中心でソロの出番は少ないし、それらも特筆すべき出来ではない。スタジオ・セッション（４月・５月／ヴォーグ）でもメズ名義では同様だ。ところがである。自らがリーダーに納まると、俄かに本領を発揮した。《スウィートハーツ・オン・パレード》《パトリシアズ・ブルース》《スペシャルＢＣ》《シーズ・ファニー・ザット・ウェイ》と、寛ぎと味わいに満ちた快演が連続する。本領はサイドマンでは、少なくともディキシー系では発揮できる性質のものではなかったということだろう。このあと滞欧中に参加した各種セッションにこれといったものは見当たらない。帰米後の1953年12月、バックに陣頭指揮をとらせたコロンビアの「ジャム・セッション」シリーズがスタートする。カンザス・シティ・スタイルのジャム・セッションにあって、リーダーシップを備え、作／編曲に秀でたバックの起用は的を射たものというべきだろう。<br />
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　1956年３月まで続いたシリーズは「長過ぎるとか、よくリラックスしているとか、賛否相半ばした」（粟村政昭『ジャズ・レコード・ブック』音楽之友社）。いずれも11人以上の大所帯でソロをリレー、ＬＰ片面に１曲から３曲の長尺ジャム・セッションとあっては、寛ぎと冗長は表裏一体だったと言える。５枚のアルバムに分散収録された19曲でバックの出来が良いものだけをあげると、《ジャンピン・アット・ザ・ウッドサイド》（1954年３月）、《ロック‐ア‐バイ‐ベイシー》《ブロードウェイ》（55年３月）が好演、《アウト・オブ・ノーホエア》《ブルー・ルウ》（55年３月）が快演だ。ちなみに《ウッドサイド》と同日の《ブルー・ムーン》ではウディ・ハーマン（cl）一世一代のプレイが聴ける。同時期ではメル・パウエル（p）との共演が聴き逃せない。『メル・パウエル・セプテット』（1953年12月／ヴァンガード）は屈指の快演揃い、『ジャム・セッション・アット・カーネギー・ホール』（54年４月／コロンビア）がこれに次ぐ。評価の高い『バック・ミーツ・ルビー』（1954年７月／ヴァンガード）では新鋭ルビー・ブラフ（tp）に一歩を譲っていると思う。<br />
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　同時期では自ら編曲にあたった歌手との共演作にいいものがある。ラッシング、アダ・ムーアを迎えた『キャット・ミーツ・チック』（1955年８月／コロンビア）は中々の好盤、半数で聴かれるソロも上々だ。続くフランキー・レインの『ジャズ・スペクタキュラー』（1955年10月／コロンビア）は名唱、快適な編曲と伴奏、奏者の優れたソロと、三拍子揃ったヴォーカル名盤になった。バックの露出度も高く、概ね好演と言っていいだろう。1956年以降は自他を問わず普通の出来が支配的になる。代表作とされる『バッキン・ザ・ブルース』（1957年３月／ヴァンガード）にしても聴後の印象に乏しい。目ぼしいものをあげると、ホーキンスの『ザ・ハイ・アンド・マイティ・ホーク』（1958年２月／フェルステッド）が上々で、味わい深い快演と活気に満ちた好演が続くクイニシェットの『ベイシー・リユニオン』（９月／プレスティッジ）が傑出している。リーダー録音では『コペンハーゲン・コンサート』（1959年９月／スティープルチェイス）がスウィングの香り高い好ライヴになった。バックは構成力に富み、歌うように弾むようにスウィングしている。<br />
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　1960年代も水準か水準プラス・アルファの出来が少なくない。ピー・ウィー・ラッセル（cl）の『スウィンギン・ウィズ・ピー・ウィー』（1960年３月／スウィングヴィル）は相性の良さが知れる快盤だが、もちろん主役はラッセルだ。『コペンハーゲン・コンサート』には及ばないものの『オランピア・コンサート』（1961年４月／ヴォーグ）、『バーゼル1961』（５月／ＴＣＢ）はまずまずと言える。滞欧中に残した『パスポート・トゥ・パラダイス』（1961年５月／ヴォーグ）は自然なスウィング感と寛ぎに満ちたこの時期一番の好盤だ。サー・チャールズ・トンプソン（p）のサポートも光る。『エディ・コンドン・イン・ジャパン』（1964年３-４月／キアロスキュロ）では中々好調で、スペースの小さいのが惜しい。1965年からヨーロッパでの録音が急増する。なかではベン・ウェブスター（ts）と組んだ『ベン・アンド・バック』（1967年６月／ストリーヴィル）が最上の成果だ。歌いまくり乗りまくっている。これが最後の快演になりそうだ。トランペットをおく時がきていた。唇と健康の悪化を裏付けるように、1968年の録音は８曲、69年は２曲しか残っていない。<br />
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　1972年にプレイを断念、73年に作／編曲者として復帰した。『バディ・テイト・アンド・ヒズ・バディーズ』（1973年６月／キアロスキュロ）、３作が制作された『バック・クレイトン・ジャム・セッション』（74年３月・６月、75年６月、76年９月／同）などがある。そもそもバックの編曲はソロイストを活かすべくＫＣ流のリフ・アンサンブルや全合奏で通す簡明なもので、聴き所に乏しい嫌いがあった。これらも同様だ。さらに、後者はソロイストが精彩を欠いて冗長極まりない。1986年に編成したビッグバンドの『ア・スウィンギン・ドリーム』（88年10月／スタッシュ）、『ライヴ・フロム・グリニッチヴィレッジ』（90年２月／ナゲルへイヤー）ではＫＣ流一辺倒ではないが、それほど個性的でもない。ミルト・ヒントン（b）の『オールド・マン・タイム』（1990年３月／キアロスキュロ）が最後の仕事のようだ。やはり編曲らしさはない。編曲家としての代表作はベイシー楽団の《ゴーイン・トゥ・シカゴ》（前出）、グッドマン楽団の《ラトル・アンド・ロール》（1945年12月／コロンビア）、レインの『ジャズ・スペクタキュラー』（前出）に尽きると思う。<br />
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　推薦盤には唸った。快作は十指に余るが傑作がないのだ。個性に照らせば是非もない。得点の高い順に、クイニシェットの『ベイシー・リユニオン』（プレスティッジ）、『メル・パウエル・セプテット』（ヴァンガード）をお薦めする。「ジャム・セッション」ものでは快演を集めた『ジャム・セッションズ・フロム・ザ・ヴォールト』（コロンビア）がいい。旧録の大半はベイシーやレスターの名盤で揃うが、１枚ものなら『ヒズ・ベスト・レコーディングス1937-1946』（ベスト・オブ・ジャズ）がホリデイほかとの共演も含む好選集だ。<br />
　「その時」の1958年、バックもまたレコーディングにツアーに多忙な日々を送っていた。生涯を通じて最多の37セッションに参加している。「その時」もブラッセルの万国博から帰米した直後で、翌月には推薦盤『ベイシー・リユニオン』で活躍した。男盛りの46歳、階段の上方で柔和な笑みを浮かべてすっくと立つバックには体力と気力の充実が窺える。バックを追うと、温厚、冷静沈着といった美徳が必ずしも表現の武器になりえないことを改めて思い知らされる。その位置付けは“名手の中の名手”としておくしかなさそうだ。<br />
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<a href="http://www.a-great-day-in-harlem.com/index.html">A Great Day in Harlem</a><br />
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Paul Quinichette/Basie Reunion<br />
Prestige<br />
Recorded on September 5, 1958.<br />
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<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_top&bc1=000000&IS2=1&npa=1&bg1=FFFFFF&fc1=606060&lc1=0000FF&t=compost0a-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=B0018BF31G" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>]]></description>
 <category>column</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=374</comments>
 <pubDate>Thu, 21 Jan 2010 11:12:37 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>「学習の上で獲得する身体感覚」と「無意識のうちに身についている身体感覚」を一旦分けて考えることは有効である</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=373</link>
<description><![CDATA[<b>相澤：</b>音楽が「分かる」ということを、自転車に乗れるようになること、とか、外国語が理解できるようになること、といったアナロジーでずっと考えていたわたしにとって、後藤さんの、ビートルズは自然と分かった、パーカーは学習して分かった、というのは非常に興味深いお話です。<br />
<br />
わたし自身、このような二重の何かを経験していたのかどうか、ずっと考えているのですが、正直なところよくわかりません。84年のA.E.C.公演が個人史の中で決定的であったようには思っているのですが、たまたまチケットをもらって出かけて行った訳ではなく、それまでにジャズにカテゴライズされている当時の新譜は多少は聴いておりました。具体的には、パット・メセニー『トラヴェルズ』、ウェザーリポート『プロセッション』、渡辺香津美『MOBO』などです（いずれも83年発表）。これらの音楽はポップな要素も多分にあり、特にエクササイズをせずとも自然と楽しむことができていたように思います。しかし、A.E.C.の音楽をビートルズのように「ある世代の身体感覚がそれを受け入れる準備が整っていた音楽」とみなすのは無理がありそうです。わたし自身の場合は、後藤さんのようにあるミュージシャンをひたすら聴き込むことによってではなく、世代的な条件から学習せずに楽しめる音楽を通して少しずつ身体感覚が変容していったということになるのかもしれません。<br />
<br />
「『学習の上で獲得する身体感覚』と『無意識のうちに身についている身体感覚』」を一旦分けて考えてみるというのは、（この両者が必ずしも明確に弁別できる訳ではないという前提を置けば）有効だとわたしも思います。そして後者を議論するならば、やはり世代論になってしまうのではないでしょうか。そしてわたしはそれを拒否する必要は特にないと思っています。結論は「時代とともに音楽が変化する」で一向に構わない、重要なのは「どのように変化したか」ということが「どのように記述できるか」ということではないかと思っているのです。<br />
<br />
つまり、結果的にその記述に寄り添う形になったとしても批判する形になったとしても、今までピンとこない音楽でしかなかったものに、新たな向き合い方ができる可能性が開ければそれでよい、とわたしは考えているようです。<br />
<br />
一例といえるかどうか分かりませんが、ひとつ覚えていることをあげてみます。前項で清水靖晃の『北京の秋』について記述しましたが、当時ジャズライフ誌で軒口隆策氏が清水のインタビューでの「シンセドラムを使ったのは山木君がこの前買ったから」という発言を引用し、これは従来のミュージシャンには見られない新しい感覚だ、というような寸評を記していたと記憶しています。多分わたしはその後清水のインタビューを読み返し、あらためて『北京の秋』を聴くことでその面白さを理解していったのだと思われます。<br />
<br />
90年代初頭、マイルスの死を象徴的なメルクマールとして、無意識の身体感覚の変容が認識の切断を引き起こした、と仮説をたてたときに音楽との向き合い方を変える可能性を持つ言説が導けるのかどうか、というのがさしあたってはわたしの関心です。<br />
<br />
が、後藤さん・益子さんのそれとはずれているのだろうと思います。返信が遅くなったうえにほとんど繰り返しで話が進展していないのは恐縮ですが、どのあたりがずれているのかという点が明確になると議論が道筋が見えやすくなるように感じるのですがいかがでしょうか。]]></description>
 <category>critique</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=373</comments>
 <pubDate>Fri, 8 Jan 2010 18:30:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>スウィング｜中間派　　　　　ヴィック・ディッケンソン：Vic Dickenson（tb）当時51～52歳</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=372</link>
<description><![CDATA[　中間派をスウィング派とモダン派の中間と思われている方が少なくないようだ。そんな使い方をしている文章もまま見かける。欧米ではメインストリーム・ジャズと呼ばれる。スウィング派とモダン派の中間に位置する過渡期的なスタイル（モダン・スウィング）を“主流”と呼ぶはずがないだろう。本来はディキシーでもモダンでもないということだ。つまりスウィングだが、黒人の演奏をスウィングと呼ぶことを嫌ったジャズ評論家時代の大橋巨泉氏が中間派と名付けた。スウィングとは明るく軽快な楽想からジャズとは別物とうけとめられた白人主導のジャズに付けられたものなのだ。狭義では1950年代の半ばに興隆したスウィング・セッションを指すが、広義ではモダン期のスウィング・セッション全般を指す。そもそもはバップ胎動期に興隆した、ビッグバンドの行き方に反旗を翻し、一方で急進的なバップにも与しなかったスウィング派によるコンボ・セッションを指す。1950年代の半ばに再興した中間派の覇者となったのがバック・クレイトン（tp）、それにヴィック・ディッケンソンだった。独得の寛ぎに満ち、機知に富む、超個性派の名手だ。<br />
<br />
　1906年８月６日、ヴィクター・ディッケンソン：Victor Dickensonとしてオハイオ州ジニアに生まれる。16歳の頃にプロ・デビュー、中西部のバンドを転々としたあと、ニューヨークに上った。ブランチ・キャロウェイ楽団（1933-36年）、クロード・ホプキンス楽団（36-39年）で名を上げ、次いでベニー・カーター楽団（1939-40年・41年）、カウント・ベイシー楽団（40-41年）で働く。戦時中はフランキー・ニュートン（41-43年）、エディ・ヘイウッド（43-46年）などのコンボで演奏し、シドニー・ベシェ（ss）らとも共演した。1947年、西海岸を楽旅中に健康を害して休養、その後は同地で、やがてボストンを中心に活動する。1957年にニューヨークに戻り、60年から68年まで「セインツ＆シナーズ」を率い、64年にはエディ・コンドン（g）のグループに加わって来日した。1968年にボビー・ハケット（co）とコンボを結成し、「ルーズベルト・グリル・ホテル」に長期出演している。1970年から73年は「ワールド・グレイテスト・ジャズ・バンド」に加わって欧米各地を回った。最晩年まで第一線で活動し、1984年11月16日、癌によりニューヨークで逝去。<br />
<br />
　初録音は1927年11月、ウィリー・ジョーンズ楽団のジェネット・セッションだ。手を尽くしたが見つからなかった。1930年12月、ルイ・ラッセル楽団のブランズウィック・セッションの１曲に歌手として参加している。甘い歌唱が時代を感じさせるがプロ級だ。1931年11月に参加したザック・ホワイト楽団のジェネット・セッションはお蔵入りした。キャロウェイ楽団のセッション（1934年８月／パーフェクト、35年11月／ヴォカリオン）中の４曲、ホプキンス楽団のセッション（37年４月／デッカ）中の１曲、カーター楽団のセッション（39年７月／放送録音、11月／ヴォカリオン）中の６曲で聴けるソロがそうだという確信はない。ディッキー・ウェルズ系のマイルドなソロはそうではないかと思う。<br />
<br />
　結局、どうにか識別できるのは少しは“らしく”なるベイシー楽団の録音からだ。《アイ・ガット・リズム》（1940年２月／放送録音）の先発はディッキー、後発がヴィックだろう。闊達な前者に対して後者はややルーズなのだ。それにしても、両者の識別には難儀する。ヴィックがディッキーの影響から脱しきれていないからだ。ヴィックとされるか、そうと見られるのは《アイ・ネヴァー・ニュウ》の後発と《ルイジアナ》《レット・ミー・シー》（1940年３月／コロンビア）、《ブロウ・トップ》（５月／以下オーケー）、《ザ・ワールド・イズ・マッドⅠ》（８月）、《ロッキン・ザ・ブルース》（12月）だ。《アイ・ネヴァー》は初期を代表する好演だが、あとはまずまずといったところ。ベイシー楽団時代は、いまだ絶頂期の余燼をくすぶらせていたディッキーに一歩を譲っていたようだ。約１年で退団、一時的にカーター楽団に復帰した。《マイ・フェイヴァリット・ブルース》（1941年４月／ブルーバード）で、くぐもったトーンによるルーズな語り口という、よりヴィックらしい個性の確立に向かっていることがわかる。これも初期の姿をとらえた好演にあげておく。<br />
<br />
　このあとは概ねコンボ一筋になる。ベシェのセッション（1941年10月／ビクター）でソロは許されていないが、のちに持ち味になるノンシャランな語り口を見せて興味深い。２曲に聴くヴォーカルは奏者の流儀だ。エドモンド・ホール（cl）のセッション（1943年11月／ブルーノート）になるとヴィックにほかならない個性が確立されている。ベシェのセッションでの進境に照らして1942年には出来上がっていたのではないか。《ハイ・ソサエティ》が一番の出来で、そのほかも上々だ。このあと、スタイルが変わることはない。くぐもり感が強かったり弱かったり、張りが強かったり弱かったり、トーンの変化はまま見られるが、その時々のミュートの使用頻度も効いているように思う。実際、ヴィックのオープンと多用したプランジャー・ミュートの差は小さく、識別に困ることがままある。ともあれ、ここからは代表的な演奏を中心に述べていく。水準以上の演奏は無数にあってあげきれない。平均点の高さは己の個性に忠実な姿勢を貫いた証だ。また、朗々型ならぬ朦朧型とでもいうべきアプローチはトロンボーンの機能も拡張したと言っていいだろう。<br />
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　前記ホールのセッションに続く、ベシェの《セントルイス・ブルース》（1943年12月／Ｖディスク）、ホールの《アップタウン・カフェ・ブルース》（同月／コモドア）も上々だ。前後して参加したヘイウッドのコンボでは出番は少なく露出度も低い。売りはリーダーのピアノと洒落たアンサンブルだった。なかでは《恋のため息》（1944年２月／コモドア）、《ジャスト・ユー、ジャスト・ミー》（３月／同）が貴重な好演だ。同時期のアルバート・アモンズ（p）の《ボトム・ブルース》（２月／コモドア）、ジェームズ・Ｐ・ジョンソン（p）の《ブルー・ミズ》《ジョイ・メンティン》（３月／ブルーノート）も好演だった。出来は普通だが、４人のトロンボーン奏者が競演したベニー・モートンの「トロンボーン・クワイア」（５月／キーノート）は識別に唸る面白い演奏だ。ヴィックとその流れを汲むビル・ハリスの差異が知れる。1945年ではコールマン・ホーキンス（ts）の《アイム・スルー・ウィズ・ラヴ》（３月／キャピトル）、ヘイウッドの《コケット》（11月／デッカ）、奔放な面を見せたレスター・ヤング（ts）の《Ｄ.Ｂ.ブルース》（12月／アラジン）が上出来だ。<br />
<br />
　1946年、戦後不況が襲う。参加セッションは前年の26件から９件に落ち込む。ソロの機会も乏しいなか、ヘイウッドの《ユー・メイド・ミー・ラヴ・ユー》（８月／デッカ）が唯一かつ在団時屈指の快演になった。1947年、事態はさらに悪化する。一聴に値するのはジャスト・ジャズ・コンサートの《ジャスト・ユー、ジャスト・ミー》《ワン・オクロック・ジャンプ》（４月／ＧＮＰ）しかない。創造的ではないが、張りのあるトーンによる活気に満ちたロング・ソロが聴ける。このあとはジュリア・リーの歌伴が続くが、３回目となる11月のセッション（キャピトル）でも珍しくヴァイタルなソロをとっている。この時期に顕著なアグレッシヴなアプローチはトラミー・ヤングにかぶれたのではないかと思うが、健康悪化のせいか、幸い実を結ばなかった。年が明け、第二次録音ストライキが始まる。同年中には活動を再開したようだ。1949年５月にはホールのコンボに加わってボストンの「サヴォイ・カフェ」に出演、次いでカーターのセッション（モダン）に参加している。ここからホール、ベシェ、ハケットなど、ディキシー派との活動がメーンになっていく。<br />
<br />
　いまだ病み上がりだったのか、1949年５月から52年４月までに残した彼らとの共演に大したものはない。1952年６月、ヴィックはブルーノートでリーダー・セッションに臨み、復調以上の結果を出す。張りがあって音域も高いのにマイルドで、時にグロウルも交え、表現力を発揮する。２曲のバラード、《テンダリー》とトミー・ドーシーの十八番に挑んだ《センチになって》は味わい深い名演だ。同年はこれといった録音に恵まれなかったが、1953年も好調は持続していた。ピー・ウィー・ラッセル（p）の『ウィアー・イン・ザ・マネー』（1953年／ストリーヴィル）などはスペースの小さいのが惜しまれる。ベシェの『アット・ストリーヴィル』（５月／同）も、《Ｃ・ジャム・ブルース》《ハニーサックル・ローズ》などのスウィング系を中心に半数は好演だ。傑作『ヴィック・ディッケンソン・ショウケース』を生み出す態勢は整っていた。この機をとらえたヴァンガードのジョン・ハモンドはエラい。12月、セッションに臨んだヴィックは張りのあるマイルドなトーンで歌心に溢れた立て付けの良いソロを繰り広げ、好演と快演が半ばする中傑作をものする。<br />
<br />
　ライヴ活動で多忙だったのか、1954年も録音の機会はわずか３件にとどまっていたが、11月に録音した『ショウケース第２集』が前作をしのぐ傑作になった。くぐもり感のあるトーンをメーンに、文字通りワイルドに疾走する《ランニン・ワイルド》からウォーム＆ジェントルな《オールド・ファッションド・ラヴ》まで、すべてが快演に値する。サイドマンの助演も光り、ヴィックの傑作にとどまらず中間派の傑作になった。続く参加作では『ザ・ルビー・ブラフ・スペシャル』（55年10月／ヴァンガード）の半数、ジミー・ラッシング（vo）の『イフ・ジス・エイント・ザ・ブルース』（57年３月／同）が上々で、『ジ・エディ・コンドン・オールスターズ・ディキシーランド・ジャム』（８月／コロンビア）はディキシー系のベストだ。後者の露出度は低いが活力と構成力に富むソロで引きつける。ラッセルの『ポートレート・オブ・ピー・ウィー』（1958年２月／カウンターポイント）、ホールの『小さな花』（12月／ユナイト）中の４曲、ビッグ・ジョー・ターナー（vo）の『ビッグ・ジョー・ライズ・アゲイン』（59年９月／アトランティック）も好演だった。<br />
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　1960年代に入るとスウィング派との活動が増えてくる。望ましい。ヴィックをヴァーサタイルな名手と評価する声があるが、ソツなくこなせるとハマっているとは別物だろう。過去、スウィング系のほうが好演や快演の発生率は高い。ところがである。期待に反して芳しくない。依然として個性的で衰えも窺えないが、可もなく不可もない凡演が支配的になり、わずかとはいえアイデアを欠いた駄演すら見られるのだ。来日時の記録『エディ・コンドン・イン・ジャパン』（1964年３-４月／キアロスキュロ）では上手いことは上手いのだが印象に乏しい。ヨーロッパ・ツアーの記録『ジャズ・フロム・ア・スウィンギング・エラ』（1967年３月、フォンタナ）でもソツがないだけの月並みな演奏が多数を占める。及第点は《アイ・メイ・ビー・ウロング》《ヴィックス・スポット》の快演を筆頭に本来の出来を示すオールスターズの『昔は良かったね』（1961年５月／スウィングヴィル）しか見当たらなかった。1960年に組織した「セインツ＆シナーズ」の経営に煩わされていたのだろうか。1968年に始まるハケットとの共演でも当初は停滞を脱する兆しは見られない。<br />
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　1970年の春、事態は好転した。『ライヴ・アット・ザ・ルーズヴェルト・グリル第４集』（３-５月／以下キアロスキュロ）の目玉はハケットだが、ヴィックも水準以上の好ましい出来を見せる。同所でのライヴ盤は６作あるが、キアロスキュロの第１作（1970年５月、『第１集』の表記はない）が最上だ。ディキシー系とスウィング系が混在するが、洗練のハケットに余裕のヴィック、激することのない両者の持ち味が遺憾なく発揮されている。両者が快走する《スウィング・ザット・ミュージック》と、ヴィックをフィーチャーした《オール・マイ・ラヴ》ほか２曲は晩年を代表する快演だ。面白いことに両者の好不調は同期している。『第２集』（1970年５月）と『第３集』（70年４月か５月）はともに元気が足りない。それほど相性がよかったのだろう。同時期に参加し始めた「ワールド・グレイテスト・ジャズ・バンド」では大所帯とあって出番は少ないし露出度も低い。ヴィックに限らず個人プレイが目当てなら諸作を追う必要はないだろう。それを抜きにすればコマーシャルな『ホワッツ・ニュウ』（1970年12月／アトランティック）が楽しいアルバムだ。<br />
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　60代の半ばを過ぎてもクラブにコンサートに旺盛な活動を続けていた。ヨーロッパにも再三渡っている。しかし、老いは確実に訪れていた。精彩を欠いて衰えを確信させたかと思うと、今度は活気を甦らせるといった具合で、調子の持続が難しくなっていたようだ。ミュートと細切れフレージングの多用は息の衰えをカバーする方策に思える。後者などはタレ流し感を強めただけだ。そんななかで、ベッシー・スミス（vo）とその歌唱を彩った名手チャーリー・グリーン（tb）に捧げた『プレイズ・ベッシー・スミス：トロンボーン・チャーリー』（1976年３月／ソネット）は味わい深い秀作になった。ミディアム系のブルースを中心に、ウォーム＆ジェントルな持ち味を発揮する。これに１週間先立つブラフの『ゼム・ゼア・アイズ』（同）でも好調だ。このあとは、さすがに参加録音は散発になる。なかでは、出番は少なくアル・グレイに一歩を譲るが、『ベイシー・ジャム：モントルー’77』（1977年７月／パブロ）が好演だった。1980年代にこれといったものは見当たらないが、70代の半ばを過ぎても決してボロボロではない“普通の演奏”ができたのは凄いことだ。<br />
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　推薦盤は、『ジ・エッセンシャル・ヴィック・ディッケンソン』（ヴァンガード）にした。『ショウケース第１集』の全曲と『第２集』の７曲中５曲を収めている。これに次いでは『プレイズ・ベッシー・スミス』（ソネット）と、『ライヴ・アット・ザ・ルーズヴェルト・グリル』（キアロスキュロ）がいい。旧い演奏を聴くなら『ア・トゥルー・トロンボーン・マスター』（ＥＰＭ）が便利だ。1940年から46年までの好演と快演がほぼ収められている。未収録のブルーノートへのリーダー・セッションは何かの機会に是非とも聴いてほしい。<br />
　「その時」に先立つ1957年、ヴィックは久しぶりにニューヨークに戻っている。多くのスウィング派と同様に、ライヴにレコーディングに多忙な日々を送っていた。「その時」はヨーロッパ巡演を終えて帰国した直後だ。ちなみに、ベシェと共演したブラッセル録音の遅いほうの日付は８月３日とされる。「その時」の範囲が少し狭まった。「その時」は写真右側の後列、レスターの隣にいる。温厚な人物のようだ。推薦盤のジャケットでは洒落た格好でノンシャランにキメている。ヴィックの音楽性をもとらえた好ショットだと思う。<br />
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<a href="http://www.a-great-day-in-harlem.com/index.html">A Great Day in Harlem</a><br />
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The Essential Vic Dickenson<br />
Vanguard<br />
recorded on December 29, 1953 & November 29, 1954.<br />
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<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_top&bc1=FFFFFF&IS2=1&npa=1&bg1=FFFFFF&fc1=606060&lc1=0000FF&t=compost0a-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&asins=B000000ECF" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>]]></description>
 <category>column</category>
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 <pubDate>Wed, 30 Dec 2009 17:11:18 +0900</pubDate>
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 <title>スウィング｜コンボ　　　　　Ｊ.Ｃ.ハード：J.C.Heard（ds, vo）当時40歳</title>
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<description><![CDATA[　1944年７月２日、ロサンジェルスのフィルハーモニック・オーディトリアムでオール・スターによるジャム・セッション形式のコンサート「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック：Jazz At The Philharmonic」が開催された。この成功を機に、同所を中心に各地でコンサートが催されていき、主催した25歳の白人ジャズ・ファン、ノーマン・グランツはジャズ界有数の実力者にのしあがっていく。第１回の頭文字をとってＪＡＴＰと呼ばれるようになった一連のコンサートは1960年まで続いた。スウィング派とモダン派のスターが一同に会した1940年代のＪＡＴＰは超一流のコンサートとして熱狂的な人気を呼んだが、やがて似たような面々による似たような演奏に終始するようになり、「ジャスト・ジャズ・コンサート」などの類似品も台頭してくる。1950年代に入ると、グランツは打開策を打ち出していく。従来のオール・スターによるジャム・セッションに加えて、スターを自在に組み合わせた臨時コンボ、オスカー・ピーターソン・トリオなどのレギュラー・コンボ、同じ楽器によるバトルなどのセットを設け、変化に富むコンサートに生まれ変わらせた。<br />
<br />
　1950年代のＪＡＴＰにあってオール・スター・ジャム・セッションと臨時編成コンボのリズムを担ったのがバディ・リッチ、次いでＪ.Ｃ.ハードだ。チック・ウェッブ、シド・カトレット、ジョー・ジョーンズといったスウィング派の巨人の奏法を融合し、さらにはバップ・ドラミングをも取り入れたハードは、新旧の世代が競演を繰り広げるＪＡＴＰのセッティングには好都合のドラマーだったと言える。日本との縁も深い。1953年11月にＪＡＴＰに加わって来日すると一行ともども熱烈な歓迎をうけ、暮らしぶりも気に入ったハードは１年ほど滞在した。公演の直後には秋吉敏子（p）の初リーダー・セッションに、翌年には笈田敏夫（vo）のセッションに参加し、秋吉、ナンシー梅木（vo）らと活動した。<br />
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　1917年10月８日、ジェームズ・チャールズ・ハード：James Charles Heardとしてオハイオ州デイトンで生まれ、ミシガン州デトロイトで育つ。10歳でドラムスに手を初めたが十代の頃はヴォードヴィルのダンサーだった。当時のアイドルはキューバ・オースチン、ウェッブ、カトレットだったという。テディ・ウィルソン楽団（1939-40年）で名をあげ、コールマン・ホーキンス楽団（40年）、ベニー・カーター楽団（41年）、キャブ・キャロウェイ楽団（42-45年）を渡り歩く。1946年から48年にかけてはコンボを率い、46年にはＪＡＴＰでも演奏している。そのかたわらビバップを含む多くのセッションに参加した。やがてＪＡＴＰに加わり、1953年からツアーで訪れた日本に滞在、オーストラリアなどを経て57年に帰国する。1958年に再びＪＡＴＰに参加、ブラッセルとカンヌを巡演した。その後はニューヨークを拠点に活動、ホーキンスのコンボなどで演奏し、コンボを率いてロサンジェルスやラスヴェガスでも活動する。1966年にデトロイトに移り住み、81年からモダン・ビッグバンドを率いた。1988年９月27日、ミシガン州ロイヤル・オークで逝去。<br />
<br />
　初録音は1939年５月、ウィルソン楽団のブランズウィック・セッション（２曲、１曲は未発表）だ。仲間内で高く評価されつつも短命に終わった楽団の初録音でもある。音質は芳しくない。ビートのキープはハイハットの４ツ打ちによるものと聴いた。あとはリム・ショットが聴けるくらいだ。初期の奏法を知るには６月以降のセッションのほうがいい。ビートのキープはハイハットに委ね、スネアによるオン・ビート・アクセントにリム・ショットを含む２ツ打ち、時にフロア・タムによるパラディドルを交えるといった具合だ。ウェブ流の躍動感、シド流のリム・ショット、ジョーンズ流のハイハット・レガートと、さほど個性的ではないが堅実で、手数の少なさからくる単調さを覇気が打ち消している。《ブーリー‐ジャ‐ジャ》は初期の快演だ。このあとしばらく奏法に変化は見られない。続くホーキンス楽団でもワンパターンだが、スタジオ録音（1940年８月、オーケー）よりサヴォイからの実況放送（同月）のほうが活き活きしてはいる。同楽団も短命に終わった。ビジネス・モデルを確立していた業界は、経営の才を顧みず次々に独立させていたのだ。<br />
<br />
　カーター楽団のブルーバード・セッション（1941年１月）ではワンパターンの極みだが、活気があって救われる。1940年から42年にかけて参加したビリー・ホリデイ（vo）、ヘイゼル・スコット（p）、テディなどのコンボ・セッションに見るべきものはない。ブラシを主体にタイムキープに徹している。テディのセッション（1941年９月、コロンビア）からトップ・シンバルによるビートのキープが見られるようになるが、本格化にはほど遠い。1943年に入団したキャロウェイ楽団は最盛期を過ぎていたが、依然として第一級の偉容を誇っていた。水が合ったのだろう、かつてなく躍動的で力強い。ライヴ特有の熱気が漲る実況放送（1944年８月・45年７月）が一番で、《ロシアン・ララバイ》は屈指の快演だ。一方、同僚らと組んだコンボでは上記と同様で、単調な演奏も少なくない。1944年７月のアイク・ケベック（ts）の《インディアナ》（ブルーノート）、ピート・ブラウン（as）の《アイ・メイ・ビー・ウロング》（キーノート）がまずまずだった。前者からトップ・シンバルによるビートのキープ、スネアのオフ・ビート・アクセントというモダン化が進む。<br />
<br />
　退団後はほぼコンボ演奏で通している。これまでコンボではスリルや精彩を欠くことが少なくなかった。悪しき影響と見るべきか、お気に入りの一人だというリッチがそうだ。傾聴に値するものが出てくるのだろうか。1946年から率いたセクステットのセッション（３月、コンチネンタル）では月並みで、ＪＡＴＰ（５月・６月、ヴァーヴ）では手数は多いが平板だ。1940年代の後半で好演と呼べるのはケベックの《ザ・マスカレード・イズ・オーヴァー》（46年９月、ブルーノート）、ハワード・マギー（tp）のセッション（47年12月、ダイアル）、自己の《オロッパ》（48年５月、アポロ）くらいだろう。奏法の上ではディジー・ガレスピー（tp）のセッション（1946年２月、ビクター）でバップらしくなる。<br />
<br />
　1950年代も堅実とも単調ともつかない演奏を量産していく。そんななかでは堅実ながらスウィンギーなサポートを見せたレスター・ヤング（ts）のセッション（1952年11月、ノーグラン）がいい。ＪＡＴＰ（1953年９月、ヴァーヴ）では持てる技を総動員、リズム・マシーンさながらだ。実にアグレッシヴだが、長時間演奏が一本調子を促してしまった。ＪＡＴＰの来日公演（1953年11月、パブロ）でも技の在庫一掃セールで臨んでいるが、出来はこちらが勝る。ＪＡＴＰ屈指の名演揃いで音質も良好だ。ハード云々にかかわらず持っていて損はない。この直後の『アメイジング・トシコ・アキヨシ』（ノーグラン）では久々に好サポートを見せた。ほぼステディなブラシ・ワークだが、活気と躍動感に満ちている。1957年の帰国後は相変わらず堅実とも単調とも思える演奏が続く。そんななかでは初リーダー・アルバム『ジス・イズ・ミー、Ｊ．Ｃ．ハード』（1958年３月、アーゴ）が見逃せない。ドラムスに加えてボンゴや甘いヴォーカルを披露するなどエンターテイナーとしての面を打ち出し、軽快でナチュラルなスウィング感が漂う快適盤に仕上げている。<br />
<br />
　1960年から61年にかけてはプレスティッジ系のセッションが集中した。モダン系ではジョン・ライト（p）のトリオ作『ナイス・ン・テイスティ』（1960年11月）が上々だ。堅実だが一本調子ではない。1952年の秋から見られるようになるハイハットの２ツ踏みの本格導入が効いている。ここでのハードは普通にモダン・ドラマーと呼んでいいだろう。スウィング系ではショーティ・ベイカー（tp）とドク・チータム（tp）の『ショーティ＆ドク』（1961年１月、スウィングヴィル）が上々で、《ベイカーズ・ダズン》《ララバイ・イン・リズム》は中期の快演だ。このあと1960年代の録音は参加説があるものを含めても３セッションしかない。ロサンジェルスやラスヴェガスでの活動、1966年にデトロイトに移り住んだことが効いたのだろう。参加説があるカウント・ベイシー楽団の『ベイシー・ピックス・ザ・ウィナーズ』（65年１月、ヴァーヴ）のドラマーは別人ではないかと思う。<br />
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　1970年代はブルース／スウィング系レーベル、ブラック＆ブルー（仏）のセッションが集中した。実に18セッションに参加していて、1978年の３月などは４日続けての登板になっている。いずれも堅実にして単調、ワンパターンの謗りは免れない。イリノイ・ジャケー（ts）のセッション（1978年３月）、ジョナ・ジョーンズのセッション（７月）では幾分活発だが、それが普通だと言われればそれまでだ。残念ながら見るべきものはない。<br />
<br />
　このあとはデトロイトに落ち着き、地元ジャズ界のドンのような存在になった。ハード名義を含めて７セッションあるが、どれも自主制作のようだ。３作目で最後のリーダー・アルバム『サム・オブ・ジス、サム・オブ・ザット』（1986年12月、ヒロコ）が聴けた。1981年から率いたビッグバンドの唯一の記録だ。恐らくスコアによるものと思われるが、これほど多彩なドラミングを繰り広げるハードはまたとない。フィルインは頻出するし、アンサンブルのフレーズに合わせたメロディックな叩き込みも見せる。とはいえ、ドシャメシャではない。ビッグバンド・ドラミングとしてはスタティックな部類に入り、総じて快適なビートを送り続けることに専念している。圧巻はソロを含めて活躍する《ニカズ・ドリーム》で、生涯の名演ではないか。８曲中５曲では、声は衰えたものの甘い語り口のヴォーカルも聴かせる。サド‐メル系と思しきサウンドは大して個性的ではないし、キーボードやフェンダー・ベースの採用はコーニーに響くが、バンドのまとまりが実によく、上質のエンターテインメント性を備えたモダン・ビッグバンドの好盤に仕上がっている。<br />
<br />
　推薦盤は入手の難しさを顧みず『サム・オブ・ジス、サム・オブ・ザット』（ヒロコ）に決めた。これに次いでは『ジス・イズ・ミー、Ｊ．Ｃ．ハード』（アーゴ）がいいだろう。これらで、ハードの志がエンターテインメント性と音楽性の両立にあったことがわかる。奇矯な芸で客を引き寄せる一方でバンドを第一級に育て上げたキャブに憧れていたのではないか。単調だとかワンパターンだとか、ドラマーとしての技量を云々するのは見当外れかもしれない。このほかに特筆した演奏やアルバムについてはハード目当てに追う必要はなく、それらを聴く機会があればハードにも耳を傾けていただくことで間に合うと思う。<br />
　「その時」は帰国の翌年、再びグランツの傘下で活動していた。３月には初リーダー・アルバムを録音、７月にはＪＡＴＰでブラッセルとカンヌを回っている。「その時」、大物ドラマーは階段に集中した。ハードは気後れしたのか遅れて来たのか、写真の右、ロイの後ろで微笑んでいる。肩口から覗く右手が不気味だ。背後のジェリー・マリガン（bs）のものにしては妙に捩れている。なんのことはない、隣でふざけるディジーのものだった。<br />
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J.C.Heard/Some of This, Some of That<br />
Hiroko Records<br />
Recorded on December 26, 1986.<br />
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<a href="http://www.a-great-day-in-harlem.com/index.html">A Great Day in Harlem</a>]]></description>
 <category>column</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=371</comments>
 <pubDate>Mon, 14 Dec 2009 14:01:16 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>スウィング｜コンボ　　　　　ジョー・トーマス：Joe Thomas（tp）当時49歳</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=370</link>
<description><![CDATA[　1941年、第二次大戦への参戦を機にビッグバンドは衰退に向かう。ガソリン、タイヤ、バス、列車といった移動手段の使用規制によって稼ぎ頭の地方巡業に支障を来たすようになる。さらに、戦時特別課税の対象になったボールルームの営業時間短縮や閉鎖、団員の兵役が追い討ちをかけた。しかし、それでビッグバンドが壊滅したわけではない。旺盛な需要があったことは団員の熾烈な引き抜き合戦が物語っている。1950年にカウント・ベイシー楽団がコンボへの縮小を余儀なくされたように、数多くのビッグバンドを解団に追い込んだのは戦後不況と、ビッグバンドからコンボへ、体制の変化だった。戦時下のビッグバンドは数々の困難に直面しつつも、いまだ（最後の）繁栄を享受していたと言えよう。<br />
<br />
　1942年８月、ＡＭＦ（アメリカ音楽家連合会）による第一次録音ストライキが始まり、最終的には44年11月まで続いた。ビバップの胎動をとらえることはかなわず、ジャズ・レコード史上の痛恨事とされる。ビッグバンド経営にとっては致命的ではなかったはずだ。レコーディングやラジオ出演の主眼はプロモで稼ぎ頭ではなかった。仮にそうだったら、ジェームズ・ペトリロ委員長の豪腕をもってしても、ここまでミュージシャンの足並みが揃うことはなかっただろう。1943年９月にデッカがＡＭＦに屈すると、コモドア、ブルーノート、キーノート、シグネチュアなどのマイナー・レーベルが続く。レコーディングに飢えていたミュージシャンが殺到したからたまらない。ギャラが暴落、それを当て込んだインチキ・レーベルすら出現する羽目になる。会社もミュージシャンもレギュラー編成で勘定が合うはずはなく、多くは臨時かつ白黒すら問わないコンボ編成がとられた。そんな時期に生涯最多のセッションに参加したのがジョー・トーマスだ。生涯に参加した録音は62セッション236曲と少ないが、1944年から46年にかけての録音で３分の１を占める。<br />
<br />
　1909年７月24日、ミズーリ州ウエブスター・グローブスで生まれる。1928年にセシル・スコット楽団でデビュー、ダレル・ハリス楽団、シャッフル・アバナシー楽団、ハロルド・フラッド楽団など、中西部のバンドを渡り歩く。1934年にニューヨークに進出し、フレッチャー・ヘンダーソン楽団（同年・36-37年）、ベニー・カーター楽団（39・40年）などで名を上げた。退団後はグループを断続的に率いるかたわら、1944年から46年にかけては数々のセッションに参加、48年はコジー・コール（ds）、49年はバド・フリーマン（ts）などと共演した。1950年代以降は表舞台から消えた格好になったが、1970年代の半ばまでフリーランサーで活動を続けた。1984年８月６日、カンザス州カンザス・シティで逝去。<br />
<br />
　初録音の候補にサラ・マーチン（女性ブルース歌手）のオーケー・セッション（1925年11月、ニューヨーク）があげられる。時期も場所も疑わしく、伴奏に聴くルイ流のホット・ヴィブラートは後年の奏法とは縁遠い。ミズーリ・アンダーソン（女性ブルース歌手）のヴォカリオン・セッション（1926年６月、セントルイス）のほうが可能性が高いとされる。時期と場所はありえそうだが、ソロが16歳にしては出来すぎで、ルイからの影響もさほど感じられない。初録音説が真実なら大したものだが、その可能性はなきに等しいと思う。<br />
<br />
　1934年、トーマスはヘンダーソン楽団に入団する。初セッション（３月、ビクター）の４曲中３曲のソロは看板ソロイストのヘンリー“レッド”アレンに委ねられ、トーマスが聴けるのは１曲、それもテーマの４小節だ。微かなヴィブラートに個性が窺えるが、それ以上は掴めない。初期の姿は９月のアレックス・ヒル楽団のヴォカリオン・セッションにとらえられている。ヴィブラートは小さいが語り口はルイ系だ。10月のセッションに聴くルイに近いソロはベニー・カーターによるものだろう。同年の暮れ、ヘンダーソン楽団はリーダーの商才のなさから解団の憂き目を見た。1936年、トーマスは再起した楽団に再び参加する。今度はロイ・エルドリッジが看板ソロイストとあってソロは許されていない。当時のものではリル・アームストロング（vo）のセッション（1936年10月・37年４月、デッカ）が一聴に値する。やはりヴィブラートは小さくダーティ・トーンも見られない。ルイ系に特有のエグミのなさがスッキリした印象を与える。やはりルイ色が支配的だが、４月の《ボーン・トゥ・スウィング》はロイ系のストレートな語り口を見せた快演だ。<br />
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　1939年に入ったカーター楽団でもソロの多くはリーダーがとっているが、ヘンダーソン楽団時代より出番は増えた。アレン系の《サヴォイ・スタンピード》（６月、ヴォカリオン）、ロイ＞アレン系の《ハニーサックル・ローズ》（７月、放送録音）が初期を代表する快演だ。　在団時のラスト・セッション（1940年１月、ヴォカリオン）ではスマートなルイといったところで、いまだ発展途上だ。これに続くアート・テイタム（p）のセッション（1941年１・６月、デッカ）になると独自のスタイルを確立している。張りは強いがエッジのないウォームなトーンで、中音域をメーンにシンプルで明快なラインを綴っていく。クールでジェントルな語り口はルイ系にあって異色の存在と言えよう。《バッテリー・バウンス》が一番の出来で、ジョー・ターナーのヴォーカルに付けるオブリガートも実に味わい深い。このあとはスタイルが変わることはないので、重要な演奏を中心に見ていくことにする。<br />
<br />
　トーマスの録音ラッシュは1944年１月、ロイの「トランペット・アンサンブル」（以下キーノート）に始まった。ロイ、ロイ系のエメット・ベリーとの競演だ。出来は普通だが、三者の識別が比較的容易とあって、トーマスの個性が手短に知れる。可もなく不可もない演奏が多いなかではピート・ブラウン（as）のセッション（同年７月）、ジョージ・ウェットリング（ds）のセッション（同年12月）が好演揃いだ。前者はアピール力に乏しいが、後者ではシンプルでナチュラルな歌心が楽しめる。1945年から46年にかけても露出度が低いか印象に乏しい演奏が続く。サイドマンの立場を弁えていたという以上に、そもそもアグレッシヴなタイプではなかったことが大きいと思う。そんななかでは、1946年８月にキーノートに残したリーダー・セッションが一番の出来となった。バラードの《ブラック・バタフライ》はウォームでテンダーな持ち味が遺憾なく発揮された屈指の名演だ。これら４曲は前述した「トランペット・アンサンブル」などとともに『ロイ・エルドリッジ＆ザ・スウィング・トランペッツ』で聴ける。本セッションが1940年代で最後の録音になった。<br />
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　続く1951年と52年の歌伴、53年のリーダー・セッション（シーコ）、合わせて10曲は未聴だ。1954年３月、トーマスはバック・クレイトン（tp）の中間派セッション（コロンビア）に参加する。やや音の張りが失われているがスタイルに変化はない。テクニカルに快走する《ジャンピン・アット・ザ・ウッドサイド》は後期の快演に数えていいだろう。1958年10月、トーマスは最後になるリーダー・セッション（アトランティック）に臨む。トラッド系スウィングの好セッションになった。トーマスもまずまずだが、ディッキー・ウェルズ（tb）、バスター・ベイリー（cl）、バディ・テイト（ts）、ハービー・ニコルズ（p）！など助演陣の好演が光る。1960年代のものでは、オール・スターズ・セッションの『昔は良かったね』（スウィングヴィル）に収録されたバラード《アイ・メイ・ビー・ウロング》（61年５月）が上々だ。1974年２月、トーマスは10年ぶりにヴィック・ディッケンソン（tb）のＲＣＡセッションに参加する。吹けていない。ヨレヨレだ。老トランペッターの典型というべきで、何とも痛ましい。これがトーマスのラスト・レコーディングになった。<br />
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　推薦盤はない。リーダー録音をはじめ、録音の多くが４曲セッションとあって、名演が数種に分散している。トーマスを目当てに入手して損はないというほどのものでもない。なにかのついでに入手できたり聴けたりするかもしれないので、ジョー・トーマスという名前（くれぐれも、トランペッターです）のみ記憶に留めておいていただければと思う。<br />
　1950年以降、トーマスが参加した録音は15セッション55曲にすぎない。健康に問題があったのか、ほかで忙しかったのか、録音の機会に恵まれなかったのか、判然としない。「その時」は直前にレックス・スチュワート（co）率いるヘンダーソン楽団のリユニオン・バンドに参加、２カ月後にはリーダー・セッションに臨むなど、まずは活発な時期だった。「その時」は前列中央の左寄り、マキシン・サリヴァン（vo）の右にいる。大した恰幅で健康不安は窺えない。一騎当千のスウィング派のなかでトーマスのようなタイプが本領を発揮できる機会は乏しかったのだろう。アンダーレイテッドになる機会すら放擲したとも思える。決して凡手ではないが、名手と呼ぶにしても二番手におかざるをえないと思う。<br />
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<a href="http://www.a-great-day-in-harlem.com/index.html">A Great Day in Harlem</a><br />
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 <category>column</category>
<comments>http://com-post.jp/?itemid=370</comments>
 <pubDate>Wed, 2 Dec 2009 18:16:46 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>スウィング｜コンボ　　　　　エディ・ロック：Eddie Locke（ds, vo）当時28歳</title>
 <link>http://com-post.jp/?itemid=368</link>
<description><![CDATA[　きっかり７カ月年下のソニー・ロリンズ（ts）がいたばかりに、エディ・ロックは集合写真『ハーレム1958』の57人中、最年少の栄誉を逃した。もっとも、本人は「ジョー・ジョーンズのシンバルなんかを持ってついていっただけで、本当は撮られる頭数に入ってなかった」と冗談ぽく語っている。ハードバッパー世代だがモダン派との活動は少なく、ほとんどが中間派ジャズ（戦後のスウィング）でのものだ。1960年代以降、スウィング系ドラマーが第一線を退いていくなか、古くも新しくもない、スウィングとバップの中間を行くスタイルが重宝された。最も輝かしい経歴はコールマン・ホーキンス（ts）のコンボ時代で、最後の絶頂期と衰退期を支える。そんなわけでホークことホーキンスに続けた。<br />
<br />
　1930年２月８日、ミシガン州デトロイトで生まれる。デビュー前の経歴はわからない。1940年代の終わりから地元や周辺で活動、48年から53年にかけては同郷のオリヴァー・ジャクソン（ds）と組んだバラエティ・ショー「バップ・アンド・ロック」でも活動していた。1954年にニューヨークに移り、ディック・ウェルストッド（p）、トニー・パレンチ（cl）、ヘンリー“レッド”アレン（tp）、ウィリー“ザ・ライオン”スミス（p）、テディ・ウィルソン（p）、ロイ・エルドリッジ（tp）と共演、60年代はホークの、70年代はロイのコンボに在籍する。1980年代から90年代にかけてもニューヨークのトラッド系や中間派ジャズを縁の下で支えていた。2009年９月７日、ニュー・ジャージー州ラムゼイで逝去。<br />
<br />
　デトロイト時代の録音は残されていないし、「バップ・アンド・ロック」というチームの実態も判然としない。ジャクソンを迎えた再会セッション『ジャイヴィン・ウィズ・ザ・リフュジーズ・フロム・ヘイスティングズ・ストリート』（1977年、キアロスキュロ）は「キング・コール・トリオ」もどきのジャイヴ集で、ロックはヴォーカルに専念している。ドラマーとしての前歴は不明だが、ニューヨークに進出後、ジョーンズに師事したと見て間違いない。先の回想にあるようにジョーンズのタイコ持ちならぬタイコ運びだったし、何よりもそのスタイルは小型ジョーンズというべきものなのだ。1950年代の半ばに中間派ジャズが興隆するとジョーンズは新旧の奏法を巧みに案配したドラミングで気を吐くが、50年代の終わりに中間派ジャズが盛りを過ぎると、軽快なビートを送り出すだけの刺激に乏しいドラミングに終始するようになる。ロックのモデルは停滞期のジョーンズだった。<br />
<br />
　ロックのドラミングは次の２パターンで要約できる。スティック・ワークから見ると、テーマはハイハットのレガートから始めることが多い。ソロのバッキングではレガートをトップ・シンバルに移し、スネアでオフ・ビートまたはオン・ビート・アクセントを付け、概ね聴きとりづらいがハイハットを二ツ踏みする。タムタム、フロア・タム、クラッシュ・シンバルの使用は極めて希で、バス・ドラムはまず聴こえない。ブラシ・ワークも見事に師匠譲りの打撃系で、たまに擦り系を併用し、ハイハットを二ツ踏みしている（はずだ）。どちらのパターンでも我が家の食卓と同様にオカズ（フィルイン）は少なく、その辞書に煽るという文字はない。師匠も豪快な印象とは裏腹にスタティックなドラマーだったが、それでもソロイストに応じてバッキングに変化はつけていたし、煽りもあった。ロックはひとたびパターンを決めると十中八九それで通す。文字通り“ロック”してしまうのだ。<br />
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　参加録音は59セッション-403曲あり、54セッション-344曲が発表されている。後者の９割は中間派セッションだ。モダン派セッションはレイ・ブライアント（p）の『リトル・スージー』（1960年１月、コロンビア）中の６曲、ケニー・バレル（g）の『ブルージー・バレル』（62年９月、ムーズヴィル）、リー・コニッツ（as）の『シカゴ＆オール・ザット・ジャズ』（75年５月、ＬＲＣ）しかない。残りはブルース系が中心のヴォーカルものだ。ジャンル、リーダー、セッティングの違いにかかわらず、ロックは上述したマイペース・ドラミングに徹している。ポップなコンセプトでは単調なドラミングもそれほど気にならなかったが、推薦できる筋のものでもない。目を引いたものにふれておけば十分だろう。<br />
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　ロイの『ホワット・イッツ・オール・アバウト』（1976年１月、パブロ）では例になく気合いが窺えるが、それが普通のドラマーの水準だと言われればそれまでで、アルバムは冗長極まりない。ドラマーとしては唯一のリーダー作『エディ・ロック・アンド・ヒズ・フレンズ』（1978年５月、ストリーヴィル）も同様だ。《キャラヴァン》では豪快なロング・ソロで驚かすが、そもそも師匠の持ちネタで、ロイとヴィック・ディッケンソン（tb）が精彩を欠いているとあっては薦められない。95歳を迎えたベニー・ウォーターズ（as）の記念ライヴ『バードランド・バースデイ』（1997年１月、エンヤ）では比較的手数の多い、少しはアグレッシヴなドラミングを見せている。これが最良だとは思うが、やっと普通のドラマーの水準とも言えそうだ。目玉は年齢を悟らせない鳴りの良さとファナティックな持ち味で気を吐くウォーターズ翁で、ロックを目当てに聴くものでも買うものでもない。珍しくも「推薦盤なし」ということになったが、1999年の録音までしか追えていないので、それ以降に名演があるぞという方は、本サイトの掲示板でお知らせいただければ幸いだ。<br />
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　「その時」は修行中の身だったのだろう。1950年代の録音は白人ブルース歌手、ドック・ポーマスの１曲（50年代の中頃）と、Ｒ＆Ｂ系のオルガン奏者か、デイトン・セルビーの４曲（57年２月、ビクター）しかない。「その時」は最前列の左端から三番目、ハンク・ジョーンズ（p）の右側にいる。ロックの単調な、十年一日のような演奏を追ってくると、「その時」も以降もこういう場所には不釣合いのように思えてくる。良く言えば堅実な、悪く言えば単調なドラミングに徹するロックは、爆弾投下を好まなかったヴェテランには好ましい存在だったのだろう。前進意欲のなさを責める気はしない。57人もいれば様々な行き方がある。ロックも自分なりの流儀でジャズの豊かな伝統を担っていたのだと思う。<br />
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<a href="http://www.a-great-day-in-harlem.com/index.html">A Great Day in Harlem</a><br />
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 <pubDate>Thu, 26 Nov 2009 20:50:00 +0900</pubDate>
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